【はじめに】
2024年9月のこと,俳優座,田中壮太郎脚色版『セチュアンの善人』を堪能した。3時間の芝居、退屈することなく観劇した。
成立年代がナチスを逃れて亡命した時期で、戦争も回避でき
ず、何が善で何が悪なのかハッキリとしない社会情勢の下に書かれたブレヒトの脚本。日本では長いこと千田是也をはじめ市川明や岩淵達治が考えた、善人でいることと生きることの対立は、社会を変革することで aufheben(止揚)される社会主義へのエールだと解釈して演じられてきた。それを田中氏は巧妙に脚色する事により、LBGTQの問題、効率化により利益を挙げて、皆がそこそこどうにか暮らしていることに慣れきって改革しない資本主義・自由主義社会の隠蔽された深刻な問題を提示することに成功している。(彼はMarkus Gabrielのder ethische Kapitalismusを信じたいと本日のアフタートークで語った。)
これは単なるプロレタリア演劇の継承ではなく現代に適合する形でこの劇団が標榜する「世に役立つため」のリアリズム演劇が実践された感想を持った。
一方翌月の10月には世田谷パブリックシアターで白井晃版の『セチュアンの善人』が上演された。俳優座の演出とは全く異なるコンセプトが興味深かった。本稿ではこの二つの異なる演出が同じ作品から何を語ろうとするのかを比較してみたい。
【舞台措置】
パブリックシアターの舞台装置。そうそう、先に見に行った長女が言ってた。舞台装置がカプセルホテルだって。よく聞いてみるとそれが着脱式で動くと。ーー?それってもしかして?中銀カプセルマンションか?と言って写真を見せたら「それだ!父さん!」と。確かにカプセルマンションそっくりだ。今回シアター入り口に触れる模型があった。ただしこれは単なる舞台装置であって,中銀カプセルマンション風のこの住居が何かを意味しているとは言えないようだ。このカプセル的なものを二つ移動させてシェンテの店を構成させる。
一方俳優座のそれはジャングルジム,シーソー,街灯,そして台のようなもの,さらに真ん中に円形の土俵的な物があり,この円の中で芝居が展開される。シェンテの店は円の中に設置される。
どちらの演出の舞台装置も基調が灰色。装飾もない。とても殺風景で色彩感に乏しい。これは心と物質の貧しさを表現しているかのよう。
【シェンテの存在】
白井晃版のシェンテは本質的に善人だ。葵わかなのシェンテは考える善人ではなく、考えずに善行をしてしまう。この反省しない善人が白井晃版の特徴かもしれない。このキャラクターを貫くので,前半最後の場で歌われるこの部分がとても生きてくる。
Ich will mit dem gehen, den ich liebe.
Ich will nicht ausrechnen, was es kostet.
Ich will nicht nachdenken, ob es gut ist.
Ich will nicht wissen, ob er mich liebt.
Ich will mit ihm gehen, den ich liebe.
私は愛する人と行く
損得勘定なんてしない
いいいことかどうかも考えない
彼が愛してくれているかどうかも関係ない
私は愛する人と行く (酒寄進一訳)
一方俳優座のシェンテは男娼の設定だったが、悩める善人だった。このシェンテには優柔不断さが際立っていた。善人としての優しさが,厳しい決断を避けている印象だった。白井晃版のように思考する前に軽率に善行を行ってしまう自然な意志力がなく,むしろ悩みながら善行を施す決意をしていく。
【白井演出のこと】
一回目鑑賞終了。うーん、面白かった。白井晃の演出はこれで二回目。以前鑑賞したのは「ファウスト」だった。その時も思ったが、彼は音楽を効果的に利用する。その使い方の巧妙さに一瞬「これってミュージカルだったっけ?」と勘違いする。今回も前半はほぼそうだった。役者の台詞回し,歌い方もミュージカルを連想させる。台詞はザ・新劇って感じで常に張りのある発声で発話される。全員頬にマイクが付いているので、考えようによっては普通の、テレビドラマのような話し方でもPAを通して聞こえる。それをあの発声は敢えて音楽劇っぽくしているのだろうか。
世田谷パブリックシアター、二回目公演鑑賞終了。いやぁ、役者さんは凄い。3時間のお芝居を休憩2時間くらいで二回もこなすなんて。この劇はほぼ八割方音楽劇だった。体力相当なものだ。声の大きさ、張りが二回目でも変わらなかった。また同じ事を二度繰り返すと普通は二回目は早くなる。しかしそこはプロ。全く変わらない。
ただ、気になったのがやはり発声の調子。700人の劇場で、大声張り上げて一本調子に叫び続けるのはどうなんだろう?熱意たっぷりの演技だが、力の抜ける場面が殆どないのは逆に違和感を感じる。
自分は今まで見たことがなかったが,今回youtube上にアップされている白井晃の立ち上げた遊◎機械/全自動シアターの上演をいくつか視聴してみた。それで理解した。白井晃のもともとのこの劇団の声の調子と、今回の声の調子はほぼ同じなのだ。これは彼の演劇のスタイルなのだろう。
先ほども述べたが,葵わかなのシェン・テは根っからの善人である。白井版はシェン・テの行いから善と倫理観にはズレがあることを暴露する。例えばシェン・テは店の前の住人シンに米を分ける。また八人家族を店の奥に泊めてやる。シンも八人家族もシェン・テの善意は「店を持つくらいの立場なのだから」当たり前だと思って悪びれずに厄介になる。しかも店のタバコを平気で吸ってしまう。このシェン・テの行いは施しを与えるという意味では善行である。それは神も認めている。しかしながら,社会倫理から考えれば,この人達にすべきことはこの人達が自立できるような援助をする事である。見返りを求めずにただ与えるだけではそれは倫理的行為だろうか?シェン・テのしていることは施しを受けた人々が抱えている問題を解決してはいない。ただ直面している困窮を回避するだけの時間伸ばしに手を貸しているだけである。
その点,シュイ・タは社会的倫理を十分に知っている。何故ならシュイ・タは問題を解決する役割を担っているからだ。シュイ・タは提供されたシュー・フーの空いた倉庫をタバコ工場に変えてしまう。そこでシェン・テの店に居候をしていた八人家族とシンを労働させ,その対価に賃金を支払う。当初八人家族は憤ってこう言う。
忘れないでちょうだい。うちらだって前はタバコ店をやってたんだ。自分で働いた方がましだね。 (酒寄進一訳)
最初から働けばこの八人兄弟は暮らせないことはないのだ。その智恵を絞ればできない筈はないのだ。ところが働く気がなかった。それは冒頭の歌でよくわかる。
髪がまだ 白くなかった頃
賢く立ち回るつもりだった
だけど思い知ったよ 賢いだけじゃ
腹一杯 食えはせぬ
だから言うんだ もうよそう!…
まじめにやっても馬鹿を見る
それなら試そう 人生の裏街道…
歳をとったら 夢も希望もない
時間を使って 潰すだけ
だけど 若い者には未来がある
なにもない未来と人は言うけれど
だから言うんだ もうよそう!… (酒寄進一訳)
現代社会にもホームレスの人々がいる。彼らは働ければ働きたいが,その手段がみつからない人々だけではない。勿論働きたい人々は自治体の援助の下に自立を目指す。NPO法人もある。
一方で,もはや何も希望もなく,諦めて,できるだけ容易にその日暮らしを過ごすだけの興味しか無い人々がいる。NPOから衣服や食料を恵んでもらい,反社会組織の口利きでまんまと生活保護を受給して,施しを受けるだけの人生を謳歌する人々がいることも事実なのだ。朝から広場で円陣をつくり,生活保護のお金で酒を買い,酒盛りをし続ける人々を,自分は東京の繁華街でイヤになるほど見てきた。彼らには支援してくれるNPOがいた。NPOの人々は毎日彼らに食べ物を与え,頃合いをみては寄付で集めた衣服を提供する。こうした人々は貰えないことがもはや特別で,貰えることが普通なのだ。施されることに感謝をして自立しようとなどしていない。彼らにとって恐怖は,毎晩の寝床の確保と健康の状態だけだ。勿論夏は良いが秋口からだんだん健康が損なわれてきて,冬を越せない人もいる。冬を越せず亡くなった人がでると,その人が寝床にしていた場所にある日突然花が生けられる。だから「あ,死んだのだな」とわかる。自分はこうした人々のライフサイクルをとある場所でもう何年も見てきた経験がある。
この劇では,こうした人々をシェン・テは施しだけで,善行だけで解決できると安易に考えている愚かさを露呈している。朝から酒盛りをしている人たちは,決して働いて金を得ようという気にはならない。まさに裏街道を試している。シェン・テは彼らにとってただのカモに過ぎない。それに比べてシュイ・タは彼らを自立させて自活させるプログラムを提供した。自治体がしていることと同じだ。決してシュイ・タのしていることは悪人ではない。社会倫理として当然の解決策なのだ。
このシェン・テとシュイ・タの行動のギャップに白井晃は積極的な照射を当てている。搾取に関して言えば,これは微妙だ。つまり法に則っていれば法治国家である以上搾取とは言えない。しかし帝国主義下の植民地政策よろしく法律自体が被支配者たる従業員の地位を貶めている法律であれば,実質上の搾取といえるからだ。シュイ・タが敬遠されて,シェン・テが待ち望まれるのはホームレスである彼らが自立する意欲を持っていないからである。シェン・テならまた施してくれるかもしれない。しかしシュイ・タがいると働かされる。それが我慢ならないのだ。彼らには労働の義務は通用しない。白井晃は,というか Brecht はこの労働について大きな問題提起をしたと言える。労働をしない自由があれば,人は法治国家の下になにもせずに遊民的に生きていることができる。
しかしそれは国家が国民を守れる力があれば,の話だ。社会主義の大きな問題であり,アメリカのようなかなり行きすぎた資本主義が存在できる理由でもあるのだが,かつて冷戦以降の共産主義国家は国民が生きていくこと保証してはくれたが,生活は豊かとは言えなかった。だからベルリンの壁が崩壊したときに資本主義の西へと東ベルリン市民が押し寄せたわけだが,彼らがそこで目にしたものは豊かだが,貧富の差が大きく存在していること。
一方行きすぎた資本主義のアメリカは労働する・しないは自由だ。ホームレスが施しを求めて路上にいるのをどうにかしようとは思わない。彼らは自分自身でそれを決めた以上,他人がそれに口を挟む必要はない。労働して碌を得ようが,株式投資の売買の利益で働かずに暮らそうが,路上で施しに頼って暮らそうが,それは選んだ人の自由ということだ。セツアンの人々が働かずにシェン・テから施しを求めて生きているのは,アメリカ的に言えば別に何の問題でもない。シェン・テが施さねば他の誰かに頼るだけだろう。または誰にも頼れなければ他の自由を考えるだろうということ。——田中版も白井版もこのアメリカ的な考えには全く同調する気がない。ないからこの戯曲を問題視する。
【音楽の比較】
音楽担当の国広和毅氏が,Paul Dessauの前衛的な音楽を弦楽器とパーカッションのたった4人のアンサンブルでとても現代的だが,芝居の雰囲気を壊すことのなく,観客に違和感を感じさせない音楽作りで, Dessau の歌の非旋律的なメロディーを歌唱ではなく,セリフの延長で聴かせる重要な役割を演じたと思う。 Dessau の音楽はクラシック音楽でも前衛的であり,それは三文オペラの作曲家 Kurt Weil のそれよりも大変奇抜に聞こえるものだからだ。今回はそれを全く感じなかった。劇の進行を止めない音楽だった。
酒寄新一訳はこの演出を予測していたのか,非常に歌詞的な翻訳をしている。例えば最後にシェンテが自身の秘密を神様に告白するセリフ,
Euer einstiger Befehl
Gut zu sein und doch zu leben
Zerriß mich wie ein Blitz in zwei Hälften. Ich
Weiß nicht, wie es kam: gut sein zu andern
Und zu mir konnte ich nicht zugleich
Andern und mir zu helfen, war mir zu schwer.
神さまからいただいた使命
善人たれという その命令に
わたしの体は雷に打たれたごとく
まっぷたつ 他人に善行施し
自分によくすることなど 無理な相談
無理難題というもの (酒寄進一訳)
善人のままで生きろというあんたがたの言いつけは
稲妻のようにあたしを真っ二つに引き裂いた。
破滅する人を助ければ自分が破滅する。
私はどうすれば良かったんですか? (田中壮太郎上演台本)
白井晃演出はここを歌わせる。俳優座田中壮太郎演出はここを演技で主張する。
白井晃演出の特徴・否特長でもあろうが,こうした部分が上演作品をエンターテイメント化させる。つまり劇の品質を上昇させる。これは役者一人一人がユニゾンで歌うシーンも同じで,普通演劇ではバラバラに役者が動く部分が,まるでミュージカルを見ているかのように一斉に動かす。これはある種万人受けする効果を創り出している。逆に俳優座演出にはそういうシーンはない。そのかわりに配役一人一人が強い個性をもって舞台上を闊歩する。このコントラストは面白い。
限りなく正攻法に近く,役者が新劇っぽい台詞回しをする白井演出を見ていて,「結末はどうなるのだろう?」と心配になったが,あのおじいさんだけが,まるで客席に話しかけるような自然なセリフで語る。
観客のみなさま どうかお気を悪くなさらず
こんな終わり方ではだめなことくらい百も承知…(酒寄進一訳)
舞台ではここは訳本よりも砕けたセリフだったと思う。それが大変スパイスのきいた,適切な終わり方を導いた。完全な Verfremdungsefffekt(異化効果作用)を作ったのだ。
【俳優座版の魅力は】
一方,倫理資本主義をシェンテが決断し,シュイタから決別する田中演出には,Brecht が俳優に語らせるこの最後のセリフはない。
その代わりに水売りのワンが語る
シェンテ。お前はあの雨の日,雨が降っているのに俺の水が欲しいって言ってくれた。俺にシェンテのコーヒーを淹れてくれよ。効率なんてクソ食らえだ。きっと,時間が掛かっても,お前のその思いやりが仕組みになる日が来るよ。
そうして全員がシェンテを眺め,暗転し,次の瞬間
カーテンコールがてら,全員で歌って踊るかもしれない。
と終わる。田中壮太郎は「シェンテが救われる良い結末が必要です!」という本来ならば最後に俳優が言うセリフもないかわりに,この歌って踊る場面があるのだ。
勿論 Brecht の原作にはない場面だ。俳優座の「善人」は田中荘太郎氏が現代に合うように市川明訳を「翻案」された斬新な演出に終始する。初っ端から読み替えが行われる。
シェンテの持つ店はタバコを売る店ではなく,コーヒーショップだ。後にこのコーヒーショップは120店の支店を展開する一大チェーンShentes Coffee という店名になる。そしてシュイタの経営手腕はこのコーヒーに秘密のスパイスを加えることで大繁盛をもたらす。そのスパイスとは,後にヤン・スンに見破られて揺すられることになる,ニコチンだ。ニコチン入りのコーヒーを飲ませることで Shentes Coffee にしか客は並ばないのだ。こんなことは原作には全く書いていないし,そのヒントすらない。原作ではシュイタの経営手腕でタバコ工場が繁盛するだけで,繁盛した秘訣などどこにも出ていない。考えられることは搾取に近い低賃金の労働力の確保,法律の目を掻い潜った密度の高すぎる従業員数。つまり通常一人分の賃金の半分で二人分働かせ,倍の生産量を上げて利益を高めているというもの。効率の徹底した追究と労働時間の拡大も利益に貢献する。
しかし田中版「セチュアンの善人」ではニコチン入りの秘密のコーヒー,低賃金労働力の確保,労働時間の長さ,徹底した効率追究,そして役員に列せられる理髪店シュー・フウの旦那と女家主ミー・チュウの援助,待遇を役員にした唯一妊娠を知る寡婦のシン,そして恋人であるが相手は真実を知らないヤン・スンを管理職に格上げすることで,事業の拡大が行われる。これは Brecht が想定したであろう資本主義の悪の部分だ。 Brecht が実際知っていたかどうかは分からぬが,彼が亡命して立ち去ったナチス・ドイツの政策はまさにこのシュイタの逆だった。SPD(社会民主党)が政権を取ったワイマール共和国時代,労働時間は10時間以上だった。これは1927年の映画「メトロポリス」でも独裁的支配者の息子フレーダーセンが,メトロポリスの下層市民になりかわったときに,労働を体験して叫ぶ「父さん,10時間労働は限りなく終わらないよ!」この労働時間を8時間に短縮し,違反すると企業を罰する法律を作ったのはナチス・ドイツだ。そして年次休暇を取らせる法律を作ったのもナチス,有給休暇中に旅行などレクリエーションを励行したのもナチス,その福利厚生はナチス労働戦線下部組織 Kraft durch Freude(歓喜力行団)がマネージメントした。つまり,当時のドイツの労働者は,この「セチュアンの善人」でシュイタが行っている搾取行為を一切感じていない。だからナチスは支持を得たのだ。Brecht はその部分を書き誤ったといえる。もし彼がナチス批判をするならば,その一見労働者に素晴らしい生活を提供しているナチスだが,実はそれがすべて戦争遂行のためのものであることを暴露しなければならなかったのだ。
田中版の目を見張るところは,このナチス的トリックを話の中に上手く導入している。シュイタの搾取は変わらないのだが,その搾取とニコチンコーヒーに良心の呵責を抱いて怯えるシェンテに対して,彼らはこう言うのだ。
巡査:あの,皆,薄々気づいてました,あなたが,シュイ・タさんだって事は。
弟:でもだんだん,シェン・テ・ズ・コーヒーのお陰でなんかこの界隈もキレイになっ
て来てさ,町もオシャレになってきたから(中略)なんだか暮らしが安定してき
て,こりゃありがたいよ。
失業者:だからシェン・テさんの事は気付いたらみんな探さなくなっていったよ。
巡査:だから,ねぇ,あなたはシュイ・タがいいんじゃないでしょうか。シュイ・タさ
んでこの町をもっと豊かにして下さいよ。
弟の嫁:前の暮らしには戻りたくないよ。
シェン・テ:みんな,ゾッとするような事を話すけど,ここのコーヒーがどうしてこん
なに売れてるか分かってる?
祖父:なんか美味しくてクセになる,あんまり健康に良くない汁でも入ってるんじゃ
ろ。でもわしなんか,もう先も長くないし,別にいいよ美味しければ。
女家主:シュイ・タにお戻りになって,シェン・テさん。
田中版は大衆の意識がNS時代の低所得者国民を連想させる。まさにナチスの政策に乗って,真実の恐ろしい意味を理解することを放棄して,刹那的に今の繁栄を謳歌する住人達。現代社会,資本主義社会を強烈に批判する改変をしているのだ。ここまで原作にないことを書いても良いのだろうか?この芝居を実見した当初,私は躊躇した。これは俳優座の伝統であるBrecht(Berliner Ensemble)-千田是也-岩淵達治の流れをついに一新したのか,と思ったのだ。が,先日 Peter Konwitschny の「影のない女」をみて,Berliner Ensemble でBrecht の片腕だったKonwitschny の大胆なオペラ原作改変について,Brecht 自身が時代に合わせる問題提起をするためには原作に手を加えて変更するべきだという意見だったことを,Konwitschny の発言から知った。そういう意味では田中氏の行ったことは正当な Brecht 的演出だったと言えるのだ。
ここで住人のいわれるがままシュイ・タとして生きていくのならば,不条理劇なのだが,シェン・テはそれを拒む。
私は貧しさが憎かった。あまりの貧しさを見ると激しい怒りに襲われ,自分が狼に変身して唇が大きく裂けていくのを感じた。(中略)会社の利益を追求したかったわけじゃない。恋人を愛するため,隣人を助けるため,貧しさに抗うために犯した罪です。もう終わりです。私は裏町の天使でいたい。私はシェン・テに戻ります。シェン・テになったらこのコーヒー・ショップは小さくなるかもしれないけれど,皆さんどうか受け入れてください。
この下りのアイデアは田中氏のアフタートークで明らかになるのだが,彼は行きすぎた資本主義の終焉は倫理資本主義を遂行することで救われなければならないと考えたという。彼はドイツの哲学者 Markus Gabriel の提唱する倫理資本主義の世界を思い巡らしたのだ。これが最後のシーン,水売りのワンが独白して,暗転後皆が踊り歌う場面となる。なんと理想主義的かと思うだろうが,しかし行きすぎた資本主義で人間社会が破壊されていく姿を,田中演出は絶対に受け入れないと決意しているわけだ。この部分に,私は俳優座の伝統であり,そのレゾンデートルでもあった築地小劇場からの演劇思想を垣間見る。
【おわりに「寓話劇」とは】
全くアプローチが異なるのに、田中壮太郎版も白井晃版も意外と共通していることがある。それはこの劇を不条理劇では終わらせない姿勢。不条理な現実に観客を投げ落として「さぁ、どうする?」と冷徹に幕を降ろさずに、明るい未来が約束されねばならないという意識が高いのだ。白井も田中も「善は常に虐められて亡び,悪がはびこるのが世の常だ」というイロニー的肯定には決して与しない。爽快感が沸く結末を作っている。「寓話劇」は不条理劇ではないのだ。故に両演出ともに社会性を重んじる演劇となっている。こういう所がシェイクスピアやゲーテの戯曲のような、個人的な感情や困苦をクローズアップすれば良い劇とは異なっている。いわゆる社会主義リアリズムが反映されている。後味の悪いものが好きな人は爽やかすぎて嫌うだろう。そういう闇の世界を肯定したい人は多分 Brecht の世界には共感できないと思う。社会主義的リアリズムは闇の世界を完全否定する。闇の住人には居場所がない。つまり悪魔は不要なのだ。
2024年の秋,俳優座(田中壮太郎)と白井晃,この二つの演出で一つの作品を比較できたことは大変有意義なことだった。Brecht の語りたいことをどう捉えて,現代社会に投入するかを二人の演出家は全く別の方法で挑戦したが,しかしゴールはひとつ。私にはそう思えてならなかった。
【追加事項】
作品を理解するための演出・舞台装置はもう古い考え方。脚本を読めば作者の意図は理解できるはずなのだ。舞台に上するのは,作者の考えた世界の再現ではない。