アキラとミチヨシの尖った邂逅——井上道義の伊福部昭

2024年5月5日 東京国際フォーラムA 21:00〜

伊福部昭 バイオリンと管弦楽のための協奏的狂詩曲

     V. 山根一仁

伊福部昭 タプカーラ交響曲

 

指 揮 井上道義

管弦楽 新日本フィルハーモニー交響楽団

 

アキラとミチヨシの尖った邂逅

 2024年LFJの最終演奏は井上道義伊福部昭。なんと魅力的なプログラム,演者だろう。伊福部の音楽を直に聴くのは1984年11月23日の「古希の祝い演奏会」以来のこと。40年ぶりだ。この時は弟子が伊福部作品を指揮したのだが,会場には伊福部昭本人がいた。休憩中に私はパンフレットにサインを頂いた。以来これまで直接会場で伊福部の響きを耳にはしてこなかった。勿論CDは沢山持っているので,家では何度も聞いている。今年引退の井上道義が,伊福部昭をなぜ選んだのかはよくわからないが,両者はともに音楽スタイルの鋭角的な部分が似ていると思う。だからとても楽しみな演奏会だった。



この曲があってのアレ

 バイオリンと管弦楽の協奏的狂詩曲は冒頭からバイオリン奏者が大活躍する。そこで弾かれるフレーズはなんと「怪獣大戦争」に使われた,自衛隊X星人の円盤を制御不能にするための電波装置を運送する場面のマーチ音楽。8分くらい経つと今度はあのゴジラマーチが流れてくる。1948年に作曲されたこの狂詩曲は1954年に公開された東宝の代表作「ゴジラ」の映画音楽の故郷である。伊福部昭が幼い頃から北海道で慣れ親しんだ隣人アイヌ民族の歌や踊りがふんだんにイメージされている。映画「ゴジラ」にはアイヌのかけらもない。だが,アイヌをイメージする土俗的でリズムが複雑なこの音の塊こそ,水爆実験で生まれた得体の知れない怪物の不気味さを表現するのに最も相応しい音楽だったのだ。

 山根一仁のバイオリンは猛々しくも深い音色で,いつ終わるか分からない brutal なフレーズの連続を精力的に奏でていた。伊福部昭の音楽はクラシック音楽の高貴さなど微塵も感じないのに深い音で人の心を不安に掻き立てるバーバリズムが魅力なのだ。その魅力がこの狂詩曲には詰まっている。まさに Rhapsodie(狂詩曲) という名にふさわしい。この繰り返されるリズム感,この特徴があるからこそだろう,伊福部の作曲で「人間釈迦」「エゴサイダー」「プロメテの火」など石井漠や江口隆哉,貝谷八百子といったモダンダンス,バレエの舞踊家のために作曲した作品が多く存在する。貝谷バレエ団10周年記念には「サロメ」も作曲した。舞踏を連想させる曲想はこのバイオリン狂詩曲にも随所にある。2楽章構成だが,両楽章とも踊り狂う音楽と夢想するゆっくりした音楽が交差している。どちらの音楽も基本はフレーズの連続。連続に次ぐ連続。2楽章の冒頭はティンパニソロのフレージングという通常のオーケストラ作品では見られない斬新な,そして技術的に高度な音楽で始まる。ゆっくりから早く,アッチェレランドし,バイオリン一本からオーケストラの全合奏へと拡大していく。この流れが聴く者の心臓の鼓動を徐々に速めていく。 brutal で bizarr なフレーズの繰り返しが増大する果てにはフィナーレの爆発がある。井上道義は今宵この難しい曲を見事に振り切った。大熱演だった。

 

力尽きたタプカーラ

 協奏的狂詩曲があまりの熱演に感極まるも,終曲後10分も経たず間髪入れずにタプカーラ,これは20代30代の若い指揮者ならともかく,いくら昔から生意気指揮者ぶりを発揮していた井上道義でも77歳の年齢ではキツイなんてものじゃないはずだ。

黄色がアクセントだった衣装を赤いものに着替えて登場した井上の最初の打点から広がる分厚い管弦楽の音楽帯,なんとも言われぬ豊かな響きがホール全体を包み込んだ。タプカーラの各楽章は第1楽章 Lento-Allegro,第2楽章Adagio,第3楽章Vivace
 雄大に第1楽章は始まるが,すぐに土俗的な伊福部ワールドが広がる。打楽器の連打と変拍子,複合拍子による舞踊的なフレーズが何度も繰り返される。繰り返しの美学はカール・オルフよりも執拗い。金管楽器が要の音楽。分厚い音楽帯はホルン,チューバとチェロとコントラバスが大活躍する。大蛇が移動するようなこのフレーズはティンパニの打撃が印象深い。怪獣映画から伊福部に入った人ならばきっとゴジラが街を移動する音楽に聞こえるだろう。新日本フィルハーモニー交響楽団金管セクションは頑張っていた。下品な金管の音色にならないように気を配っていたに違いない。この分厚い音楽帯を真ん中に挟んで,第1楽章は終結に向かってさらにAllegroの早さで駆け抜ける。非常に体力を使う楽章だ。

   

 第2楽章のAdagio,緩徐楽章を第2楽章に当てるのはブルックナーの7番が有名だが,伊福部のこの曲もブル7と比べて引けを取らない美しさだ。このフレーズは怪獣映画を知ってる人ならばわかる。「モスラ」に登場する,ザ・ピーナッツ分する小さな双美人が平和を歌うシーンで使われる。説得力ある弦楽器がコクのある旋律を奏でている。後半演奏される木管楽器群による穏やかな調べは,藁葺き屋根の煙突から煙が見える田舎の集落を思い起こさせるのどかな情景そのもの。伊福部は北海道帝国大学林業を専攻して,林野官として北海道の山林を逍遙した。小学時代から大学卒業まで父親が音更村長を務めていたので,伊福部はアイヌ文化の隣人として育った。彼が見たもの,聞いたもの,そこには熊踊りやバッタキウポポのような舞踊もあったろう。この緩徐楽章の穏やかで切なく,しかし安定した響きはまさにアイヌ村落を山から鳥瞰したような気分にさせてくれる。

 第3楽章はVivace,活気づいてくる。阿波踊りにも似た激しいテンポと刻みのフレーズが,ベートーヴェンの7番で形容されるバッカスの舞踏以上の激しさになっている。打楽器が変拍子を克明に刻んで狂喜乱舞する人々を表現する。一度大音響は収まるが,バイオリンのソロがその狂喜のフレーズをなぞる。徐々にあの喜びが蘇ってくる。滑稽なほどに印象的なフレーズの裏で金管のルバートがユーモラスに吹かれる。この狂喜乱舞は伊福部にとってはアイヌの踊りなのかもしれないが,アイヌを知らぬ私には,これは伊福部の祖先である神官達が語り継いだ記紀にある,天宇受売命(あめのうずめのみこ)の踊りに思えてならない。伊福部が音楽を担当した作品の中に「日本誕生」(1959)がある。ここで実際流される天岩戸の前での乱痴気踊りの音楽は実はタプカーラのこれ程激しくはない。タプカーラの狂喜ぶりはそれ程に激烈なのである。前半でヴァイオリンと管弦楽の狂詩曲を2楽章演奏し,このタプカーラも第2楽章まで演奏しきった井上道義77歳,エネルギッシュなミチヨシにとってもこの3楽章は難儀だったようだ。実際テンポが落ちた。あまりにも土俗的なこの音楽は指揮者の心臓には相当な負担がかかるだろう。引退までにはまだまだ半年以上ある井上が,ここで心臓発作でも起こされたら悲しい。彼がテンポを落として楽に指揮したのも仕方ない。でも演奏は決して悪くなかった。

 最後の一打でオーケストラが立ち上がる。面白い演出だ。N響とのコンサートでもそうだったという。最後尾のパーカッションメンバーは大きなクラッカーを放った。ホールにはアイヌ歓喜の舞踊が響き渡った。

 オーケストラが立つなら観客も立つ。演奏会の最後は観客の総立ちの拍手,オーケストラが退場した後も鳴り止まぬ拍手に、ミチヨシは悠然と登場,ゆっくりとホールの端から端まで挨拶をして戻っていった。
 伊福部の解説によればタプカーラ(tapkaara)とはアイヌ語で「立って踊る」の意味だという。この日,演奏者と観客はまさに最後立って踊ったのだった。

 

伊福部作品との邂逅

 伊福部昭の作品演奏といえば,1980年代からずっと彼の弟子筋,芥川也寸志,石井眞木がクラシック作品を新交響楽団と演奏していた記憶が強い。その後小松和彦がSF交響ファンタジーをよく指揮した印象。そして90年代以降に小泉和裕小林研一郎原田幸一郎の演奏が録音された。NAXOSレーベルの日本作曲家選輯の伊福部作品の演奏は Dmitry Yablonsky Russian Philharmonic Orchestra が担当している。

 クラシック音楽が好きな自分はゴジラの音楽から興味を持って伊福部昭を追いかけた。ゴジラには懐かしく美しい思い出と悲しく微笑ましい思い出がある。

 ①懐かしく美しい思い出:怪獣ブームのジェネレーションである自分は小学校1年生の時に東京12チャンネル(当時)の「ちびっ子スペシャル」という番組で怪獣をつくって応募するコーナーがあり,そこに2体の怪獣を応募した。母親に連れられて応募会場に行った記憶がある。そこで創造した怪獣2体を描いた絵を見せながら説明する。小学生の自分には思いも寄らない質問が担当職員から飛ぶ「体高は?」「体重は?」面白がって絵を描いた小学生には,現実的な質問が滑稽に思われる。子供と大人のギャップがここにある。ただ,当時仏像が大好きで愛読書が仏像の本だった自分の描いた大仏怪獣「ダイブツゴン」の体高は「立った時の奈良の大仏と同じ」と決めていた。これだけは現実的だった。そんな面接が終わってしばらくして,なんと怪獣が円谷プロに採用された。テレビに出演して「ダイブツゴン」を説明することになったのだ。——気合いが入る。児童画の部で,全国学生美術コンクール金賞を受賞していた自分はダイブツゴンの絵だけではなく,紙粘土で模型を作った。オレンジ色の衣を纏い,七色の(今見ればSDGs のバッジのような)白毫(びゃくごう:仏像の額にあるほくろのようなもの)からは平和を愛するカラービームが発射される。ダイブツゴンはゴジラの友達である,というシチュエーションも面接で話していた。テレビ出演の打ち合わせのために自宅を訪問したディレクター?との話し合いで,説明を豊かにするためにダイブツゴンの紙芝居を描くことになった。多分7〜8枚は描いただろう。絵に関しては全国学生美術コンクール児童画の部,金賞受賞者だ。小学1年生の子供の言うことなのに,ディレクターも心配しなかったのだ。なんと小道具さんが紙芝居の枠を作ってくれるという。実際それは素晴らしかった。ダイブツゴンの衣のオレンジ色が縁色になった,地は空色の枠だった。紙芝居でゴジラキングギドララドンなどの絵を描くに当たって,モデルになる写真が欲しいと自分は所望したのだろうと思う。すぐに映画のスチール写真が何枚も送られてきた。紙芝居は上出来にできた。TV出演本番もトラブルなく終わった。懐かしい三波伸介の司会の番組だった。子供ながらにもTV出演料が支払われ,出演の副賞としてスポンサーからボーリンゲーム,動く怪獣の人形が贈られた。ダイブツゴンが円谷プロの映画に出ることは実際なかったが,「たけしの元気が出るテレビ」の平和を伝える使者「大仏魂」(ダイブッコン)はおそらくダイブツゴンのなれの果てだと思う。円谷プロがライセンスを持っているので「ダイブツゴン」という名称が使えなかったはずだ。

 

 ②悲しく微笑ましい思い出:東宝映画「怪獣大戦争」(1965)のリバイバル版が東宝チャンピオンまつりで上映された1971年,これを見に連れて行ってくれると珍しく父親が言った。家族3人で映画館へ。映画館で悲劇が起こった。入場券の窓口で長蛇の列,それにしびれを切らす父親,ふと他の上映作品の看板を眺める父,「おい,こっちにするぞ!」——父親が息子へのサービスの代わりに選んだ映画は,なんと「アマゾネス」の映画だった。後日母親が「怪獣大戦争」に連れて行ってくれた。この映画はゴジラがイヤミのように「シェー」をする。そう,「シェー」が流行したのだあの頃は。今の天皇陛下だってやっていたぞ。

 こうした思い出とともに,自分はゴジラマーチも好きだが,怪獣大戦争のあのマーチが大好きだった。「そのメロディーなら知ってるよ,持っているカセットテープに入っている。」と,高校時代に隣のクラスのちょっとオタッキーな八重樫君から聞いた。「へぇ,聞いてみたいなぁ。」「テープ持っているんだ。」「よければ貸してくれる?」「いいよ。」——八重樫君は数日後ゴジラ映画のサントラ集のセルカセットと1983年に初演された汐澤安彦指揮,東京交響楽団によるSF交響ファンタジー第1番のライブ録音テープを貸してくれた。伊福部昭東宝側から打診されて編曲したコンサート用にまとめたSF交響ファンタジーの終盤は,あの「怪獣大戦争」のテーマで締めくくられていた。十年ぶりの感動を覚えた。伊福部昭という名前もここで完全に覚えたし,彼が単に映画音楽の作曲家ではなくてクラシック音楽の作曲家であることも八重樫君のテープで知ることが出来た。それほどの友達でもない自分に貴重なカセットを貸してくれた八重樫君に,是非ともお礼がしたくなった。そこで私はあの「ダイブツゴン紙芝居」のためにテレビ局から貰ったスチール写真を全部あげた。「本当にありがとう。僕が持っていても保管しているだけだから,ゴジラが大好きな君に持っていてほしいな。」八重樫君は狂喜乱舞した。その後彼は大阪芸大に進学した。今彼は何をしているのだろう。

 

 井上道義LFJ最後の出演ともなったコンサートはとても印象深いものだった。伊福部昭と言う人は型破りな作曲家だが,そういう作品をこれまた型破りな,いつも自信満々な自己チュー感たっぷりのミチヨシが演奏するのは水を得た魚のようなマッチングだった。井上は今年で現役を引退する。昨年引退発表をした際の演奏会,読響とのブルックナーの9番はこの人がブルックナーを振ること自体が珍しいのにとても説得力のある,死生観漂う演奏だった。今年の8月には今度はマーラーの7番「夜の歌」を新日本フィルと演奏する。最後の最後1230日にはサントリーホールで演奏会がある。読響と運命,田園そしてショスタコの祝典序曲。シメにベートーヴェンとはさすがだ。チケットがとれるものなら是非取りたい。