【はじめに】
「はにわ」とは古語から語源を辿れば,埴(はに)土で作った輪に並べて王墓を取り囲む副葬品だ。つまり墓に入れる土器のことである。しかし今,「はにわ」といえば人や動物,家などを象った古代の面白い出土品,考古学の史料だけれどもどこか憎めないユーモラスな古美術品の印象ではなかろうか。
それを証明するように,2024年秋,東京国立博物館が50年ぶりに「はにわ展」を開催し,同時期国立近代美術館でも「はにわと土偶展」を催している。二つの展覧会には「はにわキャラ」で一世を風靡したNHKの番組「おーい,はに丸」に登場する「はに丸くん」がフォトスポットとして設置され,来場者は思わず目を細めスマホを取り出す。とにもかくにも日本人は「はにわ」が好きなのだ。これは間違いない事実だ。かくいう自分も小学校低学年時代の愛読書は小学館の『原始美術』。この本を眺めながら火焔土器を作ってみたかった。はにわを作ってみたかった。しかし当時(今から半世紀前)はそんなことを教えてくれる教室などなく、子どもにも陶芸を教えてくれる、とある有名な陶芸家のところで土いじりをしていたのだった。
こうした展覧会の流れに乗じて自宅近所の下高井戸シネマでは秋山貴子監督のドキュメンタリー『掘る女』が再上映されて賑わっている。
2024年秋はまさに “saison de Haniwa” という印象だ。
二つの展覧会と「掘る女」,そして自分のはにわ遍歴を重ねつつ,ここに「はにわへの思い」を綴って見たい。
【はにわの起源について】
はにわの起源については今回の東博「はにわ展」の図録にも少し紹介されているが,正確に言えば,最古の文献は『日本書記』巻六 垂仁(すいじん)天皇の32年に記されている。原文は以下の通り
卅二年秋七月甲戌朔已卯、皇后日葉酢媛命薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿日、從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。於是、野見宿禰進曰、夫君王陵墓、埋立生人、是不良也。豈得傅後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取植以造作人•馬及種々物形、獻于天皇日、自今以後、以是土物更易生人、樹於陵墓、爲後葉之法則。天皇、於是、大喜之、詔野見宿禰日、汝之便議、寔洽朕心。則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令日、自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。
天皇厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓、謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之綠也。所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。
黒板勝美による訓読(読み下し文)
卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢命〔一に云ふ、日葉酢根命なり。〕薨れます。臨(はふりまつらむとすること)日有り。天皇群卿に詔して日く、死(しにひと)に從ふ道、前に不可(よからずといぶこと)を知れり。今此の行(たび)の葬(あがり)に奈何(いかが)せむ。是に於て野見宿禰進みて日く、夫れ君玉(きみ)の陵墓に生きたる人を埋立つるは是れ不良(さがなし)。豈後葉(のちのよ)に傳ふることを得むや。願はくは今將に便(たより)なる事を議りて奏さむ。則ち使者を遣して出雲國の土部(はしべ)壹佰人(ひとももたり)を喚上(めしあ)げ、自ら土部等(はしべたち)を領(つか)ひて埴(はにつち)を取り、以て人馬及び種種(くさぐさ)の物の形を造作りて、天皇に獻りて日く、今より以後、是の土物(はにつち)を以て生きたる人に更易(か)へて陵墓に樹て、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ。天皇是に大に喜びて野見宿禰に詔して日く、汝の便なる議(はかりごと)、寔に朕が心に洽(かな)へり。則ち其の土物(はにもの)を始めて日葉酢援命の墓に立つ。仍りて是の土物を號けて埴輪と謂ふ。「亦の名は立(たて)物なり。」仍りて令を下して日く、今より以後、陵墓に必ず是の土物を樹て、人をな傷(やぶ)りそ。天皇厚く野見宿禰の功(いさをしき)を賞(ほ)めたまふ。亦鍛所(かたしところ)を賜ふ。則ち土部職(はしのつかさ)に任(ま)けたまふ。困りて本の姓を改めて土部(はしの)臣と謂ふ。是れ土部連等天皇の喪葬(みはふり)を主る綠なり。所謂野見宿禰は是れ土部連等の始祖なり。 (黒板勝美編『訓読日本書紀』岩波文庫より)
小島憲之 et al.による現代語訳は以下の通り
三十二年秋七月の甲成の己卯(六日)に、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が去された。葬りまつろうとして、何日もの間が過ぎた。天皇は群卿に認して、「亡き人に殉死するという仕方は、前に良くないことだと知った。今、この度の葬礼にはどのようにしたらよかろうか」と仰せられた。ここに、野見宿禰(のみのすくね)が進み出て、「いったい君王の陵墓に、生きた人を埋め立てるのは、実に良くないことです。どうしてこれを後世に伝えることができましょう。願わくは、今、好都合なことを協議して奏上いたしたいと存じます」と申しあげた。そして使者を遣わして、出雲国の上部(はにべ)(埴輪制作・葬礼などにあずかる部民)百人を召し寄せ、自ら土部らを使って埴土(はにつち)を取り、人・馬、その他いろいろな物の形を作って、天皇に献上し、「今から後は、この土物(はに)をもって生きた人に代えて、陵墓に立て、後世の定めといたしましょう」と申しあげた。天皇は大いに喜ばれて、野見宿禰にして、「お前の考え出した便法はまことに私の心にかなった」と仰せられた。そこで、その土物を初めて日葉酢媛命の墓に立てた。そして、この土物を名付けて埴輪という。
または立物(たてもの)という。そこで布令を下して、「今より以後、陵墓には必ずこの土物を立てよ。人を損なってはならぬ」と仰せられた。天皇は厚く野見宿禰の功績をお褒めになり、また工事場を与えられ、そうして土部職(はじのつかさ)に任ぜられた。それで本姓を改めて土部臣(はじのおみ)といった。これが、土部連(はじのむらじ)らが天皇の喪葬をつかさどることになった由縁である。それゆえ野見宿禰は土部連らの始祖である。(小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校訂・訳『日本書紀』小学館より)
つまりは古代の豪族達はインド(ヒンドゥー教)のサティ(亡夫の火葬の際に妻を生きたまま一緒に炎に入れて殉葬させる習慣)のような酷いことをしていたが,それを垂仁天皇が妻の葬儀の時から埴輪に変えたという伝説。野見宿禰は以降土師(はじ)という姓になったとする。因みに「土師」さんは全国に3700人程度いるらしい。(大阪,岡山,大分,福岡,佐賀に多いらしい。)ただし,土師という姓は天皇や貴族の死・葬礼にかかわる氏族ということで「穢れ」のイメージと繋がる。これが原因だろうか桓武天皇の時代(781-806)には改姓が認められて土師氏から秋篠,大枝→のちに大江,菅原の三氏になった。桓武天皇の母方が土師氏出身だったということも関係があると思われる。学問の神様で有名な菅原道真の菅原氏はこの土師氏の改姓したものであるから,道真のルーツも野見宿禰ということになる。野見宿禰は同時に相撲の達人でもあり,相撲の神様として祭られている事の方が多い。
ただしこの『日本書紀』の伝説は,東博の図録によれば,考古学的調査では誤りだと言わざるを得ない。なぜなら埴輪の最初は人や動物の形ではなく,飲食物を捧げるための器だったからである。これが円筒埴輪に発展し,その後で様々な形象埴輪になったと考えられている。形象埴輪は陵墓を見上げることで見えるように「みせびらかし」の為に作られたと考えられていて,つまり葬られた人物がいかに権力があり,物を持っていたか,あるいはどんなエピソードがあったかを誇示する目的だったと推測されている。『日本書紀』(720年)が書かれた頃,古墳(3-6世紀)はもはや歴史的遺物であり著者も想像で書いたに違いない。
ただそれにしても土師氏の作る埴輪は自由闊達でユーモラス。なぜかゆる~い。
【自由闊達な「はにわ」がいかに受容されてきたか】
東博の「はにわ」たちを鑑賞すると,それは確かに考古学的史料として展示してあるものなのだが,ひとつひとつのはにわに個体差を感じ,作り手の気持ちや製作時の心が反映しているように感じてしまうのはなぜだろう。二つの目と口は穴が空いているだけだ。それにも拘わらず人物はにわには表情を読み取ることができる。背中に赤ん坊を抱く女,乳を与える女,悪霊を追い払うために不敵な笑みを浮かべるはにわ,従者のはにわは真剣な表情だ。
人物だけではない,動物のはにわでもそうだ。人に感づいて思わず後ろを見返す鹿のはにわ,追いかける犬をもろともせずに高いところへ昇り,「ヘーイ,登ってこられないだろう!」と我が物顔の猿,ずんぐりむっくりとユーモラスな子馬のはにわ。東博にならんだはにわたちは,見るものの心を捉え,それらが単なる副葬品であることを超えてあたかも美術作品群であるかのような錯覚を起こさせる。——(近代美術館の解説によれば)それは確かに錯覚だった。はにわを美術的鑑賞の対象として取り上げだしたのは紀元2600年を目前にした1930年代後半のことなのだ。それまでは飽くまでも考古学上の出土品。古墳時代の副葬品,つねに大王や豪族たちの「死」θάνᾶτος と結びつく穢れの品でしかなかった。
私の幼少時代の愛読書だった,斎藤忠著『原始美術』(小学館 Book of Books 日本の美術1)でも——これは昭和47年(1972)刊行だが——「とにかく,埴輪は,死の行事にともなって墓におさめたものであり,死者とともに永久に土中に埋めようとしたものである。したがって,埴輪からは,日常の生活と関連する道具などと異なる性格を把握しなければならない。」と安易な読み・理解に注意を促している。
それにも関わらず「はにわ」は人を惹きつける。昭和27年(1952)処女詩集『二十億光年の孤独』を刊行した谷川俊太郎はそのなかで「埴輪」という詩を載せている。
すべての感情と苔むして静かな時間とが
君の脳に沈殿している
眼の奥にある二千年の重量に耐え
君の口は何か壮大な秘密にひきしめられる
泣くことも 笑うことも 怒ることも君にはない
何故なら
君は常に泣き 笑い そして怒っているのだから
考えることも 感ずることも君にはない
しかし
君は常に吸収するそしてそれは永久に沈殿するのだ
地球から直接に生まれ 君は人間以前の人間だ
足りなかった神の吐息の故に
君は美しい素朴と健康を誇ることが出来る
君は宇宙を貯えることが出来る
戦後(1946年)杉並の自宅に戻り旧制都立豊多摩中学に進学した俊太郎の父親,谷川徹三はこのとき,文部大臣兼東京国立博物館館長,学習院院長に忙殺されていた安倍能成の下,東京国立博物館次長(1949年まで)の職にあった。父親の職場を訪れた十代半ばの俊太郎が,展示されている埴輪を見て詩を書いたのかもしれない。この偶然をどう考えればよいだろうか?多感な時期の俊太郎が「はにわ」に対峙したとき思わず脳裏に閃いた「君の口は何か壮大な秘密にひきしめられる」そして「君は常に吸収するそしてそれは永久に沈殿するのだ」とは一体何だろう?
私はこの答えを明治期以降の「埴輪の受容」から紐解きたい。
【古代日本のシンボル・王政復古としてのはにわ】
近美の展示・図録をよく読むと,明治時代から軍国日本直前までは「はにわ」のイメージは古代日本の象徴だったようだ。明治時代に入り,大学が設立されると,お抱え外国人学者が考古学をもたらした。大森貝塚に代表される西洋考古学の成果だが,勿論発掘調査が行われたことで数々の出土品が登場し,埴輪や土偶,土器が日本人のルーツを代表することになる。その中でも埴輪は具体的な人物を象り,その衣装から階級や職務も分かる貴重な史料となる。
それと同時に明治日本が力を入れた近代国家としての宣伝,つまり万国博覧会への参加に,西洋文化とは異にする,長い歴史を絵で具現化するのに一番理解しやすいものが埴輪であることには誰も異論はなかろう。現に近美の展示物には1910年の日英博覧会,1893年のシカゴ万博において「代表的日本」として紹介された埴輪のイラストがある。明治政府は古墳時代の発掘物を世界に示すことで,大日本帝国という国家は明治維新でできた新しい国家ではなく,神武天皇を太初とした紀元前660年より続く万世一系の由緒ある国家なのだと広めたかった訳だ。その証左として古墳があり,その具体的遺物として埴輪があったのだ。
明治政府の意識はこの万世一系だけではなかった。この万世一系の中に今の天皇がいることも示したかった。故に国家神道が登場し,王政復古が声高々と唱えられて天皇親政が世界に喧伝される。
江戸幕府後期,1867年に孝明天皇が崩御するがこのとき葬儀は従来通り仏式であったが,その墓は石塔ではなく,円墳(後月輪東山陵)を築いてその山上に天皇の棺を安置した。この特例は,既に幕府が斜陽になり王政復古が唱えられた証だ。そして1912年明治天皇崩御によって王政復古のプロパガンダは一気に最高潮に達する。まず明治天皇の伏見桃山稜は上円下方墳になった。これは天智天皇陵などに習ったといわれている。(実際には天智天皇陵は上八角下方墳だったことが後の調査で明らかになった。)そして稜の中には天皇を護衛する埴輪が4体製作され石室の四隅に安置された。副葬品のように埴輪が作られた例はこの後妃の昭憲皇太后の伏見桃山東稜の四隅に置かれた他にはないそうだ。まさに古墳時代を彷彿とさせる天皇親政の最後の象徴がこの埴輪安置だと考えて良いのではないか。
明治天皇の埴輪を図面にしたのは帝室博物館の歴史学者三宅米吉・学芸員の和田千吉と関保之助で,これを彫刻家の吉田白嶺が製作した。面白いのはこのとき,明治時代の軍人を象ると「殉死」のイメージが伴うので,敢えて平安期の武装にし,ポーズや顔については和田千吉が発掘した武装の土偶を参考にしたという。
明治政府は王政復古の象徴としての埴輪を作らせたが,これは日本書紀の埴輪の縁起を思い起こさせる物にはしたくなかったようだ。飽くまでも天皇を護衛する意味での役割の埴輪を強調したがった。なぜならば,明治天皇崩御の際,期せずして乃木希典が妻を伴って殉死したからであった。殉死を美として受け入れたくない明治政府は再三にわたって「殉死的意義と誤解されては困る」と報じたが,世間は乃木夫婦の殉死をもてはやした。そして埴輪の存在が世間にも知られるようになった。政府も国民に衝撃と賞賛を与えたこの殉死を評価せざるを得なくなり,伏見桃山稜の麓を提供して1916年,乃木神社の建立を許可したのだった。
期せずして埴輪が死と共にあることを広めてしまったことになったが,太平洋戦争に入る頃には,これが本当にプロパガンダとして利用される。
【埴輪美は愛国の証】
1940年,日本は紀元2600年を迎えた。この前後から「埴輪美」という言葉が登場する。軍国日本を象徴するイメージは何か?それは一言で言えば「武士道」である。領主との契約によって仕える西洋の騎士とは異なり,日本の武士道は主のために死をも辞さない決断力,葉隠れの冒頭にある「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり。」(これは実は死ぬことを勧めているのではない。迷ったら,死ぬ覚悟で物事に当たれば,例え犬死でも死んだ者の名誉は傷つかない。生きながらえて見苦しいと言われるよりましだ,ということなのだが。)を国民に教育して「天皇陛下万歳!」の号令の下に殉死するのを幸せと思わせる政策を軍部は採る。この最たる宣伝材料が埴輪になった。
日本人は深い深い心を持って居り,こまかい心を持ってゐても,それを表面に出さないのを尊びます。たった一人のこの戦死の報せを受けても,涙もこぼさないお母さんこそ,日本人の理想です。うれしい,悲しいといふ心を,人の前で遠慮なく現はすことが,あたりまへのことにしてゐる西洋人には,よく日本人がわからないと言ひます。皆さんも,若しこの埴輪の顔を見て,私の今までお話ししたやうなことが分からない,これはうそだと思うやうでしたら,その人は英米人の心になりかかったのであり,心によごれがかかったのです。ようく拭き清めなければならない。そしてもう一度,埴輪の顔を見ることです。つまり,埴輪を皆さんの心の鏡になさい。(後藤守一『少國民選書 埴輪の話』1944年増進堂)
この文章を書いたのは高等師範を出て地歴の教諭として教壇に立ち,帝室博物館にも勤務,1941年に翼賛的考古学団体,日本古代文化学会を創設した人物だ。1942年より國學院大学に奉職,戦後は明治大学考古学研究室を創った。日本古代文化学会は国家総動員法により内務省・文科省の指導で学会統合でできたものだが,この学会には東京帝大の人類学会や帝室博物館が主導する日本考古学会は参加しなかった。官庁主導の統合に官立の学術団体はNOの意志を示していた。この意味が分かるだろうか。学問は政治ではない。だから政局に左右されるような団体ではありたくないからだ。
しかし『埴輪の話』を読むように,戦時体制は東博で垣間見られるような活き活きした埴輪の姿を隠蔽して,穴の空いただけの目と口は「壮大な秘密」をひきしめ,豊かな感情を抱くもそれを出さないことが美徳と価値づける。近美に展示された同時期の蕗谷虹児の作品「天兵神助」(1943)を見ると,倒れた航空士を抱く武人埴輪が当時の大和魂を具現化した表現であることがよく分かる。突撃し,戦闘して敵を倒す姿ではなく,武人埴輪と共に突撃し,戦死する姿を絵の中心に置くこの構図は一体何を国民に求めているのだろうか?
後藤守一の文章を読んだ後に今一度谷川俊太郎の詩を掲げてみよう。
泣くことも 笑うことも 怒ることも君にはない
何故なら
君は常に泣き 笑い そして怒っているのだから
考えることも 感ずることも君にはない
しかし
君は常に吸収するそしてそれは永久に沈殿するのだ
後藤が『埴輪の話』を刊行した1944年,谷川俊太郎は13歳。まさに少国民だった。彼がこの文章を読んでいたかどうかは分からない。しかし谷川の詩を読むとき,これは後藤守一の文章を代表とするこの価値観への静かな抵抗ではないかと私には思える。戦時期に盛んに流用された「武人はにわ」は豪族の死と共に埋葬され,王政復古の明治期に発掘され,以来帝室博物館で日清・日露戦争,第一次世界大戦,第二次世界大戦を迎えた。
どんなに悲惨な状況にあっても,後藤守一の文章のように,この武人は泣かず,笑わず,怒らず,こまかい心を表面に出さず,じっと虚ろな表情のまま展示ケースに居たのだろう。でも彼はそれぞれの時代の空気を一身に纏い,彼の中にその時代は沈殿していく。戦後になって博物館を訪れた俊太郎にはそう見えたのではなかろうか。なぜなら戦後はにわは戦中とは全く違った意味づけをされて再度クローズアップされていくからだ。
【皇国史観から日本文化のアイドルへ】
表情を出さないことを美徳とされた「はにわ」の扱いは,GHQにとって皇国史観を鮮明にしたものとは理解されなかったようだ。はにわは戦犯を免れた。それどころか,今まで記述されてきた高天原神話に代わって,考古学的証拠という客観的な事実として歴史が記述されると,埴輪と土偶はその代表的遺物として紹介されるのだ。古いものの代表,遺跡から出土した気高い文化遺産として。
また絵画の世界では兵士や歴史上の武人を書くことが禁止されたため,埴輪が格好の描画対象になったという。近美の展示で展示グッズのファイルにもなった長谷川三郎「無題——石器時代土偶による」(1948),斎藤清「土偶」(1958),馬淵聖「土器と埴輪」(1959)を眺めるとそれは日本人のアイデンティティーを確かめ,過去の悲劇に屈せずに,モダニズムを取り入れながら新しい社会を建設しようとする新生日本の心意気を投影するかのような作品に仕上がっている。
日系アメリカ人としてWWIIの時には苦境に立たされた彫刻家イサム・ノグチが陶芸を習うと同時に発見した京都博物館の埴輪の影響で創作されたテラコッタ群も「はにわ再生」に一役買っているようだ。
戦時中に盛んに語られた「埴輪美」は「はにわの美しさ」に代わり,それは「簡易質素な純粋美,無邪気さ,明るさ,やさしい強さ」と評された時代から,「素朴,シンプル,デフォルメされた美,シュール,かわいい」へと変貌し,はにわはアートの一部になる。現代のサブカルチャーにもすぐに入り込み,映画「大魔神」を皮切りに藤子不二雄,石ノ森章太郎,ゆでたまご,みうらじゅんらのマンガに「はにわキャラ」が登場,東映の戦隊ものには「はにわの敵役」が6回も出てくる。「それゆけアンパンマン」にも「はにわくん」,「はにわん」なるキャラが登場したらしい(2012)。
はにわキャラで最も愛されたのはNHK教育テレビの「はに丸」と「ひんべえ」だろう。「はに丸」にいたってはもはや黙して語らぬキャラではない。目立つの大好き,おしゃべり大好きなはに丸王子は,2015~2017年までマイクを片手に人間の記者では絶対に聞けない「素朴で直球の疑問」を相手に投げかけてしまう「はに丸ジャーナル」が6回も制作された。数千年に渡って世の中を見続け,歴史的事件に居合わせた「はにわ」が,沈黙を止めて堰を切ったように政治家や話題の人物から本音を引き出す。子供だましだと高を括っていた相手が思わず絶句する「はに丸ジャーナル」はNHKが現代社会を批判するために投入した痛快情報番組だった。
【はにわのきもち——まとめとして】
古墳時代の誕生から,現代に至るまで,ただ王墓に副葬されるだけの役割だった埴輪は,明治期の考古学誕生以来,1200年の眠りから目覚めさせられて様々な意味づけを施され,日本国民に愛されることになった。その愛着は今も変わっていない。「はにわ」は王墓に副葬されるものであるから,古墳が発掘されない限りは出土しない。つまり発掘調査されている古墳からしか埴輪は出てこない。仮に古墳があっても埴輪がでてくる確証はない。最近では2000年代になってやっと全貌が見えてきた百足塚古墳(宮崎県児湯郡新富町)の発掘調査では60個体以上もの形象はにわ・人物はにわが出土しており注目が集まっている。彼らの二つの穴の空いた目で見たことを,穴の空いた口から話してくれたならば,日本史のミッシングリンクが一挙に埋まることになるだろう。だが,一方でもしなにか驚愕の事実が分かってしまったら…。黙して語らずのはにわでいたほうが良いのかもしれない。