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岡真理の文章を読んだのは『棗椰子の木陰で』以来かも知れない。あの時と変わらず,この人の視点は表向きの戦争の悲惨さ・破壊のビジュアルよりも,受難者である人々の心に刻まれたものの方が何十倍も深刻であること,非日常性が日常になる生活を送る人々の求めるものは貴い日常であることを中心に据えて語る。
今回の文章で彼女が展開する鍵は以下だと思う。
1)迫害とSumud (صمود)
2)忘却できない記憶
3)共感
4)人間であることの権利
人間は自分や身内の不幸(迫害)は未来永劫語り継ぐ。それは当然だと思う。何故なら(今風に言えば)物事のストーリーはマイナスの事案があって始まるものだからである。人は不幸から日常の自分を取り戻そうとして活動し,それを幸せだと感じ,神に感謝する。運命の悪戯のような不幸が起こったのに,その不幸は記憶に留めつつ,日常に戻れた事を感謝する。
日常生活とはかけ離れたラッキーな事ーー宝くじが当たったとか,自分の業績が誰かに認められて思いがけない招致を受けたとかーーは時間が経てばその嬉しい驚愕は冷めてしまう。しかし日常生活を送れるという,人権を維持出来ている幸福についてはそれが日本人にとっての空気や水のように「あって当たり前」の感覚になっていても,常に生きる感謝の対象である。だから何が起きても,どんな状況にあっても,何度でも立ち上がって獲得する生命力で死守する行動を怠らないのだ。この生命力こそ,岡真理の表現した Sumud なのだろうと考える。
ナチスは勿論,キリスト教文化圏によって中世以来迫害を受けてきたユダヤ人もこの Sumud の気持ちを手放すことはなかった。だから今のイスラエルがある。「屋根の上のバイオリン弾き」(原題は『牛乳配達人テヴィエ』)も『イェントル』も,アシュケナージの巨大作家の描いた作品には迫害のストーリーとそれに静かに抵抗する Sumud の姿がある。
徹底的な迫害は「忘却出来ない記憶」となって残る。ユダヤ人がどんなにアメリカ社会の資本を掌握してもホロコーストを忘れることが出来ないように。ナチス・ドイツはシナゴーグを燃やしドイツ語圏からユダヤの文化を消滅させようと試みた。確かに実際にユダヤのシンボルは消された。またユダヤ人の関わった文化遺産とも言える書物を焚書した。ドイツ語文芸としても優れているのは誰が見ても間違えのない,Feuchtwanger も Zweig も Heine も焼かれた。
そしてこの行為は今,かつて迫害されたユダヤ人と同じ民族によってガザ地区のパレスチナ人に対して行われた。岡真理は以下のように綴った。
人間が人間であることの証、それは、他者に共感する力のことだ。(中略)文化活動もやめなかった。文化センターに通い、演劇や音楽や映画やダンスやアートにいそしみ、外国語作品をアラビア語に翻訳し出版し、それを読み、語らった。「文化」が抵抗の力の源であることを知っていたからだ。だから、イスラエルは二〇一八年、ガザの文化活動の拠点であったサイード・ミスハル文化センターをミサイルで破壊し、二〇二一年には翻訳・出版活動の拠点であり図書館としても親しまれていた出版社を同様に破壊したのだった。
私はハイネの言葉を思い出しながら,結局は文化を抹殺する事など出来ないのをよく知っているユダヤ人が何故同じ迫害をするのか残念に思った。
„Dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen.“
「本が焼かれる所では最後は人間も焼かれるだろう。」
Heinrich Heine (ハインリヒ・ハイネ)
「忘却出来ない記憶」を多産し民族間の遺恨を増大させて意味があるのか?そんなことをすれば無益な紛争の種ばかりを蒔くことになるだけだと自分たちの過去から学んでいたはずだ。なのにどうして?本を焼かれた人々が今度は他者の本をこれでもかと焼いている。
本来迫害の歴史を辿ったイスラエルの民がガザのパレスチナ人に抱くべきものは、岡真理の述べている通り「共感」であるべきなのだ。ガザの人々が東日本大震災の被災者に義援金を送り、路上の花売りがお金のない者に一輪のブーケを贈る。やっとの事で手に入れた配給の卵2個を家族で分け合う。キリストがここにいたら、魚を分けたように卵がいくらでも増えたかも知れぬが、日常のガザではそんな奇跡は起こらない。イスラエルの民は神からマンナを戴いてエジプトから約束の地に行き着くまで生き延びた。パレスチナ人には食べ物を増やすキリストやマンナを施す神はいないのだろうか。
敵に塩を送った上杉謙信の様に、戦争と生活は切り離されて取引されても問題はない、とは残念ながら思わないのだろう。共感に欠ける証左である。これは感情論ではなくて理性的な話なのだ。
レッシングはユダヤ人の賢さを示す物語として『賢者ナータン』を書いた。キリスト教徒とユダヤ教徒、そしてイスラム教徒が共存する社会、それは立場は違えど共感によって理性的に人権を守り合う施策を実行する社会である。
イスラエルの民はこれまでに膨大な量の תלמוד (Talmud) 知恵の書をラビ達が記し続けてきたではないか。そこには相容れない者を徹底的に兵糧攻めにし、棲家を破壊して死を齎して追い出せとでも書いてあるのだろうか。
岡真理の文章の最後に書かれているもの、それはユダヤ人なら激しく抵抗するに違いない表現である。即ち、
やがて世界はこの出来事を、「パレスチナ人のホロコースト」の名で記憶するだろう。そして語るだろう。
ホロコーストがユダヤ人にとって被害者であるとともに加害者にも当てはまることになった今、彼らが記憶にとどめなければならなくなる次の表現は恐らく、
ガザはパレスチナ人にとってのゲットー、アウシュヴィッツであり、彼らを無差別に苦しめているのは、かつて自分達を苦しめたSSの様にパレスチナの異教徒に接しているユダヤ人なのだ。
ということになるだろう。