Wim Wenders "Perfect Days" が大切にするもの

Die erste Eindruck zum Film【初見の印象】

 下高井戸シネマで4月28日と30日の2回見たWim Wenders "Perfect Days" は色々考える引き出しがあって面白かった。

 

 29日の出講日には,主人公の平山(役所広司)の昼食,サンドイッチと牛乳をオマージュしてみた。大学の最寄り駅内セブンにあったのは最後の1つのチキンカツサンド——サンドイッチはこの1個で終了だった。——選択肢がないという偶然を文句言わずに受け入れるのも Perfect Day への道かな?という解釈の下に購入。

 平山は神社境内の木漏れ日を愉しみながら孤独な昼食を取っていたが,講師室には木漏れ日はない。しかし窓から見える木々で代用してみよう。笑)

 今日は授業でドイツ語版トレーラーを紹介しながら New German Cinemaの話でもしてみようか。Perfect Days はまだ公開中の映画。ドイツでは既にDVDが発売されているが,日本ではまだだ。

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 火曜出講のドイツ文学科専門科目ではドイツ語版を扱いながらディクテーションの訓練に使うべく教材を作った。作りながら,この映画の trailer にある平山の台詞は,よく考えると人生の日常では気づきなく送っている部分だとよく分かる。

 

Auf dieser Welt gibt es so viele Welten.
Manche scheinen verbunden zu sein, sind sie aber nicht.
この世界には沢山の世界がある。
多く(の世界)は繋がっているように見えても,(それらは)そうではない。

 

 私たちは自分の世界に生きている。他者は他者の世界。そういう意味では沢山の世界(viele Welten)がある。そして私と他者は邂逅し,話したり,文を送り合ったり,時には実際に面会したりと繋がってる(verbunden)ようにお互いが,あるいは自分が思うものだ。

 

 しかしその繋がりと思った糸はとても細く切れやすい,または糸がないのにあると思い違いをしている。ひょんなことで意思疎通が出来ていなかった事実,自分の勝手な相手への理解,逆もしかりによって実際には接触しただけの世界と世界でしかなかった真実に驚愕し,悲しむ時もある。否,その方が実は default だ。

 Wendersのこの映画における平山の言葉は,この厳しく寂しい真実を教えてくれる。しかしそれが「不条理なこと」「改善すべきこと」だと平山もWendersも思ってはいない。Wahrheit ist Wahrheit. (真実は真実)—— trailerの台詞 "Nächstes Mal ist nächstes Mal, jetzt ist jetzt." (今度は今度,今は今)のように。

 自分の人生に関わってきた様々な人々(viele Welten)は確かに今思えばそうだ。ただそれは時間の経過が教えてくれる客観性をもった顧慮。今この瞬間に関わっている,感情を抱いて関わっている viele Welten とはそのような「客観的な頭」で結びついているとは思えないのがヒトの性なのかも知れない。

 

 自分が最初ある人と邂逅して,繋がりたいと思ってそれが表面的には実現したとき,自分は繋がったと嬉しく思う。しかしよくよく繋がってみるとそれは実際は違うことに気づく。相手のあるものは互いの接続意識・繋がっている意味が異なるのだ。たとえ家族や恋人であっても。そのときに平山の言葉 sind sie aber nicht. が現実味を帯びてくる。これを悲しいと受け取ればただの失恋であり運命の悪戯であり,(人によっては)裏切りと理解する。

 しかし平山はそれを default だと達観する。だからこれはマイナスの事でもないしプラスでもない。flat な人生のぶつかり合いなのだ。だから彼は孤独を一生懸命に生きている。

  あのトレーラーの言葉に私なら以下の台詞を加えてみたい,そう思った。

 

Meine Welt gehört nur mir, deshalb lebe ich sie mit der besten Bemühung, um meine Welt zu ergänzen.
自分の世界は自分だけのもの。だからベスト尽くして,自分の世界を完全にするために,みんな生きている。

 

 

Gedanke an Hirayamas Vergangenheit【平山の過去を考える】

 Wim Wendersは配給会社ビターズエンドのロングインタビューで,映画では描かれていない平山の過去について,役所広司にメモを送ったことを開陳した。そのメモの内容をここで紹介するのはやめよう。実際のインタビューを見ればよく分かるから。

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 自分も鑑賞後平山の過去について考えていた。妹が彼のアパートに車で乗り付けた時に,そのヒントはあった。

 ①運転手付きの黒塗りのレクサス

 ②お土産に持ってきた,鎌倉のお菓子

 妹が運転手付きの黒塗りレクサスに乗ってきたということは,妹は父親を継いで社長業をしているか,結婚相手(婿養子)が社長をしているかのどちらかだろう。お土産から分かるのは幼いときから鎌倉在住であること。鎌倉に住んでいるから鎌倉の企業とは言えないが,最初は「江ノ電」や「鳩サブレーの豊島屋」の社長が父親であるイメージをもった。父親と決裂して和解せずに今に至っている。そして妹の台詞「兄さん,本当にトイレ掃除しているの?」—— これはおそらく父親と決裂するときに「トイレ掃除でも暮らしていけるんだ!」と啖呵を切ったのではなかろうか。または父親が,「お前なんか人が見下す仕事など出来ないくせに。トイレ掃除とかな。かっこいいことを言うんじゃない!」とでも言われたのであろうか。平山は始め父親の会社でメキメキと業績を上げて,次期社長として経験とスキルを積んでいったはずである。しかしそこに疑問が起こったのだ。たとえば,会社の利益のために人を不幸にして,悲劇に陥れて,それが素晴らしい売り上げになることになんで喜べるのか?

 

—— これから語ることは空想の世界での創作に過ぎないが ——

 中堅の家族経営が可能な規模の建築会社を経営していて,地上げをしてディベロッパーとして様々な下請けに仕事を手配する,そんな仕事を平山がしていたとする。平山は当初,有効活用できる,居住者が安心して豊かな生活が送れる都市計画のために,地権者から土地を買収し,下請けに仕事を手配し,建った建物の居住者を募集していた。ところが,土地の買収では,先祖代々の土地を売りたくない人,狭小ながらも今の建売住宅にローンを払いつつ幸せに満ちた暮らしをしている若い家族らの反対を押し切って,無理矢理にでも必要な土地を買いたたかねばならなかった。下請けに対しては,腕の良い職人も必要だが,手の抜けるところは工賃のより安い所に差配し,会社の利益を上げることを父親から強要されたかも知れない。また施工に関して,あの頃問題になった確認申請の虚偽や確認していないのに建築確認書を出してしまう会社へのオファーを伝授されたかも知れない。そこには様々な利益追求の手段と,人のぬくもりをそぎ落として目的実現のために実行する決断力が求められたのかも知れない。生まれつき優しい男の平山はそんなビジネス・スキルを快く思っていなかった。経営者である父親に別の方法で出来ないのか,俺たちの会社がやりたいことは,地権者も居住者も満足する生活ではないのか,と一席ぶったかもしれない。そこで父親が烈火の如く怒り,

 「若造のお前に何が分かるか!俺は焼け跡から一代でこの会社を築いた。最初は誰もが見下す便所掃除から成り上がってここまできたんだ。お前に指図される筋合いはない。嫌ならこの会社から出て行け!」

 平山は積もり積もった理不尽を爆発させて,

 「いいとも,父さん,辞めてやる。金を儲ければ人は成功者だなんて呆れたもんだ。あんたが見下す便所掃除だって豊かな人生を送れるんだ!」

 こんなやりとりをして家を出て行ったのではないか?

 

 平山はたたき上げの父親の希望で「良い暮らし」「上流階級のような生活」を実現すべく,良い学校,良い友達,良い環境を強いられたと私は考える。家庭教師がつき,公立ならば都立日比谷や九段のような高校に通い,東大の経済学部とか早稲田の政経学部に通った。(建築学科とか土木工学科ではないと思う。法学部でもない雰囲気がする。あくまで社長としての力量を磨くべく経営の学部に行った気がする。そして学部卒業後はMBAを取りにアメリカに留学したのではないか?次期社長の箔を付けるために)でも,彼自身はキャンパス内で学生運動に影響も受け,洋楽に耳を傾け,人生を交差させる小説を読み耽った学生生活ではなかったか。好きなことと,親から「こうしろ」といわれたことが明らかにあったはずだ。それは妹の娘への言動「早く荷物取ってきなさい,早く…。」をみても,父親をついだ妹は娘に自分が父親から強いられた言動を無意識に繰り返しているように見えた。

 

この映画を彩る謎の小道具達,しかしそれが不自然を醸し出している

 映画「パーフェクト デイズ」には鍵となる小道具が散見される。映画内で一番顕著なのはカセットテープの存在だ。平山はカセットテープを沢山所有している。トイレ掃除に向かう車内でも,帰宅してからもカセットの楽曲を聴いている。しかも当時ものだ。でも,1970〜80年代に洋楽のセルカセットを買ってラジカセで聞きまくっていた人って?

 

 映画でカセットを初めて見るような若い方には分からないことかもしれないが,平山のカセットコレクションは相当なものである。なぜなら,私は1965年の生まれだが,私の世代で洋楽のセルカセットを購入していた者など多分いないからだ。買うならばレコードだ。カセットはラジオから流れてきた楽曲を録音するための媒体で,我々は音質の良いFMラジオで好きな音楽が流れるのを番組表や「FMファン」というラジオ情報誌から知り,TDKのADとかSONYのBHFカセットで録ったものだ。こうして録音した音楽を集めたカセットをラジカセやご自慢のステレオコンポで再生して楽しんだのが日常だ。つまりセルカセットは買わない。楽曲を買うならばレコード。レコードからカセットにダビングして大事に聞いていなかったか?

 

 レコードと同じように販売されていたカセットを購入するのはレコードプレーヤーを持たない者か,セルカセットを消費財として買い換えることすら出来る金持ちでなければしない。車でカセットを聴くことは当然あるが,それはガソリンスタンドで売っているもので,洋楽はどうだろうか?しかも洋楽の場合,日本で制作しているのは限られていたはずで,平山のコレクションは輸入品ばかりのように見えた。当時日本であれだけの洋楽(しかも日本製には見えない)カセットを揃えている店なんか,石丸電器のレコード館くらいしかないはずだ。

 

 もしかしたら,平山のあの洋楽コレクションは——僕の推理では——日本で買ったものではないのでは?彼はもしかしたら留学していた?留学先でカセット買いまくっていた?Wim Wenders のような欧米人にとっては1970年代にポップスのカセットをレコードのように買って聴いているのは普通のことだったかもしれないが,日本では全く違うと思う。この違和感は私だけが抱いているとは到底思えない。共同脚本の高崎氏はこれをどう思っていたのだろう?電通マンのイメージはそこまで時代考証が行き届かなかったのか?それともWenders のイメージに押し切られたか。そしてそのカセットを聴くためにアパートにあるSONYのラジカセ CF-1980。モノラルのラジカセであるが,ミキシングが出来る優れものであった。1974年発売発売価格42800円,現在でも中古品が高い値段で取引されている。ただし,1974年発売のモノラルラジカセを平山が使い続けていた場合,10年も経てば修理が必要で,2000年代まで故障無しで生き延びてもカセットのヘッドやピンチローラーが経年劣化で再生しても音がダメダメのはず。

 

 次に私が気になったのは朝,玄関の棚にあるアイテム達。鍵や小銭など順々に拾ってポケットに入れていく。最後に小銭のトレーに手を伸ばすのだが,そのトレーの隣にある腕時計には触れない。腕時計を身につけるのは,休日のみだ。コインランドリーで洗濯物を片付け,文具店兼写真屋でフィルムを出すと同時に白黒プリントを回収し,その後石川さゆり演じる居酒屋に向かうときだけ。チラッとしか腕時計は出てこないが,どう考えても平山の時計は機械式のものだろう。バンドは革バンドが付いていた。古いものを大事に使っている平山ならば,その時計は若い頃の時計を使い続けているのではないか。日本製の時計ならばセイコー一択のように思う。しかし,洋楽カセットの件を考えると,留学中に,あるいは海外駐在中に時計を購入したかもしれない。その場合は何だろう?スイス製の時計?あの写真から見るとちょっとしたドレスウォッチ感がある。間違っても無骨なロレックスやオメガではない。アメリカに留学してたら老舗ブランドのウォルサムかな?時計は彼にとって休日の気分を満喫するためのアイテムなのだろう。仕事にしていかないのは時間ならガラケーで間に合うからだ。時計は平山のアクセサリーなのだ。この感覚は自分もよく理解出来る。自分も本業と副業,OFFの日で選択し身につける時計が違う。副業の日には秒単位で時刻合わせを必要とするミリタリーウォッチ,本業用には時刻表示が明瞭なアラビア数字が文字盤に書かれたクロノグラフ,OFF用には文字盤に数字のないドレスウォッチと分けている。

 

 そしてカメラ。オリンパスの名機 μを愛用している。これはWenders のカメラマン Franz Lustig が最高のコンパクトカメラだと推薦したそうだ。恐らく平山が使っているμは35mm単焦点レンズでシャッタースピードは1/15〜1/500秒の初代機(1991年発売)であろう。これに彼はいつも白黒フィルムを入れている。映画で購入していたフィルムはトイカメラのブランド HOLGA の白黒フィルム ASA400。ここで疑問だ。なぜ白黒フィルム?なぜHOLGA?フジのネオパンではダメなのか?

 まず白黒フィルムは今はカラーフィルムよりもマニアックで撮影するのは難しいアイテムだ。しかも平山はマニュアルではない,自動焦点自動露出のカメラで撮っている。2020年代,写真フィルムは昔に比べて単価は高くなった。そしてカラーよりも白黒の方が値段も張る。36枚撮りⅠ本1300円以上する。そして毎週Ⅰ本現像する。今では白黒を同時プリント出来る店はほぼないからⅠ週間かかるのは至極妥当。ただ,同時プリント代金はヨドバシカメラで880円の現像代にプリント代が1枚85円。36枚撮れば3,060円,つまり1回写真屋に行けば1,300円+880円+3,060円=5240円かかる。これを4週間続ければ月20,960円の出費だ。決してエコノミーな趣味ではない。にもかかわらず平山はできあがったプリントを1枚見ては破り,Ⅰ枚見ては缶に入れという作業をする。端から見てもハラハラするくらい勿体ない行為だ。そもそもファインダーを覗かずに写真を撮っている。偶然性を狙うにも画角も気にしないのか。腰の辺りで構えて撮影したら映画に出てくるような枝と葉っぱだらけの木が写るはずがない。画角がもっと広くなるはずだ。これはフィクションの世界のなせる業である。

 

 帰宅してからの足,自転車。これも結構お洒落だ。特に前カゴが素敵だ。どなたかが指摘していたので,確認したのだが,平山が乗っている自転車は1954年製造のイギリス Rudge and Whiteworth。ネットで探すとビンテージもので198,000円の値札になっていた。当時は日本のライセンス生産品もあったそうだ。その自転車に装着した前カゴ,藤風のワイドバスケットはかなり注目を引く。昔の自転車を乗っている設定なのか,それとも新たにビンテージの自転車を手に入れるような美観の持ち主ということか?物語の筋から考えれば平山がなけなしのお金でビンテージの自転車を買うとは思えない。勿論 Wenders の美意識によって選択されたものだろう。ヨーロッパに行けば,あの手の古い自転車は普通にあるだろう。だが,日本でああいう自転車を,今持とうとしたら金持ちでなければ買えない。美術担当の桑島十和子は平山の日常をどう思って小道具を集めていたのだろうか。

 

 以上のように,トイレ清掃のパート職員が細々と暮らしている風景に使用されている小道具は,実は2023年時点では決して清貧を表現できるような粗末で廉価なものではないのだ。映画では寂れて見えるが,それは平山の暮らしぶりから想像される美意識の象徴で,その象徴をモノで表現するとき,現代ではプレミアムが付いて高額になっているものばかり。当時モノを長く愛して大事に使っているという前提ならば,現代のこの事実は皮肉そのものだ。清貧であろうと使い続けてきたものが高額商品として取引されている。平山の心豊かな暮らしが数値換算されてレトロな高額商品を身の回りに置いた贅沢な暮らしだと結果的にはなっている。

 

 平山が着ていたレインコートも印象的だ。スタイリッシュである。絶対にダイソーやキャンドゥで買ってきた安物ではない。下手すれば10,000円以上するかもしれない登山用のレインコートにも見える。低賃金のパート職員が気軽に買える品物には見えない。

 

 映画というフィクションだからそこはイメージだと思ってほしいと言うのだろうか。まぁ,そもそも平山の住んでいるボロアパート,二階建ての間取りも奇妙だ。その上あの規模でシャワーすらない?のも不思議。毎日平山が銭湯に通うとしたらかなりの出費になる。520円×30日=15,600円。

 

 平山の日常を現実に体験しようと突き詰めれば,大分首肯出来ない,イメージ先行のCMのようなシュールさが露呈する。自分が映画館で見た印象だと,この映画の観客は50〜60歳代の人々が多いように感じたが,彼らがこの映画の音楽が流れていた時(1964-75年)には,未だ小学生くらいの年齢だ。あの音楽を青年期(16〜22歳)聞いていた人々はどんなに若くても1959年生まれ,最年少でも65歳のはず。(1975年に16歳の計算でこの年齢になる。)最年長は1942年生まれ,つまり82歳。 Wenders が78歳,三浦友和が72歳,役所広司は68歳。平山が役所と同じ年齢(1956年生)ならば,この映画で使われている音楽をリアルタイムで聞いたとすれば8〜19歳になる。どう考えてもリアルタイムでカセットを買える年齢ではない。また,カセットは1966年ごろに日本市場に初めて登場した。セルカセットの全盛期は日本ではソニーウォークマン登場(1979年)まで待たねばなるまい。ラジカセの全盛期は1970年ソニーのCFM-8120発売から〜1980年代くらい,自分も持っていたCFS-D7(1979年発売当時79,800円)が頂点だったように思う。
 こう考えると,平山は60s〜70sの音楽をリアルタイムでは聞いておらず,青年期にオールディーズとして好んで聞いていたと想定するしかない。ウォークマンや自動車のカセットデッキ(昔は8トラックだったが,カセットデッキは1970年代後半くらいから盛んに付けられた。)で聞いていた。今持っているラジカセ(CF-1980)は彼が18歳の時に登場した。彼は23歳でウォークマンと出会った。オールディーズはこの1975〜80年代に親しんだに違いない。

 この小道具の時代のばらつきは Wenders のイメージが起こしていることなのかと思われるが,しかしイメージ戦略的には実際を知らない40歳以降の人たちには「いかにも昔の…」の感があるのだろう。正直なところ,電通(高崎卓馬)とUNIQLO(柳井康治)が作った(東京の風景と渋谷区のトイレプロジェクトの)宣伝広告としての映画だと思えば妙に納得してしまう陳腐さがある。

 

音楽の効果

 この映画では音楽が非常に効果的に使われている。映画全体の台詞の量が非常に少ない。特に主人公の平山は殆ど喋らない。そこで彼の心理が挿入曲の歌詞で代弁される構成になっている。

 一番顕著なのがラストシーン。朝焼けに車を走らせ現場に向かう平山。車窓から見える彼の笑みと哀しみを堪える表情。ナントも複雑な顔つきを役所広司が演じているのだが,ここで流れている音楽 Nina Simone “Feeling good” もサビが印象的だ。

 

New dawn, New day, New life …

 

 映画中に流れる楽曲の歌詞には字幕表示はない。視聴者は自ら英語を理解して映像と合体させねばならない。洋楽を歌詞ではなくメロディ,雰囲気中心で聴いている人はこの映画の肝心なシーンを楽しんでいないことになる。この結末場面は音楽で締め括る大事な部分だから歌詞といえども言葉の力が大きなウエイトを占めている。日本人に理解してもらうためには字幕表示は必要ではないか?

 

 自分が見た2回とも観客の多くは60歳以上の夫婦ばかりに見えた。30代以下は極端に少なく見えた。彼らにとっても雰囲気で理解する以上に言葉の力を示した方がわかりやすい気がする。

先ほども述べたが,この映画の音楽は1964〜75年のオールディーズであり,観客の年齢層が60歳代前半でも,実は共感するにはちょっと年代的にズレている。今の観客が聞き込んだ曲ではない以上,大切な部分は曲の歌詞を斜体字で字幕化した方がよいのではないか?少なくとも日本版では。(欧米人には不要なことかもしれないが。)

 

ミニマルな生活の位置付け

 平山の生活を羨ましく思う人々がいるかも知れぬが,私はこの平山のミニマルな生活は平山が過去を通過して選択したものであり,最初から希望したのではない事に重きを置きたい。それは例えれば古今東西の様々な特徴的な料理,デミグラスソースを使った西洋料理や,スパイスをふんだんに配合したインド料理,ラム肉に濃い味付けをして串焼きにしたトルコ料理,山椒と唐辛子を効かせた四川料理,海鮮の豊かさを餡掛けで封じ込めた広東料理などを味わい尽くしたその先に,ボイルしただけの,ソースではなくシンプルに塩でいただくオマール海老に感動する様なものではないか。

 平山は贅沢な生活をこれでもかと生きてきた男だと思う。それがどんな贅沢をしても心は豊かにならない事に気づいて,シンプルな,最小限の生活空間と様式を選び,慣れ親しんだ音楽と興味深い文学を中心に据えて生きていく。カメラは記録を意味する。白黒フィルムで撮る木漏れ日は彼の見る夢の記録としての存在に思える。葉と葉が重なり合ったり離れたり揺れ動く木の姿。木漏れ日はその姿を照らし出す光の魔法だ。平山はいつしかこの木漏れ日に興味を抱き,記憶する夢の残像として記録することにした。だから写真に収める行為をルーティンとしているのではないか。記憶だから,夢だから白黒フィルムにこだわる。なぜならこの年代の人は夢を白黒で見るからである。(カラーテレビ以降の世代は夢をカラーで見るのが普通らしい。)平山はシンプルな生活を楽しんでいる。清貧であることを楽しんでいる。決して貧しいから仕方なくこのような生活を営んでいるようには見えない。余裕のある気持ちで過ごす清貧である。ここが最初から貧しい人の暮らしとは違う。定年退職した高齢者夫婦がこの映画を見て憧れるような気分になるのはその余裕ある清貧だからだ。若い人はこの点を誤解してはならないと思う。持たざる人が持たざる生活をずっとしているのではない。持っていた人が持たざる生活を選んで暮らしているという事実を。

 最初からミニマルな生活を良しとする人物ならば,学生時代から家を出て行ったはず。彼の過去はそうではないと思う。膨大なカセットは平山がミニマリストでない事を暗に示唆している。では裕福な時代の貯蓄があった上で,ミニマルな生活をしているのか?それはあり得るとは思う。ただし貯蓄があるならば,財布の現金がないからとガソリンを買うためにカセットテープを売る必要があるか?キャシュカードで下ろせば良いだけの話ではないか。ここに彼の生活の謎がある。年齢的には第二の人生を送る年齢に見えるので,第一の人生時代の貯蓄,退職金は?ということになるのだが,この映画の話ではこうした貯蓄が問題になっていない。

 言えることは平山はホームレスでもないし,生まれてからずっと貧乏で過酷な人生を送ってきた人でもない。貴族がその身分を捨てて隠遁生活を送っているような様子なのだ。まだ持たざる生活から発展していない若い人が,平山の暮らしを自分と同じだと思ってはならない。若い人は持たざる生活から持てる生活へと豊かに進むべきである。そこで人が豊かだと思うのは一体何が原因なのかを人生を歩みながら考えていくべきなのだ,平山の境地に近づくにはこの道のりが絶対必要だ。平山の精神,気持ちを追体験するには,禅の境地に繋がるミニマリズムへの悟りが必要だが,それは貧困で不満だらけの生活をしている人にはやってこない。欲しくて欲しくて飢えている人も無縁である。皮肉な言い方かもしれないが,物質的に満ち足りた経験をした人が,その満ち足りた生活の充実感に不安を感じてこその,持てるものをそぎ落としてそぎ落として初めて到達した,精神の充足感。まさに阿耨多羅三藐三菩提。人は通過してこそ到達できる場所がある。それが平山の今の暮らしなのだと強く感じる。物量をできるだけ減らし,こころの贅沢を彼は楽しんでいる。だからこそ,この映画はリタイア組が共感しやすい映画なのだ。

 

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