旧約聖書と言えば原典はヘブライ語である。しかしこの原典を読める人々はユダヤ人でも伝統的に男性だけだった。
さらにディアスポラによって各地に離散したユダヤ人はその地の言語を覚えていくので聖書を原典で読める人々は更に減っていく。
そうしてヘブライ語が出来ないユダヤ人のために古くは72人訳ギリシア語訳旧約聖書,通称 Septuaginta が成立した。
そういう聖書翻訳の伝統は実はユダヤ人にもある。
ここにユダヤ人によるドイツ語訳旧約聖書が2冊と,イディッシュ語訳が1冊ある。紹介しよう。
1.Moses Mendelssohn訳
ドイツ語圏に渡ったユダヤ人(Ashkenazim)たちはユダヤ人訛りのドイツ語イディッシュ語を話すようになるが,哲学者の Moses Mendelssohn はキチンとしたドイツ語をユダヤ人も話すべきだと啓蒙運動を展開した。これが俗に言うハスカーラー運動で1780年頃ベルリンで始まったそうだ。この運動で最も有名な人物が Moses Mendelsohn (1729-1786)だ。彼の孫はあの音楽家のメンデルスゾーンであることは知る人も多かろう。そして劇作家Lessingの『賢者ナータン』の主人公ナータンはこの Moses Mendelssohn がモデルだという。
2.Martin Buber訳
『我と汝』で有名な20世紀の哲学者Martin Buber(1878-1965)はイディッシュ語とドイツ語が母語の環境下で育った。1924年にフランクフルト大学教授となるが,ナチス台頭後失職する。1938年にドイツを出国しエルサレムに移住,彼の地でヘブライ大学教授として1951年まで教壇に立った。このBuberは同僚の哲学者 Rosenzweigと1924年から旧約聖書をドイツ語訳し始めた。戦争を挟んで1958年に完成した。
二つのドイツ語訳聖書はユダヤ人の翻訳聖書として大変重要視されている。しかし比較をしてみると,二つの聖書は同じヘブライ語原典から独自の見解を示しているのが分かるのだ。
創世記の冒頭,たった4行だけだが,共同訳聖書の翻訳によると以下の通りである。
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、
…
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。「始めに神は天と地を」
チョットお遊びで比較してみようじゃないか!
(Moses Mendelssohn)
Im Anfang erschuf Gott die Himmel und die Erde.
Die Erde aber war unförmlich und vermischt,
….
Da sprach Gott: “Es werde Licht.” So wurde Licht.
Gott sah das Licht, dass es gut war,
(Martin Buber)
Im Anfang schuf Gott den Himmel und die Erde.
Die Erde aber war Irrsal und Wirrsal.
….
Gott sprach: Licht werde! Licht ward.
Gott sah das Licht: daß es gut ist.
(Jiddisch)
In anheyk hot got kashafn dem himl un di erd.
Un di erd iz neven vist un leydik,
…
Hot got gezogt: zol vern likht. un es iz gevorn likht.
Un got hot gezen dos likht az es iz gut;
まず1行目の動詞の選択から好対照だ。
メンデルスゾーンは神の創造を意識した動詞,erschaffen を使っている。通常 erschaffen を人の主語にするとまるで神の様に何かを創造したというニュアンスになる。
一方でブーバーは主語が人でも使える動詞 schaffen(ゼロから創り上げる) を使った。
そして הַשָּׁמַ֖יִם (ハッ・シャマイーム)「天」をメンデルスゾーンはヘブライ語原典通り複数形で訳している。ブーバーはドイツ語の常識に合わせて単数形にしている。ヘブライ語原典で複数形の「天」にはもともと単数形がないのでブーバーは実践的に訳したといえよう。
イディッシュ語訳で顕著なのは,この言語には動詞の過去形が存在しない。よって前二者が過去形で訳している動詞部分を,現在完了形にしている。
「天」は単数形になっている。
二節目前半の共同訳では一言「混沌」
とされている部分は,ヘブライ語原典では תֹ֨הוּ֙ (トーフー)「形がなく」, וָבֹ֔הוּ (ヴァ・ボーフー)「そして何もなかった」と書かれている。
メンデルスゾーンは unförmlich 「形がない」 と訳しながら,その後は vermischt 「まぜこぜになっている」と混沌を具体的に表す言葉に訳し変えている。
ブーバー訳は Irrsal und Wirrsal と古代高地ドイツ語からの雅語「迷い」と「混乱」を使っている。ここでなぜブーバーが形容詞 irreとwirrに大変古い名詞化語尾 -sal を使ってIrrsal, Wirrsal としたのか,これはヘブライ語原典が「トーフー」「ボーフー」と脚韻を踏んでいるからだ。とても凝っている。
イディッシュ語訳は vist un leydik (= wüst und ledig)と後半の形容詞をまさに「空っぽ」に充てている。
三節で顕著なことは,
メンデルスゾーン訳は置き字のesや副詞的接続詞 so を使って,Licht「光」を二回とも文末に置く修辞法を採用している。
なぜならば,ここはヘブライ語原文では יְהִ֣י א֑וֹר (イェヒ・オール)「光あれ」 וַֽיְהִי־אֽוֹר׃ (ヴァ・イェヒー・オール)「光があった」と オール「光」を最後においてのリズムがあるからだ。
一方のブーバーはこれを文末ではなくて文頭にして,Licht werde! Licht ward. とともに2音節文で表す。こうすると原文のイェヒ「ある」+オール「光」の2音節文に次の文はヴァ「完了の接辞」がついたシンプルな表現であることを連想させるのだ。そこでブーバーは werden「なる」 の過去形をメンデルスゾーンが使っている通常の過去形 wurde にせず,雅語の過去形 ward にして文全体を2音節に保たせている。
イディッシュ語は接続法Ⅰが使われず助動詞 zol (=sollen)を使って,(標準ドイツ語で逐語訳すると)Licht soll werden. としてある。過去形はないので,その後は完了形で Und es ist Licht geworden. と長い文になっている。
四節で最も問題視すべき事がある。
それは,メンデルスゾーンは dass es gut war と過去形で訳した部分をブーバーは daß es gut ist と現在形にしている。イディッシュ訳も es iz gut と現在形だ。これはどういうことか?因みにルター訳も欽定訳(King James Version)も過去形だ。現在の口語訳は全部過去形で訳してある。なぜメンデルスゾーン訳とイディッシュ語訳は現在形なのか?これも実はヘブライ語原典に理由があるのだ。
וַיַּ֧רְא (ヴァヤルー)「そして見た」 אֱלֹהִ֛ים (エロヒーム)「神は」 אֶת־הָא֖וֹר (ハーオール・エット)「その光を」 כִּי־ט֑וֹב(キー・トーヴ)「まことに・良い」
実はここは直訳すれば Und Gott sah das Licht sehr gut (= And God saw the light very good)という構造になっていて,コピュラ動詞である sein (= be) が書かれていない。よって ist か war かは訳者の判断によるのだ。
ギリシア語72人訳 Septuaginta はヘブライ語原典と同じく,
καὶ εἶδεν ὁ θεὸς τὸ φῶς ὅτι καλόν.
とὅτι (= dass) καλόν(=schön) とコピュラ動詞を書かずに記している。ユダヤ人の翻訳である Septuaginta はヘブライ語原典に執着しているのだろう。同じ箇所はヒエロニムス訳ヴルガタ聖書では,
quod esset bona
とコピュラ動詞として esset (接続法未完了過去)を加えている。キリスト教徒はヘブライ語原典に固執していないのか?ただコレで分かるのはヒエロニムス訳のこの表現が,ルター訳や欽定訳に影響を与えて
daß das Licht gut war
that it was good
過去形を充てさせているのかもしれない。
たった4行の翻訳だが,これだけ色々な事が言えるのは大変面白いではないか!