Kuno FischerとGoethes Faust

日本で哲学が学ばれ始めた頃、つまり帝大ではフェノロサが英語で哲学を論じた。学生の共通の外国語が英語だったからだ。これは漱石をはじめ、井上圓了,西田幾多郎,阿部次郎,九鬼周造和辻哲郎を教え子に持った有名な Raphael von Koebel の時代もそうだった。しかし西洋哲学を学び取るには,英語だけでは不十分で,ドイツ語は勿論のこと,ギリシア・ラテンの古典語の知識が不可欠だ。Koebelは学生にそれを説いていた。このKoebelが大学時代に師事した教官に,哲学でドイツ留学した最初の日本人は学ぶことになる。

日本で最初に哲学を講義した日本人,井上哲次郎が留学(1884-1890)したハイデルベルク大学には当時 Kuno Fischer(在任期間1872-1903)がおり,親しく指導を受けたようだ。 この時Kuno Fischer は主著『近代哲学史』を既に上梓していた。(1852-)

Kuno Fischer (1824-1907)

井上の後輩で日本人が最初に記した『西洋哲学史要』の著者波多野精一は,件の書籍の主要参考文献は Fischerの『近代哲学史』だと告白している。

東京大学の哲学教授として21年間君臨したRaphael von Koebel が Fischer の下で博士論文を書き上げたのは井上が留学する3年前。
井上留学中は丁度私講師として活躍を始めた頃だ。


この Fischer が1877年に出版した Goethes Faust は大正2年森鷗外によって抄訳された。同年完成した鷗外の全訳に並行して,『ファウスト』の世界を理解してもらう為に鷗外は Fischer のこの本を訳し『ファウスト考』として供したのである。

とは言っても大正2年のファウストブームは,帝劇を5日間連日大入満員にした割に劇への理解は乏しかった。

大正2年(1913年) 3月27-31日 帝劇のファウスト(近代劇協会)

それを予期してだろう,鷗外はFischerを全訳ではなく抄訳した。これは筋の把握と解説が目的だからだろう。第二部終結部分もファウストがグレートヘンに導かれ,昇天する傍ら神秘の合唱が語られる流れしか紹介していない。

だが,Kuno Fischer は哲学者であるから,筋の流れを解説する「ファウスト物語」を著したのではない。この昇天にはどのような意味が込められていると解釈すべきかを最後に書いている。残念ながら,鷗外の抄訳にはそういった肝心の部分が一切省かれている。即ち,以下のところだ。


「高き祖先の霊たちに,神に達する為には,ファウストのより良き魂が要求するように,隠者の如く自発的に世界から隔絶すればよいのではなく、むしろ世界をその深淵なるところまで経験しなければならないのだ。即ち小世界と大世界である。

この神への道程は世界をぐるりと巡っていくことではない。世界の中を突き抜けて,何世代もの人々が重ねた偉大な時間が包含する,世界の最も内部にある欲求や思いを通り抜けていく事なのだ。これこそがゲーテファウスト』の道であり悲劇である。この道程にあるいかなる経験も意味の詰まった重要なものなのだ,なぜならその経験は全きものから理解され,かつそれと比較されるからだ。故にこの悲劇の結語は神秘なる合唱が語るが如くに発せられるのである。

全て移ろいゆくものは
ただの幻影に過ぎない。
未だ足らざるものが
此処では成し遂げられる
言葉に出来ぬものが
此処では行われる。
永遠の女性が
我々を引いて往く。」

上記和訳(拙訳)部分の原文  (4行目 Um zu Gott 以下ページの最後まで)

この時期日本では『ファウスト』をどう有識者は考えたのか?
嘗て一高で乞われた新渡戸稲造が講じた「ファウスト物語」においては,新渡戸は第1部しか語らず,さらにクリスチャンの新渡戸はキリスト教の教義に照らし合わせて,グレートヘンが懺悔をし,牢獄で祈ることで救済されたとのみ述べた。つまり一高生は第2部について何も教わらなかった。

鷗外訳に先んじて出版された高橋五郎訳(明治37年)は第1部のみ,明治45年に出た町井正路訳には「ファウスト後編梗概」と題した第2部の紹介がある。ドイツ文学とは全く関係ない町井が趣味と熱意で訳したものゆえだろう,ファウスト昇天の部分について町井は冷淡にもこう書いた。

 

ここで登場人物が述べる文句は,例の美文で優秀なるものであるが,例に依て相互何等関係無きが如く,又ファウストに対しても別に何等の意味無きが如き,誠に妙である。

 

一方当時のドイツ文学者たちは天使の合唱


Wer immer strebend sich bemüh‘t
Den können wir erlösen.
(常に努力してやまない者を我らは救済することができる。)


を引き合いに出して「努力」の価値を昇天へのキーワードとした。

大正2年に『ファウスト評論』を書いた鼓常良も,大正15年に『ファウスト物語』を著した茅野蕭々も「常に努力し向上する」ことにより神の愛に引き上げられて昇天すると書くのだ。
戦前日本のゲーテ研究を牽引したというべき大学者木村謹治はこの理屈をエッカーマンゲーテとの対話』にある Goethe 自身の言葉に証左を求めている。

 

ファウスト自らのうちにはその最後まで高進純化をやめない活動があり,而して天上からは彼を扶くる永遠の愛がある。この消息はわれらの宗教的見解と全く調和する。それによれば,われらは単に自力によってのみ救わるるに非ずして,それに加へられる神の恩寵によるのである。

木村謹治『ゲーテ』(弘文堂書房 1939年 317ページ)

木村はエッカーマンの文章から「高進純化をやめない活動」と語っている。ここの原文はこうなっている。

 

In Faust selber eine immer höhere und reinere Tätigkeit bis ans Ende, und von oben die ihm zu Hülfe kommende ewige Liebe.

Montag den 6. Juni 1831 aus Eckermann "Gespräche mit Goethe"


Goethe はここで höhere und reinere Tätigkeit 「より高くより純粋な活動」と形容詞は比較級でそして修飾先の名詞は Tätigkeit (=activity)なのだ。どこにも Wohltat(善行)とは書かれていない。
そもそもドイツ語の streben や sich bemühen は日本語の「努力」のイメージとは程遠い。日本語の「努力」は『広辞苑』によれば


目標実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること


だが、その目標はプラスイメージのものが大きい。

「努力して大学に合格した。」
「たゆまぬ努力で売り上げが伸びた」

はよくあるが、

「努力して人妻を愛人にした」
「たゆまぬ努力でアイツを虐め上げた」

とはあまり言わないのではないか?

しかしドイツ語の streben や sich bemühen は全力を傾け一目散に行動して何かを得ることを言う。そこに倫理観は問われていない。

Goethe の Faust におけるファウスト博士の行動を客観的に眺めてほしい。

 

魔女の薬で若返ったファウスト

① 一目惚れした少女グレートヘンをお宝攻めで陥落させ,
② 処女と肉体を味わう為に母親を毒薬で死なせ
③ 少女の兄と決闘して殺害し
④ 少女に子どもを孕らせて父なし子を産ませて少女が困って殺してしまうのを黙って見ていた
⑤ グレートヘンは牢獄で処刑されるが,ファウストはその後何もかも忘れて今度は絶世の美女,神話の世界のヘレナと交わり息子を生ませる。
⑥ 皇帝に上手く取り入り干拓事業を手がけ地位も名誉も不動のものにする

そんな彼が領民の自由を勝ち取る日々の生活に満足して,


Verweile doch, du bist so schön!
(止まれ,お前はなんと美しいのだろう。)


と言ってメフィストの手に落ちる。
そんな自分勝手極まりない男をなぜ天使は救済するのか?
中世の民衆本のファウスト博士は最後の最後に悔い改めて神に祈ろうと試みるが、Goethe の方のファウスト博士は一切悔い改めてなどいない。それなのに死体は天使の手で悪魔メフィストフェレスより奪還され救われる。

これを肯定してしまえば,人生勝ち組に入れば何をしても救われる,というテーマになる。いくらなんでも『ファウスト』はそんな作品ではない

日本的な意味での、努力したから救われるのではない。それを Kuno Fischer は Erlebnis(経験)で弁明する。

ファウストは自分の欲しいものを得ようと,小世界(第1部)では少女グレートヘンの愛情も肉体も全てを手に入れて,図らずも彼女を地獄に落としてしまう。

そして大世界(第2部)では絶世の美女ヘレナと交わり,オイフォリオンを生ませてギリシアとゲルマンの結合を成し遂げる。ヘレネとの一連の関わりが終焉を迎えると,今度は政治と権力の一翼を担う。全てがファウストの意志と行動力= streben で手に入れたものだ。Fischerはそれ自体への評価ではなくて,そのようにして生きて(leben)得た(er-)もの,即ちErlebnis (経験)を評価する。小世界と大世界を,時間軸の流れなど一切無視して見聞きし味わった様々な経験が彼を成長させ,その成長ぶりが昇天することで完全になり,人を卒業させるのだ,と言わんばかりなのだ。


Goethe „Faust“ は哲学論文でもないし,宗教のカテヒスムでもない。文学的な戯曲である。よって善悪について白黒ハッキリ決める本ではない。また宗教の力を借りて人を善に導く倫理の書でもない。大変人間臭い生き様のドキュメンタリーなのだ。

Goethe は60年の執筆期間を費やして(自分自身とも言える)ある人生の価値判断を,昇天する主人公で仮託したのである。
生きる価値を善行ではなくて,不断に何かを求めてやまない意志の力と定めたかったのだ。その求めてやまない事どもこそ,Fischer のいう Erlebnis だと私は考える。

何をしたのか?という中身の問題ではない,「したこと」が問われている。非常にシンプルだ。するしないかなのだ。『ファウスト』第1部で Goetheファウスト博士にヨハネ伝第1章をドイツ語訳させている。そこでもこんな価値判断がある。

 

Geschrieben steht: »Im Anfang war das Wort!«
Hier stock ich schon! Wer hilft mir weiter fort?
Ich kann das Wort so hoch unmöglich schätzen,
...
Es sollte stehn: Im Anfang war die Kraft!
Doch, auch indem ich dieses niederschreibe,
Schon warnt mich was, daß ich dabei nicht bleibe.
Mir hilft der Geist! Auf einmal seh ich Rat
Und schreibe getrost: Im Anfang war die Tat!

「始めに言葉ありき」——こう書いてあるが,
もうここで止まってしまう!誰も助けてくれないのか?
「言葉」なんかをそんなに高く評価できるものか,

こうすべきだ「始めに力ありき!」
いや,こう記しているうちに,
そんな所に落ち着くな,と諫める声がする。
霊感の助けだ!突然思いついたぞ
悠然とこう書こう「始めに行為ありき!」

 

Goethe が Eckermann に語ったのは höhere und reinere Tätigkeit だった。まさに Tat (行い)が問題なのだ。思いついても何もせずにいるのではなく,思いついたら実行する意志力,それが価値なのだ。Goethe 自身の人生がまさにそうではないか。彼は Faust を通してその人生が価値あるものだと総括したかったから,神様まで総動員して大団円を描いた,イヤイヤまさに人生の悩みを解決したい結末に私には思える。
この
思い込みがあってこそ, Goethe は "Faust" を封印して死の床を迎えられたのだろう。

 

本文中の独文の和訳はすべて拙訳です