こころの豊かさ,こころの声,そして思考停止の危険性

Etwas Unpraktisches kann nicht schön sein
(非実用的なものは美しいとは言えない)

ウィーンの建築家 Otto Wagner は歴史主義から発して黄金の20年代にあと一歩手が届くところで亡くなったが,彼の作品的成長は最後には近代建築の黎明を告げるものとなった。実用性と美の関係が取り沙汰された近代デザインはこうして始まったといえよう。

そして黄金の20年代,芸術の集大成は建築だとばかりに Bauhaus 校長 Walter Gropius は語る。

Die Baukunst soll ein Spiegel des Lebens und der Zeit sein.
(建築芸術は生活と時代の鏡であるべきだ)

虚飾を排し凜とした Bauhaus デザインはロココな貴族趣味から脱皮して一般市民の清貧的思想を反映したもの。これは虚飾を排したのであって,精神的生活を我慢するものではない。

例えば Bruno Taut の Hufeisensiedlung (馬蹄形集合住宅) は労働者のための集合住宅だが,そこには「人間にとって豊かな環境とは何か」が考え抜かれている。これが1920年代のモダニズムである。毎日のパンを得ようと必死に働く労働者の居場所は粗末なテーブルとベッドがあれば良い,というものではない。自然豊かな前庭,色とりどりの玄関ドア,大きな窓の明るい部屋,機能的なキッチン,気分を爽快にさせるバルコニー,これらは人間が享受するべき豊かな環境として設計された。

 豊かな生活を送りつつも,人間は今の位置にとどまらず,向上心に目覚めていく存在である。否,そうであらねばならない。労働者が集合住宅で生活しながらその地位を高めようと努力するのも同じだ。20年代の急先鋒だったMax Ernst はこう警告する。

 „Ein Maler ist verloren, wenn er sich findet. Dass es ihm geglückt ist, sich nicht zu finden
(画家というものは自分を理解したときに破滅する。自分を理解しないことで,画家は成功するのだ。)

 停滞は芸術にとってあってはならない,それは人間の一生にも言えることだ。

 黄金の20年代の締めくくりは映画「メトロポリス」の脚本家 Thea von Harbou の意味深なモットーに集約される

Einen Mittler brauchen Hirn und Hände. Mittler zwischen Hirn und Händen muss das Herz sein.
(頭脳と手には仲介者が必要です。頭脳と手の仲介者はきっと心に違いありません。)


 頭脳とは為政者や企画者であり,手はそれを実現させる労働者だ。この両者が対立したり,いがみ合うことなく結びつくためにはその仲介として Herz (心) が必要だという。これが精神なのかもしれない。為政者や企画者の高邁な精神は,労働者の豊かな精神的生活なくしては実現し得ない。映画ではこの Herz がメトロポリスの為政者 Joh Fredersen の息子であり,身を挺して労働者の子どもたちを救った Freder となっている。

見方を変えれば,我々の生活を豊かにするのは「こころ」であり,そのこころの糧となるものを人々はどうやって生活の中から得ているかが重要であろう。その糧は人によって様々である。人の価値観の数と同じように。但し思考停止して安直にそこらで「間に合わせ」て得られるものではない。有り余るほどの選択肢があるにもかかわらず,「こころ」の声を聴かずに自ら思考を停止し,巷の流行りを手に取りなんとなく満足していることこそ愚の骨頂だ。黄金の20年代を享受していた Berlinっ子は自分の「こころ」の赴くままに劇場や展覧会に通い,表現主義ダダイズムを目にし,キャバレーでレビューやジャズを楽しみ,一夜のパートナーとダンスを踊った。退廃的で不道徳な avant-garde 的文化に酔いしれた。(これは Berlin だけの話で,地方は真逆の農村的保守的生活であることをお忘れなく。)

この不健全な文化はインフレによるあえぎと,それが後押しした新興勢力 Nationalsozialisten(国民社会主義者)によって完全に爆破された。秩序ある生活,禁煙,健康がモットーとなり,その代わりに低層市民にも休暇とレクリエーションが「総統の贈り物」として与えられた。人々は早起きして Guten Morgen! に替わって Heil Hitler! と挨拶し,勤勉に働き,定時になると KDF(歓喜力公団=ドイツ労働戦線の福利厚生部隊)主催のダンスパーティーの夕べに参加して新しい出会いに心ときめかせる。

また労働者に開放されたトレーニングジムで汗を流したり泳いだり。長い夏休みは KDF主催の休暇パンフレットを利用して国内への団体旅行,あるいは北欧やマデラ島への船旅が用意されている。福利厚生が享受できるのは大人たちだけではない。子どもたちは毎週 Hitler-Jugend(ヒトラー青年団)の例会に出席して行進と合唱で団結力を高める。年に数回はキャンプもある。学校でも HJ でも友達といつも一緒。
大多数の大人も子どももこの楽しいアクションに積極的だった,思考停止をして活動することに何の躊躇もなかった。毎日の生活が充実していて忙しいのは,自らが求めてそうなったのではない,国民社会主義者たちの国民への強制,つまり思考させずに生活することで政治批判をさせず,為政者の目的を素早く達成するための施策であった。ひとりにしない生活,静かに自省する時間を奪う生活,みな同じことを特に何も考えずに楽しむ生活,それが黄金の20年代を爆破して樹立されたナチス1000年帝国の国家的福利厚生システムだった。享受者たちは誰もそのことに気づかない,なぜならそんなことを考える暇がないからだ。これに躊躇したのは,退廃芸術展に足を運んだ人々たち——もう二度とセザンヌピカソゴッホが見られなくなるのに涙した芸術愛好家だった。絵画の周囲に書かれた誹謗中傷に傷つきながら,絵画との別れを惜しんだ人々。

一方思考停止の目的に気づいたショル兄弟のような,白バラグループのメンバーはミュンヘン大学で勇敢にも学生に向けて密かにビラを散布した。程なくして彼らは捉えられ,国家反逆罪を適用されて,ギロチン台の露と消えた。

自らの「こころ」の声を聴かずに,ただ巷に転がっている手っ取り早い物で欲望を満たしたと勘違いする,もし今の我々がそういうアクションをしがちならば,皮肉にも自由主義・資本主義のまっただ中で,協力しなくても一向に構わない国民社会主義者の目論見を積極的に支援していることになる。youtubeを早送りしながら同時にSNSを拾い読みする忙しさは一体何に対して急いでいるのだろうか?情報を取れるだけ取っても思考を停止して受容するだけでは意味はない。取捨選択して自らに取り込むことが「理解」であり,「こころの糧」になる筈だ。思考を停止してどこでも手に入れられる誇大広告の消費者になる必要がどこにあるのだろうか。広告主は抜け目なく消費者の思考停止を狙ってくる。それは商品の複雑なラインナップだったり,色とりどりのバリーションだったりする。思考することに面倒くささを感じた消費者は「とりあえず」廉価な商品をバリーションごと買ってみる,これで広告主の作戦は成功だ。同じ商品を纏った消費者たちが街中に繰り出され,流行が現実化する。これで世の中の経済が活性化しているというわけだ。めでたしめでたし。——で,「こころ」は満たされているのか?