2025年12月23日 13:00-15:20 世田谷パブリック・シアター公演
白井晃演出 『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ原作 酒寄進一訳)
脚本 長田育恵 音楽 三宅純
あっという間でした。舞台転換もないし,舞台装置は動きません。舞台後部をぐるりと囲む滑り台のような円形カーブ。これが河にもなれば山にもなる。そして主役の現代人がカメラで写し取る世界中の姿がここに投影される。
さぁ、まとめてみましょう。
Hermann Hesse の傑作を、白井晃がどう演出し、草彅剛が演じたか?
演者の関係で大入満員ですが、コレは演劇なのでただのエンターテイメントでは終えられません。ヘッセですから…。主役は多分重圧一杯だろうなぁ。

前半終了しての感想,主演は開始から休憩までの1時間ほぼ一度も引っ込まずに台詞を回し続けてました。
白井晃の演出はこの話を上手に現代社会と結びつけています。
純粋な悩みと孤独が自分の存在理由になり生きている。それが解決するには解脱、すなわち没我の死しかないのか?って感じですね。
全幕終了しました。今日はダブルヘッダーだから、マチネとソワレで上演するのですね。イヤイヤ、演者さんも大変だが、それだけ期待もされている証拠です。
この物語はシッダールタという二人の人物が登場する話で、主人公はゴーダマの方ではない、もう一人の権力のあるバラモンの跡取りの方なんですねェ。なんか Wien Musical の MA (=マリー・アントワネット)を思い出しました。そしてこのシッダールタが求道者として修行を続け,ゴーダマに邂逅しても彼について行かなかった。その理由がなかなか面白い。
「わたしが師に背を向けた理由もそれだ。わたしはある考えを見いだしたが、ゴーヴィンダ、きみはそれをふざけている、戯言だと思うだろう。それでもそれはわたしの最高の考えだ。『どんな真理にもその正反対があり、それも真理だ』というものさ。つまりこういうことだ。真理は一面的にしか言葉にできず、言葉で言い繕うことはできない。頭で考え、言葉にすることができるものはすべて一面的だ。みな、一面的で、物事の半面で、全体性とまとまりと一体性を欠いている。
わたしはそのことを何度も経験した。もし時が存在しないなら、世界と永遠、苦悩と至福、善と悪を分かつ隔たりもまた勘違いなんだ
この世が不完全だというのは噓だ。完全への道をゆるやかに進んでいるのでもない。世界の一瞬一瞬が完全なんだ。すべての罪はすでにその内に恩寵を抱いている。子どもはみな、老人を内に持っている。乳児は死を、瀕死の者は永遠の生を内に秘めている。(中略)だから、今あるものはすべて善だと言えるし、死は命と、罪は聖と、賢は愚とおなじに思える。すべてがそういうものなんだ。」(酒寄進一訳)

という台詞を言っていた。んー、コレって、仏陀の教え、修行の目的を否定するのに主人公が言っていたのだが、そのまんまキリスト教・就中カトリックの考え方そのものに聞こえる。Hesseの思想なら、コレは東洋思想より西洋思想が優っている自負をわからないように語っている?かに思えた。ーーあるがままが完全である。ーー
この脚本でシッダールタを現代のカメラマンにも仮託し,さらに他のヘッセの作品デミアンを登場させる白井演出。彼はこの前の『セツアンの善人』ではブレヒト流の演劇が世の中を変えていく共産主義的リアリズムに対して,——俳優座の演出とは好対照に——ある意味疑問を呈していたと思う。解決とは何か?弁証論的な Aufheben の先にあるものを求めることへの疑問を抱いた演出だったように思った。
それがこのヘッセではもっと前面に出てきて,世の中の紛争にはどちらにも言い分がある,それをどちらかが悪でどちらかが善だと決めつける多数決社会がなぜ神のように振る舞うことを人々は許すのか?許す人々のコンセンサスはどこで作られているのか?その情報は知識というニュースだが,そのニュースが真理で価値ある存在だと誰かに言い含められているに過ぎないかもしれないことをなぜ疑わないのか?一面的であることへの不安をなぜ抱かないのか?SNSでも,youtubeでも,ニュースソースでも…。
これこそ彼が行き着いた結論なら,それは多様性の受容そのものではないだろうか。ヘッセのこの小説をどう読むかは自由なのだから,これはこれでひとつの解釈だね。
