今年の「稲川淳二詣で」も今日で終了した。8月の中野、そして本日の関内。話の内容は基本的に同じだが、導入の部分が違ったりする。喜寿を迎えて近頃は話力にも優しさ、慈愛が感じられる。勿論中身は怪談だが。
この人の話に惹かれるのは、自分では小泉八雲の作品と同じく、人と人の縁がキッチリと描かれるからだ思う。
怖い現象が起こるには理由がある。(これは最近隆盛の実話怪談では出来ない。なぜならそれを可能にするには霊現象という事案を完全に解明しなければ説明が成り立たないから。)
その理由が思いもよらなかった他人と自分に結ばれた関係性にまつわる謎解きを稲川淳二は、素材の組み合わせで創作する。コレが素晴らしい。我々が文化を魅力的に思ったり、好む原初は人間の営みによって出来ているからだと思う。人の関わらないものを文化と呼び、それを愛でる事例は極めて稀では無いだろうか?自然のなせる技は美しい感覚を呼び覚ますが、そこに情や熱意、固執が見られないと飽きてしまう。動物や植物を愛でるときに無意識に擬人化することで人はそれらと長く付き合い続けられる。飼い主は動物に語りかけ,園芸を趣味とする人は植物に触れたり水をやって意思疎通を試みるではないか。逆に植物からできているものでも,タバコを無意識に擬人化する愛煙家はいるだろうか?
こうした人の存在が稲川怪談にはある。後から旅行に合流した女の子が体験する、既に投宿していた友達の恐怖体験。そこにかかってくる電話。「幽霊だから取っちゃダメ!」と叫ぶ友人の懇願をよそに受話器を耳に当てた主人公が聞く驚くべき内容。「え?みんな部屋にいますよ?」ーー部屋を覗いて驚愕する彼女。今までいた友人がおらず、電話の主である宿屋の主人から聞いたのはその友達の死体が海からあがったという知らせ。そして先ほど友達が話した海で死者の女に脚を引っ張られた話。上がった死体の脚にはしっかりと握っている腐乱した女の腕が…。もし彼女が電話に出なかったら,彼女の身の上には何が起こるのだろうか?
こうした幽霊となった知人や他人が生きている人を引きずり込む話は,小泉八雲の “Of A Promise Broken”(「破られた約束」)や “The Recolitation”(「和解」)に見られるが,「和解」などはもとはと言えば「今昔物語」だったりするので,人と人の関係を恐ろしく語るのは今に始まったことではない。「死んだ人よりも生きている人の方が怖い」とはよく言ったものだが,怪談というのは「死んだ人を生きている人のように『幽霊』として扱った人間関係の恐ろしいエピソード集」と捉えても良いのではなかろうか。
面白いのは,”Of A Promise Broken”のように幽霊が人を引きずり込むパターン,例えば崖から落ちた車から人が這い上がってきて助けを求める,夜中の山道で女性が車を呼び止めて一緒に○○さんを探してほしいと頼む,夜釣りをしている人に,「こっちの方が釣れますよ,一緒に如何ですか」と誘う釣り人など,幽霊は死んでしまった自分を見つけてほしくて登場する。言い方を変えればアイデンティティーを確立したいが故の幽霊登場だ。自分の存在を忘れてほしくないから幽霊となってその思いが表象化する。少なくとも怪談文学の世界ではそうなっている。もし静かに,人知れず自殺したいのなら,幽霊になって出なくてもよいのだが,そこが怪談話では自殺者も幽霊で登場する。自殺者も自分が自殺したことを認識してほしいということか?東北のさる裕福だったお嬢さんの話のように,体表にできた見にくいできものの難病に苦しむ若い娘が選んだ,人から隔絶した森の中での孤独な生活。そこで人知れず亡くなったのだが,訪ねた稲川にはその存在が姿を現した。でもそれは人里離れたその家に侵入して体験したわけで,侵入しなければ幽霊は人知れず暮らしているだけで何も主張しない。こんな例もある。
一方で “The Recolitation”のように幽霊が過去に関わった人間の前に現れて過去の美しい時間を追体験する怪談話は稲川怪談では「蛍火」や「流星号」,「北海道の花嫁」のようなエピソードだろう。こういう怪談は人情味があるだけではなく,美しい。雪の中の線路脇に立つ女の話も幽霊である女は無理心中してまだ見つけてくれていない自分の子どものために出現する。雪解けして遺体が見つかって初めて,刑事は死んだ女の所持品だったレシート,最後の晩餐がお子様ランチとサンドイッチだった理由に気が付く。
稲川怪談で一番嫌な話だなぁ,と思うのは宿屋に泊まって幽霊に殺される話。宿屋の女主人たちが幽霊で,宿泊した二人の女性のうち一人をショック死させてしまう。買い物から帰ってきたもう一人が宴会場で亡くなっている友人を発見するが,そこに女主人が登場し「今度はお前の番だ」と襲いかかろうとする。主人公は宿から逃げ出して先ほど降りたタクシーに乗って警察を呼ぶ。結局友人はショック死でかたづけられたが,女主人達の遺体が見つかったわけでもなく,その宿屋にどんな曰く因縁があったのかもわからず,ただただ幽霊がアグレッシヴに殺人を犯す話だ。こんな幽霊に出会ったら,命がいくつあっても足りない。殺しはしないが,「ユキちゃん」とコタツの中までも見知らぬ声が追い詰めてくる話も嫌な話だ。何がしたいのかわからないことが怖い。
稲川最強怪談といえば誰がなんと言おうと「生き人形」ということになるが,生き人形の話の怖さは,人が巻き込まれて死んでいるだけではなく,現在進行形であることだ。しかも幽霊は人間ではなくて人形なのだ。急死した久慈霊運が言い遺した,人形にとりついたといわれる様々な思いが人形遣いの前野氏を筆頭に関わった人間の人生を壊してゆく。それが怖いのだ。しかも様々な思いの詳細な内容がわからない。話し手だけが知っていると思われる最後の決着は稲川家に関わることらしい。
やはりどれを取っても稲川怪談の根幹は人と人の連関だ。そしてどれも問われているのは幽霊になった人の raison d’être なのだ。生まれたくなかった自分が自殺して幽霊となって人前に姿を現し,「なぜ私を産んだのだぁ〜」と呪う怪談話はない。「思い」=「思念」が強くて人を驚かせる現象が起こる引き金は「ここにいるぞ!」の気持ちなのだ。人間なんて遺伝子を運ぶ船にしか過ぎないと認識している人は恐らく自身が幽霊になることも,幽霊が見えることもないだろう。仮にそういう人に幽霊が姿を現しても,人間と人間の関係を拒絶しているニヒリストに存在価値を主張しても理解して貰えないから出るだけ無駄だもの。幽霊だって人を見て現れるものさ。