Kundryの特殊性はWagnerの終活を意味する?

Wagnerのヒロインというのは、「さまよえるオランダ人」のSenta、「タンホイザー」のElisabeth、「トリスタン」のIsolde、「指輪」のBrünnhildeのようなタイトルロールの男を「自己犠牲」と称する愛の力で救済に導く役割が多い。

一方で「ローエングリン」のElsa、「指輪」のGutruneのような、ヒーローと結ばれる自分の幸せを猜疑心や運命によって奪われていく「愚かな女」もある。しかも彼女たちは救済されない。

また「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のEvaは劇中ではあまり重要な役割がなく、ただ歌合戦の勝者が得られる栄誉であり、同時に Stolzingとの自由恋愛に身を投じるが自分からは何もアクションしない存在感の薄いキャラクターだと思う。

その点「パルジファル」におけるKundry は今までのキャラクターとは全然違う。

WagnerはKundry をKlingsorの催眠で妖艶な悪女になってAmfortasを誘惑して怪我を負わせたfemme fatale のように設定しながら、成長して聖槍を持ち帰った Parsifal を香油で清め自らの髪で拭き、Parsifalから洗礼を施される女として描く。これはほぼカトリック伝説上のマグダラのマリアに似せた設定だ。ここまではParsifalは洗礼者ヨハネを彷彿とさせながらも、香油のシーンはイエスとの関係のイメージだ。そしてイエスマグダラのマリアを救済に導くようにParsifalもKundryを救済する。

聖書の偽典・外典ではイエスマグダラのマリアは性的関係を持っていたような記述すらあるが、Wagnerはそんな話を知っていたかどうか定かではないだろう。ただもしこのエピソードを反映したものがあるとすれば AmfortasやParsifalを誘惑し「罪深い女」としてイメージされる部分だろう。

いずれにせよ、「永遠なる女性」が男を引いて天上へと導く Wagner の多くの楽劇とは異なり、「パルジファル」では「罪深き女」が救済されるのだ。

ただし、Parsifalは聖なる人物に成長していて、聖書で復活したイエスがこう言った

 

λέγει αὐτῇ Ἰησοῦς· μή μου ἅπτου, οὔπω γὰρ ἀναβέβηκα πρὸς τὸν πατέρα· πορεύου δὲ πρὸς τοὺς ἀδελφούς μου καὶ εἰπὲ αὐτοῖς· ἀναβαίνω πρὸς τὸν πατέρα μου καὶ πατέρα ὑμῶν καὶ θεόν μου καὶ θεὸν ὑμῶν

エス言ひ給ふ『われに觸るな、我いまだ父の許に昇らぬ故なり。我が兄弟たちに往きて「我はわが父すなはち汝らの父、わが神すなはち汝らの神に昇る」といへ』(ヨハネ伝第20章17節)

 

ように直接 Kundry には何もしない。KundryはただParsifalに付き従うだけなのだ。

救済されるのはKundryだけではない。Kundryに心を許し彼女を愛したAmfortasも救済される。この二人はカップルなのだ。それは過去の自己犠牲をなしたヒロイン達と同じ。オランダ人とSenta、TannhäuserとElsa、TristanとIsolde、SiegfriedとBrünnhilde。これらのカップルは楽劇全体でズシンと存在感の強い登場人物だ。

ところが「パルジファル」のAmfortasとKundryはとても人間的であり、超人的なイメージがない。等身大の人間になっている。ーーRichard Wagnerの最終的な愛の救済は、等身大の人間、即ち彼自身とコジマのカップルに行き着いたのではないかと思わせる。新王Parsifalが聖杯の儀式を厳かに取り行う傍らで、静かに救済され天に召される二人の「ただの男女」。それは彼自身の人生の最後を思い描いたように思えてならない。

Wagnerという男は神聖ローマ帝国が瓦解して「ドイツ」を具体化するものがなくなってしまったために当時流行したゲルマンの伝説を素材として使いながらも、台本の中身は極めて人間ドラマ的なのだ。それはファウスト伝説を利用して自分の生き様を総括したゲーテの手法に似ている。最後の作品「パルジファル」は実現することが難しいと思われた仏教徒の楽劇「勝利者達」からの流用もあるだろう。全体をキリスト教的神聖な雰囲気に盛り立てたのは、恐らく「勝利者達」の宗教的雰囲気の代替なのではと勝手に想像してしまう。

勝利者達」のエピソードは出家信者アーナンダー(阿難)と彼を慕い、恋してしまうプラクリティの話だという。

恋に身を焼くプラクリティが釈迦の説法により比丘尼となって阿難を肉欲と精神的愛欲の対象として求めるのをやめ、心の安定を得ることで阿難を兄のように慕う同志とする。これが彼女への救いである。

この作品の出典は仏教聖典にある。
身分に分け隔てなく親しくしてくれた仏弟子アーナンダー(阿難)に恋するあまり,呪術で彼を呼び出し結ばれようとしたスードラの娘チャンダーリーを釈迦が諭して出家に導き,娘は心の平安を得て摩登伽比丘尼と呼ばれたという,『摩登伽経』がその典拠だ。

このお経は木津無庵による『新訳仏教聖典』137-9頁に掲載されている。Wagner はヒロインの名前を同じ経典の別の女性プラクリティにしている。これは同経典の中で,釈迦がたとえ話として二人に聴かせた物語に出てくる。

書籍で読むのはなかなか大変だが,実はこれは映像で見ることができるのだ。 1961年の大映作品『釈迦』のエピソードにアーナンダーとスードラの娘マータンガとして登場する。この映画では小林勝彦扮する阿難(アナン)と叶順子演じるマータンガはエピソードの後も仏弟子比丘尼として様々な受難に立ち向かう。

さて,釈迦がParsifalだと見立てれば、阿難はAmfortasであり、プラクリティはKundryその人ではないか。

Wagnerは当時西洋人の書いた仏教の情報を興味深く読んでいたらしい。特に輪廻転生は一段と興味を引いたという。因みに「トリスタンとイゾルデ」で展開される彼岸で結ばれることへの願望は,彼のその思いを存分に入れ込んだ楽劇に仕上がっている。

共に不倫の果てに得たCosimaとの愛の生活を、Wagnerは死んで生きること、輪廻転生に重ねて安心感を得たかったのではなかろうか。

木津無庵が日本語に訳した『摩登伽経』の原文は1922-34年に編纂された大正新修大蔵経密教部(四)No.1300に収録されている。 このエピソードを映画『釈迦』に加えた脚本担当の八尋不二 (1904-86) は身分や種族の違いの差別への批判,外見の美に拘る愛慾ではなく精神的な美しさを讃えるアガペの愛を表現したかったのだろう。劇中でも釈迦はマータンガに尋ねる。

「アナンのどこがそんなに好きなのか?」
「あの輝くようなお目,格好の良いお鼻,ひきしまったお口,どれもこれも美しい,大好きでございます。」
「そのような美しさはすべて上辺だけのもの。アナンにはもっと美しいものがある。」
「もっと美しい,それは何です?」
「仏法に帰依して,こころの目を開くが良い。」
「卑しい身分の私でもお弟子になれるでしょうか。」
「マータンガよ,人間に差別はない。」

人間に差別はない,これは『パルジファル』劇中で聖杯騎士団の閉鎖性を, Kundry との体験を通して聖杯守護者になり得た Parsifal が,そして最後に救われる Amfortas とKundry が打ち破り,差別のない世界観を構築する大団円に重ねることができるのではないか。

Richard Wagnerは最後の作品「パルジファル」で決して褒められたものではない自身の人生を肯定するために、愛するCosimaと共に平安のうちに世を去りたいとの願望を作品の中で叶えた、彼一流の終活をしたのではないか、そう思うようになった。