信頼をどう取り扱うかの自由って怖いですよ

チョット思いついたのですが、至極当たり前のことです。

我々は互いに信頼関係を作って他人の言動を受容してます。情報を取り込む時、発信されているその情報を受容し、自分の理解に上乗せしても良いかどうか、その発信元を吟味します。これが信頼関係の構築です。発言している人、記事の発信元を信用すれば、その情報を受け入れますね。

では信用の担保は何でしょう?

 

大昔は為政者とか権力者とか、情報源を握る限られた特権階級を信用する事が最もプリミティブだったに違いありません。自分が確かめられない事を確かめられる能力のある人を信用するのは自然な事です。

けれども政治家が嘘をつくのは今に始まった事ではありません。次に信用するのは学歴とか経歴、社会的に信用を得ている評価の高い人や団体の発信。知識人、新聞社、テレビ局、出版社など、昭和の時代までなら不文律に「○○が言っているから」「○○に書いてあるから」で誰もが「ヘェ、そうなんだ。」と信じた対象。しかしコレも今では権威が失墜している有様です。新聞を読む事は極めて減少して、ネットの情報を即座に得てますがそれでも新聞の社説読んでますか?テレビ局はご覧の通り。出版は誰でもお金があれば本が出せる世の中です。知識人は立場で180度異なる意見が生まれるので、知識があっても同じ見解にはなりません。

 

つまり、現代において「信用」の担保はほぼないのですよ。自分で判断する事が昔以上に迫られます。こんな情報混乱の現代で、SNSやAIの情報を素直に取り入れるのはかなりのリスクがあると思いませんか?

本名もわからない、その人と成りもよくわからない(Ich weiß von ihm, aber kenne ihn gar nicht.)のに、証拠もなく結論めいた言葉遣いでスパッと一刀両断する文章は小気味良いかもしれぬが、どこに信頼にたる判断材料を見出しているのでしょう?所在地もわからぬ団体の書籍やサイトに書かれた内容を鵜呑みにして生活指針にする危うさを感じていますか?Wikiの情報が学術業績には全く参考文献としてカウントできないのは当然このためです。何せ記事に査読がないのですから。

 

言いたい事はひとつ。便利だからと我々が都合よく信じて使っている人や物はもしかするとたまたまの偶然で何もトラブルが起こっていないだけかもしれません。

 

家族を信じるのは最初からリスクを度外視してるからでしょう?「家族(Familie)」という特別な絆がこの意識を可能にしていますね。藤原家やハプスブルク家が強大になったのはこの絆で為政者と結びついていったからですね。

一方で誰かが「お前が言ってたことは間違いじゃないか!」と苦情を言った時に、「知らないよ、だって本にそう書いてあった/○○がそう言ってたんだもの。私のせいじゃない。」と開き直る人を見たことありませんか?ーーこの開き直りが通用するのなら、本名すら知らない人の発言、ネットに匿名で貼り付けられた文章を読んで間違った事が拡散されていっても自分が損害を被らなければ他人事なんかどうでもいいよ、ということになりますよね。誰も責任を負わない、リスクを放置したままの自由って恐ろしくないでしょうか?

 

ビジネスの世界ではこの信頼関係で商材が売り買いされます。最近のネット商売で見かける法外な儲け、あるいは逆の立場で告発する詐欺商法、ネットの世界で支持を得て信用を担保にイベントやオフ会で利益に結びつける商売、コレは法律違反ではないですが、購入者に不満が積もれば詐欺だ、と受け取られます。購入者が満足できるように商材を洗練させるのが商人の基本ですよね。

ホストの売掛金問題も、ネット配信による主と視聴者の関係も、ボッタクリ水商売やSNSを使った「いただき○○ちゃん」も不祥事になる根幹は皆同じ、信用・信頼の取り違いですよね。この取り違いを許している空気が「自由」であるなら、自由って実は大変重いものだと分かりませんかね?