10月21日に観劇した劇団Modeの「さよならシュルツ先生」の事前知識のために加藤有子の博論『ブルーノ・シュルツ』を読んだ。
Bruno Schulz(1892-1942) はポーランドの画家であり小説家だった人物だ。自分はザッヘル・マゾッホの作品に似たものを絵画の世界で表現した人物として Bruno Schulz が取り上げられている加藤有子氏の小さな論文を見つけたことから Bruno Schulz を知った。そしてこの加藤有子氏が日本で唯一と言っても過言ではないSchulz の研究者であることも知った。加藤氏は修士時代に Schulz を研究対象とすることに決め,そのためにポーランド語を学び,ポーランドに留学もして,ポーランド文学の目線でしか Schulz が読み解かれていないことに,自身の芸術学・美学の出自から新たな視点を投げかけた研究者である。劇団MODEの劇を鑑賞するに当たって,その前知識としてこの博士論文を読むことは利益あって害なしであろうと考えて読書してみた。
Ⅰ. 加藤有子の博士論文を読み解く
【序章と第1章】
序論と先行研究、第1部の初めで理解できたキー。
①今までのシュルツ研究は彼のたった9年間の小説家生活に対するものしかなかった。しかも9年という月日では作家の生涯と作品の発展過程の対照研究ができない、とされてきた。
②画家としてのシュルツは当時は非前衛的でポーランド人には好まれたが、戦後は評価が逆転し、ただのマゾヒストの願望をアナクロニズム的絵画にした価値の低いものとされてきた。
③著者の加藤有子氏は前の二つについて意義を唱える。絵画も小説もシュルツの創作過程の変遷を十分に表す要素があり、それを提示する事がこの博論の目的であるとする。
シュルツの自画像を見る時、画中画には一般的に美術界では最高のランクに上げられていた神話世界の描写を彷彿とさせる図象学的絵画が描かれているが、その神話的主人公が現実界の裸婦だったり、傅く男だったりとマゾ的エロスを醸し出す。
コレは高尚美術の中に大衆美術を区切りなく描くことを意味する。そしてシュルツが当時センセーショナルだったフロイトの読者であり、性的なものが社会の文化を作り上げているというフロイトの挑戦的学問に賛同すべく、敢えて高尚美術に低俗でマゾヒスティックなエロスを盛り込んでいるというのだ。
故にシュルツの絵画はただの性的嗜好の絵画ではなく、旧来の絵画芸術の常識を根本から問い直すイロニーだと加藤氏は解読する。ーー図象学的分析から絵画の意味を引き出そうとしている。これからどう論が進むのか楽しみだ。
【第2章】
Bruno Schulz についての加藤有子の博論を読み進めている。第2章まで読み終わった。
第1章の画家としての Schulz の作品,そして次の章の「書」という概念。この「書」という考えが第3章の小説家としての Schulz の作品解読に大きく結びつくことがよく分かった。
Schulz は画家として小説家として別個に芸術を作ろうとしたのではないこと,この二つのジャンルは Schulz にとって二つではなく,ただの一つの芸術表現として繋がっていることが存分に語られる第2章だった。
そして少年時代にワクワクして読んだ物語が大人になると萎んだ筋書きにしか読めなくなる喪失感を補完すべく, Schulz は一見物語とは関係のない挿絵を挿入させて自分の小説を,まるで教会の大聖堂に置かれた巨大な聖書,シナゴーグで恭しく掲げられるトーラーのような「書物」に高めようとする,という分析。
小説『大いなる季節の一夜』で語られる13番目の月の意味(ユダヤ歴には3年に一度13月が現れる。),彼の「書物」観は
①実は聖書やトーラーではなく,
②使い古された書物のテクスト=口伝律法(ミシュナー)の余白に書く描写→ミシュナーの周りに注釈(ゲマラー)を書いて創り上げていくタルムードのイメージであること,
だから主人公が幼児期に邂逅したが今は探し求めている「書物」として父親が「聖書」を差し出したときに,主人公の少年が語る台詞
「ごまかさないでよ!この本は父さんを裏切ったんだ!できそこないの偽書!『書物』はどこにやったの?」
が意味をなす。——これに気づくには,Bruno Schulz は単なる裕福なハプスブルク帝国ガリツィア在住のユダヤ人としてだけではなく,本来のユダヤ教の文化を幼児期から踏襲して理解していたことを見破らねばならない。
絵画で額縁を有効活用し,額縁の先の虚構の世界と,額縁の外の現実の世界を一体化させてしまった,παρεργον の象徴的利用が,彼の「書物」の世界ではミシュナーの余白に書かれるゲマラーのごとく,テキストに併置される筋とは関係の無いように見える挿絵の存在であること,これを指摘することができたのは筆者の美学者・美術研究者としての能力が如何なく発揮された所以だろうと思う。
これは文学研究者では難しい理解だ。Ikonographie 的分析が Schulz の小説へも為されて初めて気づくことだと感心して読んだ。
そしてこうしてパーツとして分解された Ikonographie 的各要素が,今度は Schulz の生涯・当時のガリツィアの文化的状況を援用して Ikonologie として意味づけされる。これは Schulz 自体が本物の読者に期待していることでもある。加藤有子氏自身が Schulz の「この小説があてにしている本物の読者」になっていることに気づく。だからこのアイデアが思いつくのだろう。まさに痛快な読み解きを展開している。
Bruno Schulz という人物がいかに現実と虚構の乖離を打ち壊して,絵画も文学も同じ地平線上でこの架空空間と現実空間を混在させる前衛的試行を行っているかがよくわかる。新しい,全く新しいことをしている。しかしそれは当時も後代も理解者を見いだすのが大変難しいことだったのだ。
【第3章】
Bruno Schulz の博論、第3章に入った。Schulzので小説はカフカやマン、ヨーゼフ・ロートなど数人の小説家の影響を受けている。それはただ単に影響を受けて自作の小説を創作したというレベルではなく、主人公の名前や筋の展開においても故意に似せて書いているというのだ。あからさまな借用はいわば祖型となる作品を積極的に引き継いだ証であり、引き継ぐことで祖型の登場人物や筋の展開が一つの作品から飛び出して、次々に有機体となって他の作品に発展していくのだ。だから単なる模倣ではない。
この論文は第1章の画家としてのSchulzは一貫して絵画の虚構と現実の関係を混ぜこぜにした。画中画はそれを受け継ぐ自然な手法であり、かのようにも続く第2章ではミシュナーとかゲマラの関係宜しく、文章とそれを寓意する組挿絵の有機的に蠢く「書」の世界の変容を示した。そして模倣と諸作品から受けた要素を引き継いで発展させる第3章。筆者の分析と意味付与に期待したい。
Schulzは自分が影響を受けたTh. Mann, J. Roth, F.Kafka 等の作品の登場人物名や筋を、明らかに模倣している。だがそれは実は模倣から発したテーマの継承であり、そこから独自の、所謂今ふうに言えばスピンオフ作品のメイン作品化の様な様相を呈している。
この現象について、加藤有子氏は、Schulzの画家からのスタートに理由があると考える。影響を受けた作品からの引用、もしくは引き継ぎというのは、画家の技術習得に重要な、精巧な模写にあたると指摘する。画家達は先人の模写で学び、その後独自の作品を作り上げていく。その結果「聖母子像」が何度も描かれて直されていく。それは見方を変えれば「聖母子像」がある画家から別の画家へと引き継がれ、反復され、新しい息吹が吹き込まれていくのだ。こうしたとめどもない変形、メタモルフォーゼこそSchulz の目指す芸術であった。
故にただの模倣で、独自性を欠くものについては以下の書簡にある様に批判的だ。
トルハノフスキの本は僕を最近悩ます事の一つです。(…)貴兄はディレッタントの手になる下手な絵画複製を見た事がおありですか?そうした複製の細部というのは、一様に同じようなやり方で繊細さを欠き、変形され、だめにされてしまっているのです。僕の嫌悪感というのは、不器用な手で僕の様々な発明品を扱おうとする、この厚かましくも単純で粗野な心性です。こうしたディレッタントの手では、僕の発見も戯画と化してしまう。あの本は僕にとって多大な害となります。
(A.プレシニェーヴィチ宛 1936年12月1日 加藤有子訳より)
Schulzのメタモルフォーゼは一体どこから影響を受けたのか?その答えを加藤有子氏は Goethe の Morphologie (形態論)に見出している。Schulz が Morphologie という言葉を使っているからだ。
このとめどもない形態変化の小説化されたものが、Schulz の場合は『肉桂色の店』における父親ヤコブのあぶら虫への変化である。勿論これは彼に影響を与えた Kafka の „Verwandlung“(変身)が大きな役割を演じている。
ところがKafka におけるザムザはとめどない形態変化を一回性の、完全態と捉えて、変化していくが普遍の中心部分を維持する意識がなかった。故にザムザは甲虫のまま死んでしまったが、Schulzのヤコブは違う。ヤコブの形態変化は一過性のもので、彼の中心部分を維持する意識はその後も人間に戻ったり、別のものへと変わったりする。この描写自体がSchulzの芸術観を裏付けていると加藤氏は証明する。ーー大変ユニークで且つ鋭い指摘ではないか?
Schulzの版画集『偶像崇拝の書』における画中画による過去の有名宗教画の構図を利用したマゾヒスティックな絵も、小説におけるテキストに付加された(恰も絵画におけるアトリビュートのような)筋とは全く関係のない挿絵も、そして登場人物名や筋書きの他作品からの引用と発展も、全てがSchulz の芸術論の同一線上に並べられる事実を、著者は明確にすることに成功している。本当に痛快な博論だ。面白い。
目から手へ…。この第3章の終結は Schulz が従来の芸術論を打ち破っている事を示している。目で見たものを手が形にする。コレは西洋美術の基本的な解釈であるイデア論の考えだ。つまり目で見たと思っているもの(実際にあるものを見ているのではなく)は創作者の脳裏にある完全な理想=イデアであり、それを身体器官、とりわけ手が具現化する。しかしここにはギャップがあり、手が具現化できるものは目に映る完全体そのものには劣る、とされてきた。加藤有子氏はその証左としてレッシング『エミーリア・ガロッティ』に見られる台詞、「この目で直に描ければ!目から腕を通って絵筆に至る間に、どれだけ多くのものが失われてしまうことか!」を紹介する。
しかしSchulz はコレを否定する。彼にとって手は彼自身から切り離された創造の主体であり、目で見たものを再現する道具ではないのだ。見ないで描く、見たものではなく、見ずに手が積極的に描くのだ。
「世界が新しく生まれ変わるためにおめ前の手を通過した、と。お前の手の中で素晴らしい蜥蜴の様に脱皮し、鱗を脱ぎ捨てるために。」
これはどういう事か?加藤氏は解釈する。新たな世界を創造するのではなく、今ある世界を更新しているということ。だから「蜥蜴のように脱皮」するという表現なのだ。Schulzについて今まで加藤氏が手回してきたもの,絵画における画中画,小説における挿絵の役割,そして筋の中のメタモルフォーゼ,これらは皆既存の物を更新する,付け加えることで新しい存在へと変化していく意味づけがなされていた。それがこの第3章の最後には「目から手へ」つまり目に映った現物として存在していないイデアを再現・創造する手ではなく,手が触覚で感じ取った既存のものを変容させる手の働き,視覚や言語を超越した表象へ向かう芸術作品が Schulz の目指すものなのだ。ゆえにその作品は留まることを拒否して何度も変容を繰り返す。あたかもヤコブが人間とあぶら虫に,人間と鳥に繰り返し変化していくように。
さぁ、後は結論を残すだけ。
【読了!】
加藤有子『ブルーノ・シュルツ 』読み終えた。
従来の文学分析のみのSchulz研究ではなし得ない、美術・美学的視点による考察で、Schulzの絵画作品と小説作品が、所謂「書物」という概念の下地平線上に一列に並べられるべき一貫した芸術論の発見につながっている。コレは大変大胆かつシュルツに対する学際的研究の必要性を明らかにした。
虚構と現実、の二項対立を対立とせず、そこに場を作る事で境界線自体を融解させるシュルツの芸術観は何と新鮮で斬新なのだろう。20世紀の前衛思想が一見ただの個人的作品に見えるそれらに潜伏しているのだ。それはわかる人にしかわからない。シュルツはその「わかる人」に向けて作品を作り上げて問題提起してきたのだ。
とても大胆で面白い博士論文だったと同時に、こんな人物を演劇で上演するには一体どこに焦点を当てているのか気になる。そもそもこの博論を読もうとしたのは今週高円寺で上演される「さよならシュルツ先生」上演を理解するためだ。今、世界で唯一のシュルツに対するモノグラムを読み終えて考える事は、果たして脚本家・演出家のシュルツへの読みがどこまで深いかが試されそうだ。
嬉しいことに,加藤有子氏のこの博論が2023年に
"Bruno Schulz, modernista z Drohobycza. Księga, obraz"
としてポーランド語に翻訳・出版されたことだ。これは世界の Bruno Schulz 研究をボトムアップすることになる。
Ⅱ.劇団MODE「さよならシュルツ先生」を体験する
【松本修氏の劇団】
劇団MODEは元近畿大学教授の松本修氏の実験的劇団である。実験的と言ったのは,この劇団がワークショップを重ねてその中の参加者からオーディションで舞台に乗る配役を決めていくこと,対象となる演劇作品を松本氏の脚本・演出と共にワークショップ参加者達が創り上げていくことで演劇の可能性を模索していることが主目的だと思われたからだ。上演でできるだけ大きな収益を上げるための演出や配役ではない。つまりこれを商業演劇とすれば,松本修の劇団は劇作品の芸術化を考えている。勿論芸術としての演劇の要素には観客の存在もあるに違いない。しかしながら,観客第一,観客は神様でドラマを構築しようとする考えとは違うということである。観客に伝えたいことは,画家や小説家が作品で鑑賞者・読者に影響を与えたいのと同じ次元のものでしかないということだ。
その上で,松本修が今回 Bruno Schulz の小説と絵画を元に劇作品を再構成して上場しようとしたことには,彼の個人的な大学教員退職による時間の獲得と演劇に対する情熱があるのは自明の理である。カフカ「審判」やブレヒトの作品に興味を抱いている松本氏にとって,Schulz は一般には決してメジャーとは言いがたいが劇作品として創り上げるには魅力的な題材なのであろう。なお,この劇作品は2023年に初演し,今回が再上演となる。加藤有子の博論は2010年に提出され,書籍化されたのは2012年である。当然松本修氏が加藤有子氏の書籍を読んでいる可能性があることは考えられる。それがよくわかるのは,一見絵画作品と小説作品には何の繋がりもないと考えられてきた Schulz の作品群を,この演劇はひとつにしていること,そして絵画における女性の支配的な役割を,小説の中の演技にも反映させていることは演出の松本修氏自身が絵画と小説の Schulz を別個には考えていない証左だと見て取れるからだ。
特に松下美波が演じた家政婦アデラと看護婦の役回りは脚線のチラリズムとモンローウォークで父とヨゼフを誘惑し妄想に耽らせる「偶像賛美」の対象になっている。この女優さんはホントに美しかったが,「偶像賛美の書」の偶像役として素晴らしい演技的挑戦をされたと思う。
【劇「さようならシュルツ先生」について】
「さようならシュルツ先生」はBruno Schulz の小説と絵画をちりばめた劇である。
冒頭三三五五集まった俳優達が Bruno Schulz の絵画「ウンドゥラと芸術家」と小説『砂時計の下のサナトリウム』の挿絵のポーズをして,スマホで写真に収めるところから始まる。何の説明もなく始まる。何か最初から Verfremdungseffekt(異化効果)が登場している感じ。つまりこれから演じる。配役=「舞台上ではその者」ではない。舞台両袖には衣装掛けが並べてあり,椅子もある。つまり登場すべきシーンになると両脇の椅子から立ち上がって舞台に出てくるのだ。
これと同じことをしていたのは1999年紀伊國屋ホールで上演された「ファウスト」(イオン・カラミトル,毛利三彌芸術監督)だった。たった8人の役者がひとり二役三役するので,両袖に椅子があってそこに座っているのがデフォールトのポジションになっていた。この配置も一種の Verfremdungseffekt なのかも知れない。
さて,「さようならシュルツ先生」に戻ろう。写真に収めると暗転して小説をテキストにした劇が始まる①『年金暮らし』②『鳥』③『マネキン人形論』④『父の最後の逃亡』⑤「砂時計の下のサナトリウム」⑥『天才的な時代』の順だ。
この中で最初の『年金暮らし』だけを除く他のすべての小説は Bruno Schulz の実際の家庭を基にした,弱々しい変身ばかりする父親とそれを眺めて生てきた息子のヨゼフ,父親に翻弄されながらも家庭を切り盛りしていく母親,美しい家政婦のアデラとその後に家政婦として家に来たゲニア,子どもたちが登場する,非日常的な事ばかり起こる日常劇に終始する。
最後の『天才的な時代』で絵画が登場し,シュルツの友人シュロマはその絵に驚嘆し,小説の通りシュロマはアデラのハイヒールを持ち去ってゆく。再び絵画的なポージングが行われ,この劇は終わる。
まるで「これから芝居を始めます。」→それぞれ役を演じる劇中劇→「お芝居は終わりました。」と芝居を入れ子構造で上演している。人生は劇だ,とでも言いたいのか?シュルツの人生を振り返れば,これはその通りだ。シュルツが絵画で描いたように,劇が人生ならば,現実と虚構の境界をなくしてしまう,そして劇を「演ずること」は模倣することであり,それは現実の中に虚構を封じ込めることに繋がる。シュルツの芸術論は——加藤有子によれば——既存のものを模倣し繰り返すことで新たな作品が模倣の合成のように生み出されて,それが更に模倣されて別の作品へと繋がっていく。まさに小説の芝居が別の小説の芝居へと移っていき,変遷の内に役を演じた者は現実の俳優へと実社会へと戻っていく。そんな劇に見えた。
舞台装置:舞台奥二箇所に黒く塗られた朝礼台。これは主にナレーション的役割の台詞、即ち異化効果(Verfremdungseffekt)の時、サナトリウムでの部屋のベッドの見立てに使われた。
他に場面によって椅子や食卓の机が置かれる時があった。
衣装:衣装はSchulzの暮らしていた時代の服装。特に奇抜だとかデザイン的に特異なものではなかった。Schulz家は裕福なユダヤ人家庭であった。
衣装はその雰囲気を醸し出す、背広やワンピースであって、正統ユダヤ人特有の黒い服ではない。
動作:動作で奇抜なのは
サナトリウムの看護婦のモンローウォーク。
サナトリウム医師の屈みながら両手を水平にして歩く所作。
家政婦アデラの使用人らしくない堂々とした歩みと時たま父に見せる網タイツの脚。
構成とドラマトゥルギー:
①出演者で絵画を真似た記念写真
②年金暮らしの場面(爺→小学生→先生に虫入れて怒った女教師のSM)
③父ヤコブとヨゼフの物語(世界中の鳥を飼うヤコブ→ザリガニになるヤコブ→サナトリウムで死んだように暮らすヤコブ)
④シュルツに別れを言いにくる友人シェロマ
事前知識無しで見に来た観客は,多分筋が破綻しているように見えるだろう。
年金暮らしの話と、その後の父とヨセフの話は全く繋がりがない。繋がりを意識できそうなのは女教師の怒った姿のSM&鞭とメイドのアデラの網タイツ脚。何じゃこりゃ?
確かにそう易々と理解できるような作品には見えないし,この劇を見たらそもそも Bruno Schulz 自体が不可解な人物にしか思えない部分もあるだろう。また,加藤有子氏の論述「Schulz は既存のものを変容させることで新しい芸術作品を繰り返し生み出していくという芸術観」をこの劇を見るだけで理解できるかどうかはわからない。
劇中父が家業を放棄して世界中から鳥を飼って自ら鳥となったかのように暮らし,あるときにはザリガニとなって現れ,手違いで料理されて食卓に登るが,足を一本遺して生き返って逃亡するというような荒唐無稽な話からそれを連想するのは多分不可能に近いだろう。
そしてなぜこの劇の題名が「さようなら」なのか?その「さようなら」はシュルツ自身であろう若きヨゼフに別れを告げる監獄から出てきたシェロマのセリフそのもので再現される。それも全く不可解に思えるかもしれない。この舞台は劇中劇の筋からなにかを導き出そうとしても無駄な徒労に終わる。なぜならば,すべては Bruno Schulz の芸術論の具現化に過ぎないからだ。ここで表現される演劇という表層(Vorstellung)は彼の論じる芸術のあるべき姿の例えに過ぎず,劇の筋を通して人間の絡み合いから生ずる何か普遍的な問題を問いかけてはいない。それを探そうとしても無駄なのだ。だから破綻して見えることになる。
しかしこの不可解な演劇現象を一旦すべて受け入れてそれが一体何を意味するのか?そもそも Bruno Schulz とはどんな現象なのかを自分で読み解く楽しみがこの演劇の醍醐味かもしれない。
「筋がない」のではない。加藤有子氏の論じるように Bruno Schulz のやったことには一本筋が通っている。でもそれを見つけられるかどうかは受容者の技量に懸かっている。
「あなたはそれが分かる人か?」が見るものに問いかけるものだとすれば,劇団MODEのこの作品は芸術史・美学を理解したい意識の高い者にとっては興味深い,大変面白い謎解きクイズが出されているのだ。——Bruno Schulz の芸術理論はどんなものなのか,舞台上で展開されるあらゆる物事を参考に箇条書きで示してみよ,と。
【最後にひとこと】
この舞台で成程と感動したのは,Schulz が完璧な物の代表格として常に表出される女の脚,舞台上の女の脚はSchulz の想像したものを連想させる Libido を惹起させる実物となっていた。
これは役者を脚で選ぶことにもなるのでかなり難しい選考になる。黒いガーターストッキングに包まれた肉付きの良い脚,網タイツに包まれてもそのエロティックさに負けない魅力的な起伏をもった細い脚,こういうフェティッシュな脚でなければ Schulz の美学は完成されない。
それを合格点で見せたのだからなかなか凄いことだと思う。ただ細くても脚は色気を醸し出さない。ハイヒールの形状をシェロモが賛美したように,女の脚の完璧さはどの女の脚でも同じなのではない。ヤコブが思わず跪きその完成された魅力にとりつかれるに値する脚をアデラが見せなくてはこの舞台は意味が無いのだ。網タイツを履いたからと言ってエロスが増すわけではない。網タイツ脚でも全然セックスアピールが受容できない場合だってあるのだ。それを及第点で演技しているのだから大したものだ。