ことばが話者を獲得するのは…

 文法構造が安易になっている事と,国際語やlingua franca として人気を博すこととは何の関連性もない。後者は話者数の多さと影響力の大きさによる。

 かつては文化語(langue culturelle, Kultursprache, cultured language) という,専門用語や文学などその言語で何でも表現出来るよく耕された言葉を指す表現があったが,今は言わないようだ。今「文化語」というと北朝鮮の標準語を指すのみになっているようだ。

 前者で言えばスウェーデン語,ノルウェー語,デンマーク語,アフリカーンス語は格変化もないし、名詞の性も極めて簡便になっており,更に動詞も屈折変化がない。アフリカーンス語では英語の be動詞を使うところでも,

   Ek is lank.(I am tall.) Jy is lank. (You are tall.)

   Hy is lank.(He is tall.) Ons is lank.(We are tall.)

   Sy is lank.(She is tall.) Hulle is lank. (They are tall.)

と全人称 is で変化しない。

しかし文法構造が簡単でも世界中の人々がアフリカーンス語を学び易い文法だからと国際語として採用はしない。

 世界史上の国際語の歴史を考えても,κοινή や lingua latina が学び易い文法で簡便な言語とは間違っても言えない。豊か過ぎるほどの屈折変化を持つ言葉だ。ただしこの二つの言葉で詩も散文も隆盛を極めたし,法律用語も表現できた。つまり langue culturelle だった。近世になってからの Français も langue diplomatique として栄えたが,決して学び易い文法を備えている訳ではない。

 現代英語はこれらのことばと比較すれば,簡便に見えるがその簡便さは中途半端極まりない。残す意味のない三単現のs, 頻繁に使われる事で残存している be動詞の変化 am, is, are, was, were ,そして最早殆ど使われないので放置されたままの主語 thou の動詞人称変化 art, hast, comest, wilt 等。人称代名詞は you, it は主格と目的格が同じ形であるのに, I-me, he-him, she-her, we-us, they-themと異なるものが多くあるが,SVOと語順が固定されているのだからyou と it が主格・目的格同形でも問題ない訳で,他の人称代名詞も同じで構わないのではないか?こうした中途半端な残存を改良しようとするアクションは全くない。

 所謂多数決の論理で言葉の共通性が決まるのであるならば今後英語に代わって話者数と世界規模での汎用性を担う可能性があるとすれば,それは日本のお隣の大陸の言語であろう。積極的に世界中の発展途上国に経済的援助をしつつ自国の言語で契約書やマニュアルを送りつける事で有名だ。発展途上国がそれに甘んじれば,この国の言語は国際語になりうる。ただし表意文字を使っているので,拼音を正規の綴にでもしない限りは欧米がこれに追従するのは困難であろう。欧米人はこの言語を拼音で学んでいるからだ。拼音が国際語としての北京普通話になり得たら、毛沢東の壮大な言語政策が貫徹された事になる。漢字全廃。毛沢東はこれを夢見た。

 ただし,万が一簡体字での表記が国際語としても用いられるような事態になれば,台湾は勿論,日本の漢字も簡体字を採用しないと世界からガラパゴスだと非難される可能性がある。歴史的・文化的には甘受出来ない事だが,多数決で国際的スタンダードを勝ち取ろうとする限りはこの文化論争は打ち捨てられてしまうだろう。グローバル・スタンダードが固有の文化・習慣を容易く破壊する特性がよく表れている。

戦前の教養主義の恩恵とその後の継承への嘆き

 戦前の日本で教養を身につけることができたのは、旧制高校生だけだった。最も有名なのは外国語の授業で、甲類は英語、乙類はドイツ語、丙類はフランス語が第一外国語で週に10時間以上をこの言語での購読に充てられた。この授業で旧制高校生は英独仏語による文学作品やエッセイを直接読み込んだ。記録によれば英語ではエマーソン、ホーソーン、エリオットを、ドイツ語ではゲーテやシラー、レッシングを、フランス語ではデカルトラシーヌボードレールを読んだという。読んだと言っても教授による訳読を聞いていたに近いこともあったようだが、九鬼修造の述懐のように、こうした外国語教育で沢山の本に触れて視野が広がったという感想を持った者もいた。

 しかしこんな教養を身につけられたのは旧制高校だけ。例えば師範学校(小学校教員を育成する専門学校)では旧制中学とほぼ同じレベルの英語教材を無茶苦茶な発音で学習する程度だったらしい。軍の士官学校や機関学校でも帝大卒の教官を招いて外国語は教授されたが、軍務にとっては補助学でしかないため、学生は熱心ではなかったという。

 また、軍の学校の学生は教科書以外に読書するときには、既定の用紙に記入し中隊長の許可が必要だった。よって軟派な文学などは読むことが憚られた。

 戦前に文学を原書で楽しめたのは旧制高校→帝大の学生のみで、他は実践的な読書しかしていなかった事になる。今で言う推理小説とか、艶かしい描写にある恋愛文学などの欧米作品はほとんどの人が無縁だった。こうしたエリートたちの読書のおかげで、今の日本のサブカルチャーは芽生えたと言える。

 例えば一高→帝大独法科から三菱商事に入った秦豊吉は、上流のサラリーマン生活をしながら文学趣味を楽しんでいた。三菱商事ベルリン支店に勤務すると、シュニッツラーやハウプトマンなど彼がドイツ語で読んでいた現代小説家に手紙を書いて面会する機会を得た。勿論秦は彼らの作品を翻訳し出版している。ドイツ文学といえば当時はゲーテが大作家なのだが、秦豊吉ゲーテ作品も親しみやすい現代語で訳した。

 そればかりか1928年にドイツでベストセラーになったレマルクの『西部戦線異常なし』も1929年にいち早く翻訳出版し、1930年の映画が作られたときにはもう日本人はこのストーリーを日本語で読めた。

 1927年にドイツ初上映されたフリッツ・ラングの大作『メトロポリス』はその前年に小説版が出版されたのだが、秦豊吉はドイツ封切りの年に既に日本語訳を出版した。この映画の日本封切りは1929年だったので、映画より前に日本のファンは小説で内容を知ることができた。

 こんな好事家が三菱商事のエリート社員だったのだ。

 その彼は欧州でオペラ、演劇、レヴューにも通い詰めていたので欧州のサブカルチャーに詳しかった。1920年代の欧州に駐在して、ベルリン国立歌劇場でオペラを見、フィルハーモニーフルトヴェングラーの演奏を聴き、国立劇場ではマックス・ラインハルトの大掛かりな芝居を見つつ、パリまで足を運べばムーラン・ルージュグランギニョルに足繁く通っていた日本人。こんな趣味人・好事家がいた事をご存知だろうか?

 秦は自分で劇評などの文章も書いた。その時のペンネームは丸木砂土マルキ・ド・サドのもじりである)。なんとウィットに富んだ事か!

 そして彼ほどの教養を持った好事家を日本の実業家が放っておくわけがない。案の定彼を口説いたのが小林一三だ。口説かれて三菱を辞めて東京宝塚劇場の支配人となった秦豊吉がしたこと、それは東京宝塚=東宝をその時代時代で救ったのだ。

 1)1930年代に宝塚少女歌劇団のベルリン公演を実現させた。

 2)戦後間もない頃、資力も人材も窮地の東宝を救ったのは秦豊吉が考案した絵画をモチーフにしたストリップショー、いわゆる「額縁ショー」だった。

 3)これから日本で上演すべき舞台芸術は音楽と演劇を融合したミュージカルだと目論んだのは秦豊吉であり、1951年帝劇で越路吹雪(当時まだ宝塚在籍)主演「モルガンお雪」を興行し、これをもって帝劇ミュージカルが、そして日本のミュージカル歴史が始まったも同然なのだ。

 こんな教養溢れる趣味人が1920年代から1956年に亡くなるまで活躍していた事を今の我々は知らないとしたら…。なんて悲しい事だろう。

 そしてもっと悲しいのは、ここまで教養を惜しみなく使って日本のサブカルチャー、大衆文化を牽引してきた秦豊吉を超える人物が、今いない事だ。インターネットで世界中の情報を瞬時に得られるのに、秦の時代と違って誰でもが自由に好きなだけ外国語も学べるし、Amazonを使えば最新刊の海外小説もすぐに読める。映画だってそうだ。なのにどうだろう?日本の好事家たちは自分の教養をドンドン増やして、世界中の面白いものを誰かが日本語で紹介するのを待たずに、リアルタイムで原語で楽しんでいるだろうか?

 好事家を本気でするのなら、日本の図書館やメディアで手に入れるだけで満足している限り秦豊吉を超える事は出来ない。これだけ容易に世界と繋がっているのに、彼の死後70年も経っているのに、何故秦豊吉を超える庶民、若者が普通にいないのか?何とも情けないではないか!

 それはひとえに自分に教養を備えていこうとせずに、安易に機械翻訳や他者に頼る短絡的な人ばかりいるからではないのか?好きな事があれば、自分に投資して自分の知識・教養・能力でその好きなことを120%享受できる環境づくりに励むものではないのか?それこそが、受験とは全く関係のない、自分のための勉強だと堅く信じて今日も学んでいる。

 

趣味に利便性を求めるなんてナンセンスだ。

趣味だからこそ面倒であればあるほど面白いんじゃないか?

Karfreitagsvergebung (聖金曜日の赦し) —— 映画「オッペンハイマー」の簡易分析

聖金曜日の映画】
 2024年3月29日はKarfreitag(聖金曜日)、カトリック教会では磔刑に処されたJesus Christusの受難と死を偲ぶ日である。本日のこの憂いに満ちた悲しみを追憶する日に、日本では原子爆弾の父と言われた Oppenheimer の映画が公開初日を迎えた。初日最初のIMAX上映を観て感じたのは,まずこの映画はまさに聖金曜日という追憶の日に相応しい内容だったことだ。それは Robert Oppenheimer という人物を深掘りすることで明らかになる憂いと悩みだけではない。

 この映画の前半は Oppenheimer が原爆開発の任を負うまでの,彼と量子物理学との出会い,研究者としての錬成,そして恋愛&共産主義への傾倒にある。中でも実験物理学から理論物理学へと研究の射程を定めていく過程で,ケンブリッジ留学によって Niels Bohr と,さらに Bohr のすすめでゲッティンゲン大学へ移籍して Max Born, Werner Heisenberg に出会い,彼らの下で博士号を取得する。1920年代から30年代にかけて,量子物理学の発展がめざましいのだが,それは本当に一握りの,だれもが知り合いのようなグループ内でのことだったと思われる。Otto Hahn, Lise Meitner の核分裂の発見を皮切りに,Max Born, Niels Bohr, Werner Heisenberg, Albert Einstein, Friedrich Hund, Carl von Weizsäcker など Oppenheimer にとってはゲッティンゲンで顔馴染みだった同僚,師,仲間だったのだ。それが米独の戦争で別れて原子爆弾の開発を担う皮肉。有事とは言え憂いに満ちた悲しみであり,しかしながらアメリカが先に開発しなければ,ナチスドイツが戦争に勝利するかもしれないという杞憂が常に恐怖となってつきまとう。

 それと同時にアメリカならではの「悪の観点」が Oppenheimer を苦しめる。それは共産主義だ。アメリカは今でも共産主義思想,社会主義,組合,断交など資本主義に対する敵だと決めつけて一顧だにしない。労働者の権利よりも,雇用主のアメリカンドリームの方が大切なのだ。独仏の社会主義君主制や民主主義など全く相容れない。だから Oppenheimer が共産党員ではなくてもそのパーティーに出向いたり,恋人になる精神科医ジーン・タトロック,後に妻になる生物学者のキャサリンはみなパーティーで知り合った共産党員だ。これは日本の社会・共産主義者にも共通していることだが,この思想を造り上げて,広めていったのは実はインテリだ。インテリゲンチャは頭脳で社会主義を理解してユートピアだと考えるからパーティーを開いて団結する。それは知的エリートにとって何も悪意はない。しかし貧富の格差を否定しない資本主義を守ろうとする政治家や企業家にとっては面倒くさい理想主義者たちに他ならない。だからレッドパージに繋がる。(勿論当時はソヴィエトという国家が存在したのでこの国家の,スターリンのスパイになっているのではという危惧は十分ある。)————この,共産主義への傾倒はアメリカ社会では受難の対象に他ならない。 Oppenheimer は受難する。前半生がどっぷりと受難の原因になっているからだ。

 時代と政治に翻弄される量子物理学者たちの憂い,社会・共産主義に目覚めたインテリゲンチャの杞憂,この悲しみに満ちた過去を聴聞会で追憶し答弁する Oppenheimer 。この映画の作り方はまさに Karfreitag に相応しい。ではワーグナーの楽劇 Parsifal のように Karfreitagszauber (聖金曜日の奇跡) は起こるのか?

———— 残念ながら起こらない。傷を負った Amfortas であるかのような Oppenheimer に変わって聖杯の務めを果たす=アメリカの原子力政策を健全に導こうとする Parsifal は現れない。Amfortas の傷も癒えなければ聖槍を齎す者もいない。いるのは傷の癒えない Oppenheimer に替わって政治的野心から聖槍ではなくアメリカに水爆を保持させた Lewis Strauss だった。プリンストンの所長,理事長であり,アメリ原子力委員会の委員長もつとめた Lewis Strauss。このユダヤ人には政治的野望があった。そのためには Oppenheimer は排除せねばならない大きな衝立だった。映画館で鑑賞している内に,この映画は二つの公聴会シーンで組み立てられていることに気づく。一つは Oppenheimer のレッドパージに関する聴聞会。もうひとつは Lewis Strauss の商務長官認定の公聴会。すべてはこれら聴聞会・公聴会での回想,再現ドラマとして過去がカラー映像で蘇る,まるでタイムマシーンに乗っているかのような構成になっている。

 

【3人のユダヤ人】
 この映画の根底にある本当の主張は人の勲は時の政治の手段にしかならないアメリカ政治の醒めた現実だ。その現実の中に人々の誠実さ,野心,慾望,愛情,成功と失敗,嫉妬などあらゆる感情と活動が乗っかって国家という政治の船は操舵している。

 それを明確に暗示するために脚本は原作とは異なり3人の人物を照射対象とする。Robert Oppenheimer, Lewis Strauss, そして Alber Einstein の3人のユダヤ人である。そしてこの映画の最も重要且つ秘密だったシーンが,Lewis Strauss に案内されてプリンストンに初めてやって来た Oppenheimer が庭で佇んでる Einsteinを見つけ,会話をするシーンである。Lewis Strauss は Oppenheimer に Einstein を紹介しようとするが Oppenheimer が「旧知の仲だから紹介は不要だ。」と一人 Einstein の所に近づき話をする。その間何が語られているのか Strauss にはわからない。分からないが, Einstein が険しい顔で去って行くのを観察して, Strauss はOppenheimer に「何か嫌な事を言われたのではないか」と気にするのである。妄想癖があるのか Strauss はそれが自分自身に対する誹謗中傷もあるのではと思い込む。この時プリンストン高等学術研究所所長だった Strauss はこのポストを皮切りに政治家として閣僚までに成り上がるのを目指して傘下の人々をドライヴするのである。そのためには自分のドライヴが及ばない Oppenheimer は目の上の瘤だった。ゆえに戦後は Los Alamos で Oppenheimer と意見を異にした学者たちを上手に利用して Oppenheimer の追い落としを画策するのだ。

 Oppenheimer はアメリカでは怪訝な学問だとして白眼視されていた量子物理学を科学者として大きく育てるために,物理学者のライバルたちと戦いながら軍とタッグを組んで当時必要とされた原爆開発に傾注する。しかしそれは単なる第二次世界大戦の敵国ドイツを下すための兵器開発ではなく,彼に量子物理学を授けてくれたドイツ,ゲッティンゲン大学の研究者たち,中でも Werner Heisenberg へのシニカルな学術的恩返し及びライバルとして先を行く立場になるための努力だったのだ。こうした Oppenheimer の個人的な気持ちとは裏腹に,原爆開発を成功させた彼に寄せられる賛辞,勲章,Strauss が嫉妬するようなアメリカの原子力政策に対する影響力,これが実は全て Oppenheimer 個人の功績への代償ではなくて,1950年代のアメリカ政界が戦後の敵対国ソヴィエト連邦に対抗するための政治的プロパガンダの一手段でしかないことが,プリンストン初日での Einstein との会話でなされているのだ。Einstein は言う「自分は国を捨てた身だ。」しかし Oppenheimer は自分が政治的手段として,ただのピエロとして翻弄されているに過ぎないことが得心出来ていない。だから Einstein は言う。「国を捨てることだ。そうすればわかる。」——国家に対して誠実に愛国心をもってロスアラモスの研究に従事した Oppenheimer にとって,Einstein のアドバイスはあの時点では全く理解出来なかったのだ。奇しくも数千年も国家を持たなかった流浪の民ユダヤ人賢者の言葉といったところだろうか。深読みすれば浮き上がってくる解釈だ。

 この映画の大いなるテーマは「政治と人の慾望・野心」であり,それを3人のユダヤ人で例示している。ユダヤ人は白人社会に重要な関与をしてきたが,しかし肝心なところでは排除される。結果的には,

① Oppenheimer はレッド・パージのあおりをうけて,また Strauss の画策?で原子力委員会から追放され,

②Lewis Strauss はアイゼンハワー政権下の商務長官のポストを公聴会で(J.F.ケネディら3票の否決票によって)拒絶される。

③そして1939年 Einstein はナチス政権下で Otto Hahnが核分裂実験に成功したことで危機感を感じ,ルーズベルト大統領に原爆開発を求める文書に署名をしてアメリカの原爆開発を決定づけたが,彼の物理学はもうピークを過ぎていて,もはや量子物理学を指導する立場にはないと周知されてマンハッタン計画からは外された。

 3人のユダヤ人は皆,彼らの人生で肝心なところでは除されてしまうのである。これが白人社会がユダヤ人を今でも認めない現状であることを想起させるのだ。

アカデミー賞に多部門でオスカーを取った理由の背後にこうしたことがあるならば分からない事はない。

 

【この映画から受け取るもの】
 この映画に「恐ろしい破壊兵器を作ってしまった科学者の悔恨」を求めるのは間違ってはいないが,私にはそれがメインストリームには思えない。むしろそんな恐ろしい人物を創り上げていった,アメリカ政界という恐ろしい歴史,時間軸について関心を寄せるべきではないだろうか。政治は係わっている人々の野心と慾望と画策によって築き上げられるパフォーマンスである。かつてナチスの宣伝大臣 Joseph Goebbels は政治こそ最高の芸術だと称した。私はGoebbels の見解には賛成しかねるが,政治こそ歴史という形の,怨念や野心といった様々な人間の気持ちの塊,思念が織りなす複雑な複合体だと思えてならない。この映画はそれを我々の目の前に提示して,「さぁ,ここからお前は何を受け取るか?」と問題提起されているように思った。

大正時代の感傷主義的エリートたち

 華厳の滝に投身自殺した一高生、藤村操の「巖頭之感」は当時(1903年)の旧制高校生や知識人に大きな衝撃を与えた、というが、具体的に影響を受けた人の言葉を読んだことがあるだろうか。

例えば当時藤村より5歳年上だが、一高では一年上の寮生(西寮六番)だった岩波茂雄岩波書店の創業者)はこう書いている。


「その頃は憂國の志士を以て任ずる書生が『乃公出でずんば蒼生をいかんせん』といつたやうな、慷慨悲憤の時代の後をうけて人生とは何ぞや、我は何處より来りて何處へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悩時代でもあつた。立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするを恥ぢ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには死も厭はずといふ時代であつた。。現にこの年の五月二十二日には同學(一年下)の藤村操君は「巖頭之感」を残して華嚴の瀧に十八歳の若き命を断つてゐる。

悠々たる哉天壤、遊々たる哉古今、五尺の小蠣を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチーを値するものぞ。萬有の眞相は唯一言にして悉す日く「不可解」。

我この恨を懐て煩悶後に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。初めて知る大なる悲観は大なる樂観に一致するを。


青天の霹靂の如く莊嚴剴切なるこの大文字は一世の魂をゆりうごかした。賞時私は阿部次郎、安倍能成、藤原正三君の如き長友と往來して、常に人生問題になやんでゐたところから他の者から自殺でもしかねまじく思はれてるた。事實藤村君は先駆者としてその華嚴の最後は我々憧れの目標であつた。巖頭之感は今でも忘れないが當時これを讀んで涕泣したこと幾度であつたか知れない。友達が私の居を悲鳴窟と呼んだのもその時である。死以外に安住の世界がないことを知りながらも自殺しないのは眞面目さが足りないからである、男氣が足りないからである、「神は愛なり」といふ、人間に自殺の特権が與へられてゐることがその證據であるとまで厭世的な考へ方をしたものである。」

岩波茂雄の遺文「思ひ出の野尻湖」)


 この後岩波は一高の寮を飛び出して野尻湖の小屋に隠遁する。学業を廃して自殺するのではないかと母親が岩波を探したのだった。彼は友人藤村操の死と同時に自らの二度目の留年、失恋に苦しんでの隠遁だった。


 岩波茂雄の書いた藤村操18歳というのは数え年で、現代の数え方だと満16歳である。

一高生の自殺、それは外野から見れば「エリート学生の自殺」として、国家に約束された有望な将来を断ち切ってまで自殺することへの驚愕だったに違いない。

 しかし岩波やその仲間たち、阿部次郎や安倍能成、林久男らの言動や述懐を見ても、彼ら一高生の悩みは、その約束されたレールに乗って立身出世する事、国家のために滅私奉公する事への疑問だった。

岩波茂雄に先立って、藤村操の行動に反応したのは林久男だった。安倍能成の『岩波茂雄伝』にはその一部始終が書かれている。


しかし岩波の先を越したのは、同じ信州人の林久男であつた。彼は學校にも出ず、遂に寮を出て、一人で雑司ケ谷の畑の中の一軒屋にこもり、雲雀鳴く晩春(明治三十六年)、麥の色濃い季節に、晝も戸を閉めて悶えて居た。それを慰問する為に、同じ悲しみを持つ岩波が渡邊得男と一緒にそこへいつた。(中略)ところが林の様子はだんだん昂進して發狂か自殺かといる所までになつたので、今度は岩波の方が専ら心配して、當時一高の教授だつた桑木蔵翼、精神病の秀三博士に相談し、信頼する先生に預けたらよからうといふ勧告に従ひ、當時長野の高等女學校長で有名な数育者だつた渡邉敏に相談することになり、岩波と渡邊は即刻長野に行って、渡邊に乞うて上京してもらひ、一言も訓兪も説法もせず、林を連れて信州へゆき、林は間もなく平生に復した。

 

 藤村操や岩波茂雄を一高で教えていたのは夏目漱石・桑木嚴翼をはじめ明治に帝国大学を卒業した先輩達である。明治の彼らの「身を立て名を挙げ、やよ励めよ」の世代とは隔絶する、個人主義への萌芽が大正に活躍する岩波茂雄や阿部次郎、安倍能成らの考えなのだろう。

 それは現代ならば「勝ち組」に属するが故にその存在感を疑問視してしまう「贅沢な悩み」に違いない。そして悩みながらも、結局は勝ち組から外れる事なく研究者になったり、官吏になっていく、底辺の人々から見れば、ただのブルジョワジーの気紛れにしか見えない。
 京都大学竹内洋(教育社会学)は著書『日本の近代12』(中央公論新社)の中で,こうした彼らのことを「学歴貴族」と呼んでいる。そして彼らが帝大を卒業し,各大学での講座を獲得しながら,創業した学窓の友岩波茂雄岩波書店から岩波文庫の翻訳本や哲学叢書を刊行して世の旧制高校生の教養主義を維持させた現象を「岩波文化」と称している。


 しかし漱石や鷗外といった前の世代の人々が、藤村操や岩波茂雄たちの思いを全く理解しなかった訳ではない。国家や立身出世に潰される個人については、鷗外は『舞姫』(1890年)で書いている。鷗外自身が国家と家の為に個を捨て、陸軍軍医総監に登り詰める道を進まざるを得なかった。鷗外は諦念の人である。

 一方漱石は藤村操の件だけではないが、様々な教員生活の煩しさ、つまり国立教育機関でエリートを育てる事が神経症に結びついて癇癪持ちになった。それを治療する目的で小説を書きはじめた。漱石は英文学を日本人が研究する意味に違和感を感じていた。舶来主義の時代に、それで日本がどうなるのか憂いていたのである。

 ただ彼らは藤村操のように、個の存在理由を見出すために死を以て人生の安住を図るようなロマン主義的感覚はなかったと思う。これは藤村操や岩波茂雄らの時代はニーチェ個人主義が流行したからだろう。同級生の阿部次郎は後に東北大学ニーチェを紹介するが、明治期では個人主義と言っても国家・家族が個人に常に結びついていたものだったが、その呪縛から、ニーチェのそれはキリスト教の重圧から解放されたアポロン的なものだった。だが、こうした個人主義が、当時の大日本帝国の社会一般で尊重される訳はなく、一高の若者たちは悶々と悩み、個人主義の解放の境地は死だ、と安易に夢想してしまうのだった。藤村操はこうした当時の「一高生」の苦悶を一気に爆発させた極端な例だと言える。そしてロマン主義に傾く旧制高校生たちはこの親友に涙し、英雄視し、憧憬したのだった。

 その想い悩みが積み重なって、阿部次郎は11年後の1914年に『三太郎の日記』を刊行し、大正・昭和の旧制高校生徒に読まれ継がれたのだった。『三太郎の日記』は今の若者が読んだらおそらく理解不能な、不可解に富んだナルシズム的文章としてしか見ないだろう。「ヘルメノフの言葉」、「本当の俺の名前は瀬川菊之丞だ。」など噴飯ものの表現もあろう。これが感傷的な慟哭として理解されるには、現代社会が余りにも合目的的志向で動いているのを糾弾・阻止しなければ不可能である。

俺の心は慟哭せむが爲に鏡に向ふ累(かさね)である。鏡中の姿を怖るるが故に再度三度重ねて鏡を手にする累である。反省も批評も自覺も凡て病である。中毒である。Sucht である。
散漫、不純、放蕩、薄弱、顛倒、狂亂、痴呆——其他總ての惡名は皆俺の異名である。從つて俺は地獄に在つて天國を望む者の憧憬を以つて蕪雜と純潔と貞操と本能とを崇拜する。嗚呼俺は男と大人との名に疲れた。女になりたい。子供になりたい。兎に角俺は俺でないものになりたい。——

(阿部次郎『三太郎の日記』より)

 

 教養主義旧制高校生のバイブルはこの『三太郎の日記』と『若きヴェルテルの悩み』だったという。『ヴェルテル』が好んで読まれたのには合点がいく。ゲーテのこの初期作品はまさに Sturm und Drang(疾風怒濤)時代の代表作であり,大変感傷的な部分もある。例えばロッテとヴェルテルが夕日に向かって語る「クロップシュトック」の場面。クロップシュトックと言うだけで涙がこぼれる感傷的な気持ちというのは,藤村操の遺書を読んで泣き崩れる文芸部の生徒のそれと同じではないだろうか。

 岩波茂雄は藤村事件体験後の隠遁生活で,幾度も「神は愛なり」と叫んだそうだ。しかしこの「神」はキリスト教の神を指しているのではなく,自分が信じる自分の「神」なのだそうだ。当時の彼にとっては「神」という言葉の背景にある学術的な,あるいは社会一般的な語義などどうでもよいのであって,単にこみ上げる感情が着地する場所,それが彼の理解する「神」の語義なのだ。

 感傷的で個人的で内向的なもの,それが大正時代のエリートたちが大切に持ち続けていた「こころ」だったのだ。

 

娘の復讐は愛情の証

 国立国会図書館から資料が届いた。日本で初めて『ファウスト』を上演した近代劇協会の俳優,衣川孔雀について二つの雑誌記事だ。

 1つは週刊新潮1980年6月5日号掲載の森茉莉「ドッキリチャンネル㊴」,もう一つは季刊下田帖41号1997年12月30日発行コーバー月子「母・衣川孔雀」だ。

この資料を取り寄せた理由は日本初のグレートヒェン女優,たった4年間の女優生活だったが,松井須磨子と並んで絶大なる人気を誇った衣川孔雀の真実を知りたかったからだ。

 先々月(2024年1月)新刊した大橋崇行『黄金舞踏 俳優・山川浦路の青春』に近代劇協会の公演について魔女・マルテ役で出演した上山草人の妻山川浦路の述懐が述べられる。その中で衣川孔雀が男に惚れやすく,惚れたら直ぐに事に及ぶという描写がある。

山川浦路

「あなたが十人目の殿方でしたが,今までのどなたよりも大きかったの。それで,つい我を失ってしまって」 

大橋崇行『黄金舞踏』2024年 潮文庫 248頁)

 

 小説とは言え,随分と直接的な表現ではないか。スペイン大使館勤務の父親を持ち,自らお茶の水の女学校に通い,行く末はソルボンヌ大学へ留学を夢見ていたという大正時代の良家の女子がこんなに衝動的な人物なのだろうか,と疑問に思った。総合研究大学院大学を終了し博士(文学)の学位まで持っている作者の大橋崇行氏が書いたこの小説が,いくら巻末に「本作はフィクションです」とあるからといって,実在の人物を極端に貶めるような小説を書くだろうか?と半信半疑だったのである。

 

 日本で最初に『ファウスト』を上演した近代劇協会,その創立者であり,後にアメリカ映画界で成功した俳優上山草人が,渡米する前に自分から離れていった衣川孔雀に未だ未練があり,愛情が憤怒に変わってその憤怒を書き綴った小説がある。新潮社から出版された小説『煉獄』(大正7年)と『蛇酒』(大正6年)である。この小説は草人の近代劇協会時代について全て仮名にして書き下ろしたものだが,そこに孔雀にあたる人物牛窓麗子が書かれており,その記述が先ほどの「十人目」などの話になっているらしい。大橋氏はおそらくこの小説を参考にして孔雀について書いたのではないかと想像出来る。この小説の序文を,当時上村の自宅兼店舗(化粧品屋を営んでいた)となっていた新橋駅前の「かかしや」に入り浸って花札を切っていた谷崎潤一郎生田長江が書いている。

 

 衣川孔雀は大正2年近代劇協会の上演する『ファウスト』のヒロイン,グレートヒェン役で初舞台を踏んだ。先に触れたように,スペイン大使館勤務の父親をもつ恵まれた家庭のお嬢様だった。しかし父親が病気に倒れ,一家の大黒柱として働かなくてはならなくなってしまったのだ。そこに舞い込んだ女優というオファー。稼げると聞いて「ノー」とはいえなかっただろう。

 上山・山川夫妻の住む化粧品屋兼住居に転がり込んで夫,妻,愛人の三角関係同居が実現していたこと自体が不可思議だが,これは衣川の家族も認める事実なのだ。だが衣川孔雀(本名牛圓貞)が上山に一目惚れして同棲生活をすることになったのか,それとも,ある資料の通りに上山が

「劇団生活には団結が必要。歌舞伎俳優はそのために,皆親類縁者で繋がっている。君も僕の協会に来たら親類になるか?」

 と愛人になることを強要し,

「なります。」

 と答えたので早速彼女を親類にしてしまったと書かれている。(松本克平『日本新劇史 新劇貧乏物語』1966年 筑摩書房 111頁)

 その記述通りだったのかよく分からない。とにかく衣川孔雀,否牛圓貞の人間性が掴めないのだ。

 

※※

 帝国劇場の『ファウスト』公演は成功した。ただしこれは芝居としての成功と言うよりも経済的な成功だ。5日間大入りでチケットが完売したという。これは帝劇始まって以来のことだった。雑誌・新聞の論評は数多く書かれたようだが,共通して評判の良かった俳優は衣川孔雀だった。この後も孔雀は近代劇協会のヒロインとして俳優を続けるが,1917年(大正6年)遂に嫌気がさして上山宅から逃亡する。最初は見つかって連れ戻されたが,二度目は成功した。その逃亡劇に手を差し伸べたのがアメリカ大使館近くに診療所を開所していた日本では殆どいなかった矯正歯科医だった寺木定芳である。泉鏡花の門人でもあり,孔雀の芝居を初めて見たときから孔雀の大ファンになり,公演チケットの最前列中央を全公演買い占めるほどの熱の入れようだった定芳が孔雀の逃亡を手引きし,後に結婚した。

衣川孔雀のグレートヒェン

 その衣川孔雀(牛圓貞)の夫寺久定芳の伝記鈴木祥井『寺木だあ!』2009年 財団法人口腔保健協会 を読むと,衣川孔雀は貞淑な女性で,十人の男と取っ替え引っ替え寝台を共にしていたというゴシップはただの捏造に過ぎないと,娘のコーバー月子の随想にはあるという。

 

 その一方で,この『ファウスト』の脚本となった訳をした森林太郎,即ち森鷗外を訪ね,役について助言を求めた衣川孔雀が森鷗外を「誘った」というエピソードを書いた人物がいる。鷗外の長女森茉莉だ。森茉莉は1979年から1985年まで週刊新潮に「ドッキリチャンネル」というコーナーをもっており,1980年6月5日号の「ドッキリチャンネル㊴」で「オーガイの恋愛事件」と称してベルリン時代に冬を越すために娼婦が鷗外に部屋の鍵とメモを渡したので行ってみた話と,『ファウスト』初演時に衣川孔雀が觀潮楼(鷗外宅)を訪ね役について訊きに来た話が書いてある。国会図書館より取り寄せた第一次資料を抜き書きすると,森茉莉はこう書いている。

 

十五分程して帰った後,茶呑茶碗を下げに来た母に父が言った。「孔雀が俺にある目をしたよ」と。(中略)「或る目ってどんな目です?」と訊くと父は微笑って言ったそうだ。「あなたにお気がおありなら遊びましょう,という目だ」と。(中略)父という人は母に言っていたそうだ。(恋愛の機会というものは避ければ避けられるものだ)。こういうのが色男というものだ。父は孔雀の言葉をわからなかったような顔をしたのである。上山草人を始め一座のあらゆる男を,浮気の相手にした孔雀だったが,彼女は多分,鷗外はだめだったな,と思ったのだろう。

      (森茉莉「ドッキリチャンネル㊴」週刊新潮1980年6月5日号82頁)

 

 この記述に至る前に,森茉莉は上山の小説中の孔雀についての記述を紹介して,

 

そんな大勢とどうして出来るのだろうと思うのはそんな大勢と浮気をしたことのない人間の考えることで,彼女は道具の陰なぞで起っていて浮気をするらしい。上山草人の手記のような小説の中に書いてあるのだそうだ。それなら短かい時間に何人とでも浮気が出来ただろう。

森茉莉 上掲書 82頁)

 

 なんともこれも生々しい描写だ。前に話題になったとびきりの美人を奥さんに貰ったお笑い芸人が素人の女たちとトイレなどで気の向いたときにセックスをしていたのが暴露されたゴシップ記事が世間を騒がせたが,それを連想させるような淫乱というか乱交ぶりのように語っている。と同時に,(ここが森茉莉なのだが)最愛のパッパこと森鷗外だけは孔雀の誘いに乗らなかったと誇らしげなのだ。そして森茉莉の興味は孔雀の服装についての話題に移る。

 

恋愛というものに全く駄目な私の母は,孔雀のような女を崇拝,というのもおかしいがそういう感じを持つ傾向があったので,どこかから噂をきいて来たらしく私にこう言った。(孔雀は細かい大島風の絣の着物に普段帯を締め,濃い紫の,カシミアかなにかの無地の前掛けをしていたそうだよ。いい感じだねえ)と言った。その後母はその孔雀のなりに憧れたらしく,私に海老茶や濃い,幾らか赤みのある濃い紫の無地の前掛けをさせた。女学生の袴を作る店に行って生地を買ってきて,女中に縫わせたのである。それは確かに大正時代の奥さんの,なかなかいかす風俗だった。(中略)このなりはたしかに現代の花模様なんかの短かいワンピースにちりちり頭の奥さんや,巴里に五遍も行ってまいりましたというような洋服の格好で,銀座をお歩きになっている奥様よりも何段も勝っていることは確かだろう。

             (森茉莉 上掲書 82-83頁)

 

 森茉莉の母親志げは大審院判事荒木博臣の娘で,1902年(明治35年)21歳で40歳でバツイチの鷗外に嫁いだ。鷗外に嫁ぐ前に志げは一度結婚していたので互いにバツイチだった。にもかかわらずその美人さを鷗外の母が認め,鷗外に結婚を勧めた。件の孔雀のエピソードは大正2年(1913年)だから,志げは32歳,一方孔雀(牛圓貞)は17歳だった。因みに原稿の主森茉莉1903年生まれなので10歳の時の話だ。仮に現場に立ち会っていてもここで書かれた事を理解しているとは思えない。そして,もし森茉莉が衣川孔雀と会っていたならば,その時の事について彼女なら無理矢理でも何か書こうとした筈だ。記憶がないのではないか?

さてパッパ大好き娘,永遠のお嬢様の森茉莉が,無邪気にも衣川孔雀のエピソードを掲げて言いたかったことは

 

①愛するパッパは女の誘惑に負けるような男ではないが,色男のダンディズムを備えたセクシーな男である。

②孔雀の服装はイケてる。母はそれを私にさせていた。(→私の格好は今の銀座をお歩きになっている奥様よりも何段も勝っていた。)

 

 つまり,他人を話題にして自画自賛しているだけである。上山が嫉妬に狂って書いた小説の真偽など確かめることは全くしていない。週刊誌に載せることで語られた人物がどのように思うか,どんな風評被害を被るかもしれないことには無頓着極まりない連載を書いていた。(この連載は森茉莉がテレビに出演している芸能人などについてバッサリ一刀両断するコーナーだった。)森茉莉の文章は,有名な小説『甘い蜜の部屋』もそのほかのエッセーや随筆も,森鷗外の長女としていかに寵愛され,一般庶民では叶わなかった衣服や食べ物などを豊かに享受して,蝶よ花よと育った美しい日々への反芻ばかりのように感じる。その一方で結婚生活になじめず,独り身になって鷗外の印税が切れた50代から文章を書いて糊口をしのぐ生活,雑然とした6畳一間の自宅をアパルトマンと称して,まるで貴族が平民に堕ちてどう生きて良いのか分からないような「生活能力のなさ」が現実だったことは彼女の周囲の証言(室生犀星など)を読めばよく分かる。三島由紀夫の発言「貴女は文学の楽園にすんでおられます」はこの人の佇む空間が一体どこなのかを端的に物語っている。

 

※※※

 国会図書館より取り寄せたもう一つの資料,コーバー月子「母・衣川孔雀」は森茉莉の連載が発表された17年後の1997年,伊豆下田の地域歴史誌に掲載された。なぜこのような限定された地域誌に載せたのかはわからないが,当時下田に居住していたからではないかと思う。2009年発行の『寺木だあ!』の著者鈴木祥井氏の後書きではコーバー月子はカリフォルニアに在住している。

 コーバー月子の文章は,自分が母寺木貞の過去を知らなかったことから始まっている。1913年から1917年の父,寺木定芳との結婚までの4年間,大正デモクラシーで新劇が演劇として確立しつつあったその時,あの松井須磨子と人気を争う女優,衣川孔雀として近代劇協会の看板女優だった事実を,孔雀の次女であるコーバー月子は17歳にして初めて知ったのだった。ここからは牛圓貞,否寺木貞あるいは衣川孔雀の娘に語った話となる。

 

明治末期の文学少女の母は,トルストイツルゲーネフに心酔し,お茶の水女学校へ,人力車で通う豊かな環境にあったのだが,或日突然,スペイン大使館に務めていた父が急死して,母と弟との生活につき落とされ,常日頃フランス語を習って,パリ,ソルボンヌ大学に留学を夢見ていた乙女は,一家の柱となる運命に出会う。(中略)その頃,出入りしていた,銀座の「カフェパウリスタ」で,ここが全く親子でよく似ているのだが,上山草人という,近代劇協会の新劇俳優にめぐり会う.母の若さと美貌に忽ち魅かれた草人は,(中略)早速母を説得して家に連れて行き,新劇など経済的に豊かでなかった為に,自分で作った舞台化粧品を売っていた「あかしや」(これは「かかしや」の誤謬)に妻の女優山川浦路と共に住まわせ,三ヶ月にわたって女優の訓練を与えた。

 牛圓貞は大変なお嬢様である。当時の女子の最高学府お茶の水女学校に「人力車」で通う少女。そんな隙のない良家の子女がどうやって17歳にして殿方10人と性行為をすることが出来るのか?そして大橋崇行の『黄金舞踏』にあった台詞,

 

「あなたが十人目の殿方でしたが,今までのどなたよりも大きかったの。それで,つい我を失ってしまって」 

「貞(上山草人の本名三田貞)さんに一度抱かれたら,もう他の男では満足できません。どうか,私を俳優にしてください。それを受け入れてくださるなら,きっと私は他の殿方たちと別れます。お願いです。どうか,どうか私を捨てないでください。」

大橋崇行『黄金舞踏』2024年 潮文庫 248・256頁)

 

 こんなご乱交を大正時代の17歳のお嬢様がしていたとは,いくらスペイン大使館勤務の一等通訳の娘だからといってあり得るだろうか。頗る疑問であると同時に,自分の母親についてこんな醜聞を書かれる子どもたちの気持ちを察してみたらいかがだろう。

 

※※

 森茉莉は鷗外の娘として格別の少女時代を送っていた。彼女も又女学校に人力車で通っていた。そして牛圓貞が通っていたお茶の水女学校に小学校時代は通っていたが,運針の教師が嫌いで登校拒否を起こして中退,仏英和女学校(現在の白百合学園)に転校した。15歳で見合いをし,17歳で学校を卒業すると仏文学者山田珠樹と結婚し,山田の私費留学についてパリへ渡った。しかし山田の女性関係が元で離婚となる。次に嫁いだ先も仏文学者で佐藤彰の後妻となるも,赴任先(東北帝国大学)の仙台には銀座も三越もない,とぼやいて実家に戻された。森茉莉は牛圓貞を草人が見初めたカフェパウリスタにも当然出入りしている。この人は衣川孔雀と同じく娘時代は最上級の生活だったのだ。だが離婚以降,特に鷗外の印税が切れた後の独居生活では,森家で享受したあらゆる楽しみは閉ざされ,まさに著書『記憶の繪』よろしく美しき過去の思慕に生きてきた。

一方衣川孔雀は寺木との結婚後,女優業を辞めたが,その後の生活は歯科医寺木定芳の妻として,寺木の開いた賭け麻雀のサロン「湘南クラブ」のホステス役として,そこに集う患者の文士たち菊池寛,里見弴,久米正雄,久保万太郎,藤原義江直木三十五横光利一らをもてなした。森茉莉のような貧困とは無縁の,幸せな人生を送ったのではないだろうか。そんな人生など森茉莉は知らない。しかし,衣川孔雀が美人であったということだけは,深く記憶していたようで,彼女のエッセイには時々孔雀が出てくるのだ。

 

私の父親は衣川孔雀が須磨子に比べて芸に謙遜なところが好きで,美も認めていたが,母の方は須磨子が好きで彼女が或日家に来た時は喜んでいた。

衣川孔雀は父親が「千人切り,千人切り」と口癖に言っていた男で,その父親に抱かれて寝ている内に千人切りが大変偉いものだと思いこみ,すごい魔力のある女に成長した女で,(中略)そういうなりは眼の大きな鼻の高い,所謂美人がやると,変にいきすぎるが,眼立たない,一寸女学生風の孔雀がすれば素敵にちがいない。

   (森茉莉『記憶の繪』より「大正時代の新劇とその人々」184頁以降)

松井須磨子サロメ

…教壇そっくりの台の上に現れたクライスラアが一礼して弓を楽器にあてるや,静かな,どんな荒れ狂ったヒステリィ女も鎮まるような,きれいな音が流れ出したことに感動したり,「アルト・ハイデルベルヒ」のケテイが衣川孔雀の足元にも及ばないことに失望したり,…

     (森茉莉『記憶の繪』より「続・伯林の夏」309頁)

 

 衣川孔雀の美貌は誰が見てもそうだったらしい。

 

…歯科医の父と結婚して,ピタリと女優を退めた後でも,鎌倉の海岸辺りに出て行くと「孔雀だ,孔雀だ」と人がさわぎ,父は不愉快な顔をしてパラソルをたたんで帰宅したのだという。

(コーバー月子『母・衣川孔雀』:「下田帖」第41号96頁)

 

 極めつけは1944年三田文学1月号に発表された大岡龍男『逗子夫人』で,

 

...とうたはれた衣川孔雀であることを記憶から呼びおこし得た。あの逗子夫人が衣川孔雀の後身であつたのか······

 

 孔雀が演劇界から去って30年以上が経っているのに,50歳に近い彼女をこうして文章にしたためている。

 実の娘のコーバー月子でさえ,

 

子供の時から母が美しいという事を知っていたが,なぜ自分が母のように美しく生まれなかったのかと,くやしかった。

       (コーバー月子 上掲書100頁)

 

 こんな調子である。コーバー月子の上掲書には,

 

いつか読んだ森鷗外の小説の中に,「まるで孔雀のようにきれいだ」という会話があり,それは鳥の孔雀ではなく,帝劇の美しい美人女優の事だとあったのを覚えていたが,まさかそれが自分の母親の事であったなど夢にも思わなかった。

             (コーバー月子  上掲書 96-97頁)

 こんな鷗外についての文章があるが,この「まるで孔雀のようにきれいだ」が書かれている小説とはなにか,筆者は確認出来ていない。

 森茉莉のエッセイで,母親は松井須磨子の方が好きだったと孔雀に手厳しい志げが紹介されているが,コーバー月子も

 

森鷗外はグレートヘンの孔雀を可愛がり,人形の家のノラ役を推薦して,その翻訳の原稿を記念に上げるとまで云ったと,母は尊敬し,慕っていたが,奥様には恨まれたというからその辺の事情もあるらしいが,… 

(コーバー月子 上掲書 99頁)

 

 と森志げと牛圓貞とは良い関係ではなかったことを告白している。ただ,コーバー月子は母親にあらぬ汚名を着せた,当時10歳でしかなかったのに事実を知らないであろう子供が,後にエッセイストとしてあたかも知っているかのように執筆している森茉莉を許せなかった。上記の文の前後はこうなっているのだ。

 

森鷗外の娘茉莉が古い本などから索引して,面白いおかしく書いていて,この草人の『煉獄』からそのまま,孔雀を節操もない,淫乱,下品な女優とこき下ろし,その父親までがセックスメ二アと侮辱したという記事を載せた。…(上掲文)… 明治の文豪の娘が,前後の事情も説明せず,一方的に草人の狂人に近い恨みをぶちまけた本から,ゴシップ記事を作り,原稿料を稼ぐとは,アメリカでは「イエロージャーナリズム」,全く情けない,低級な記事扱いだと,私は新潮社に抗議文を送ったのである。   

                                                   (コーバー月子 上掲書 99頁)

 

 上山草人という人物は証文好きだそうで,嫉妬に狂って孔雀にも毎月のように血でしたためた誓約書(他の男と浮気しない誓い)を書かせたとある。それが本当かどうかはわからないが,事実であるのは,寺木と結婚した孔雀が近代劇協会を辞めるとき,草人が他の団体の芝居に出ないことを誓わせた。しかし一度だけ京都南座で上演される沢田正二郎新国劇『飛行曲』のエンミーという役に夫の寺木と沢田の頼みで出演が決まったときに,草人が激怒し短刀を隠して京都駅に待ち伏せした事件があった。これは東京日々新聞の記事にもなっている。結局待ち伏せを察知した寺木と孔雀は大津で汽車を降りてタクシーで行ったという。

 こうした上山草人の嫉妬に狂った挙げ句の小説が,花札仲間の谷崎と生田の序文を得てあたかも私小説のように扱われたことに悲劇がある。そして父鷗外も含めてその小説を信じてしまった森茉莉のお人好しさも,孔雀の娘コーバー月子にとってみれば許せない罪過である。もしかしたら,女優衣川孔雀の活躍を,森茉莉はパッパと孔雀のかかわりから嫉妬していたのかもしれない。母志げが,須磨子を推しているのに孔雀の服装にこだわり,茉莉にその服装をさせるあたり,志げも孔雀を意識していたに違いない。そしてコーバー月子の文のように,鷗外が孔雀をノラ役に推薦し,記念に翻訳原稿を上げると本当に語ったのを知っていたのなら,茉莉が嫉妬しないはずがない。パッパは茉莉だけのパッパ,彼女が書いているように,パッパ鷗外は茉莉を膝の上に載せ背中を軽くたたきながら,

 

お茉莉は上等,お茉莉は上等,目も上等,眉も上等,鼻も上等,頬っぺたも上等,脣も上等,髪も上等,性質も素直でおとなしい」

 

 と茉莉をご満悦にさせるのだ。その父鷗外に格別の寵愛を受けていたのではないかと孔雀を疑えば,孔雀の評判と美貌を認めるが故に嫉妬も膨らんでしまうかもしれない。

 

 孔雀がただ美しいだけではなく,俳優として格別だったことは『ファウスト』の劇評でも十分に分かるし,コーバー月子が母親と帝劇の楽屋に先代の水谷八重子を訪ねたとき,八重子から「お母さんは続けていたら大女優よ」と言われた述懐で,もはやお墨付きを貰ったも同然だ。そこまで外見も演技も素晴らしかった母親を娘は誇らしく思うだろうし,それと同時に面白おかしくこき下ろしたもう一人の娘の父親にしか向かない気配りに怒りがこみ上げてきたのも無理はない。

 

 コーバー月子が新潮社に送った抗議文の反応は何もなかったらしい。それから,唯一孔雀側に瑕疵があるかと思われる,「あなたにお気がおありなら遊びましょう,という目だ」事件だが,『寺木だあ!』によると,孔雀は流し目が癖だったらしい。家族にも流し目を使っていたそうだ。ただ,そんなドメスティックなことは森鷗外にはわからないから,誤解されても仕方ない。

 

 要するに,この二人の娘は互いに愛する人を愛するが故に互いを許せない。だがその根底には茉莉にはパッパへの深い愛の,月子には母への誇らしい愛の激流が流れている。これが二人の娘の共通点だ。愛故に他人を傷つけ,他人を非難する。どちらが悪いとか,正しいとか,間違っているとかここで勧善懲悪を述べても無駄だと私は思う。でもこの論争に救いがあると云えば,先ほどから述べているように,愛情が深いから憎しみも増大しているという点だ。愛がなくてただ憎しみだけが表出されていたら,それは邪悪で,意味のない行為だが,愛があるから憎まざるを得ない場合はいつかは憎しみを乗り越えて,愛のみを振り返ることも可能に違いないのだ。そう思いたい。

寒さの思い出

今日はとても寒い。東京でも雪が降っていた。「ああ,寒い。(Il fait froid.)」このフランス語で大昔のことを思い出した。それは雪がテーマになるある小説のこんな台詞だった。

Elle avait froid jusqu'aux os(彼女は骨まで寒く感じた。)

« Ce sera ainsi toujours, toujours, jusqu'à la mort. »(死ぬまでずっと,ずっとこんななのかしら。)

 

これは大学3年生の時に第二外国語のフランス語で読んだモーパッサン « Première Neige »(『初雪』)からの文章だ。今から37年前のこと。当時の第二外国語というのは1年間で文法を終えたら二年目からは小説やエッセーが教材になった。二年生の時は易しくリライトされた『モンテクリスト伯』だったが,外国語学科3年目の第二外国語(フランス語)ではモーパッサンの原文が教材だった。今考えたら,20歳そこそこの学生にいきなり原文でモーパッサンはかなり無謀だ。いまでもその冒頭は覚えている。

 

La longue promenade de la Croisette s'arrondit au bord de l'eau bleue. Là-bas, à droite, l'Esterel s'avance au loin dans la mer. Il barre la vue, fermant l'horizon par le joli décor méridional de ses sommets pointus, nombreux et bizarres.

クロワゼットの長い通りが青い海に沿って丸く伸びる。右手には,海の向こうに突き出ているエステレルの山。それは景色を遮って,いくつもの奇妙な形の尖った頂になっている。この南フランスらしい洒落た眺めが地平線を結ぶ。拙訳)

 

なぜこれを覚えているかというと,A先生が「これはアンガージュマンの文学ですね。」と仰ったから。アンガージュマン(参加の)文学とは,読者があたかもその場所に居合わせているかのように作品を読み解くことができる作家の工夫である。だけれども,フランス語を始めて3年目の若者にとって,こんな文章は一語一語仏和辞典に頼って調べていくしかない。今のようにネットなど存在しないので,Croisetteや l’Esterel という固有名詞が一体どこの何だか調べるのが一苦労。大体どこの話かも分からないのだ。ヒントは唯一 mérdional(南フランスの)という形容詞だけ。いまならネットで検索すればクロワゼット通りもエストレル山脈も南フランスのカンヌだということがわかるが,当時はそれを知るにはフランスの地理について教養がないと…。今はネットで写真すら見られる。19世紀当時の景色はこんなだったらしい。

 


この短編は巴里の裕福な貴族の娘が,北のノルマンディに嫁いだが,その生活習慣(冷たい石造りの邸宅に暖炉を入れてくれない夫),考え方に溶け込めず,寒さと同時に気持ちが鬱になりだんだんおかしくなっていく話だったかと思う。静養のためカンヌに長期滞在している。小説の冒頭の景色はその主人公の目を通した,カンヌの景色なのだ。

週2時間で2年間,つまりたった138時間程度しかフランス語を学習していない(これは仏検3級受験レベルにすら達していない)者にとって,モーパッサンの原文を正確に読むのはかなり難儀だった。しかも2年次までに出てこなかった文法がでてきた。条件法第二形である。A先生が軽く説明。専攻言語がドイツ語で第二外国語がフランス語というクラスの中でも珍しい存在だった(クラスの9割以上が英語専攻の学生)自分の質問「第二形ということは第一形があるのでしょうか。」に対して先生は「ないよ。キミならわかるだろ。」と返してこられた。(ドイツ語なら接続法第二式と対立して第一式があるのに…。)フランス語の文法用語には不可解なものが多い。単純過去,半過去,複合過去,大過去,前過去,「過去」が5つあるが,一体何が「半」で何が「単純」で何が「前」なのか当時は首をかしげていたのを覚えている。

 

日本航空であのモレシャンさんと一緒にフランス語を教えていたんだよ。」とチョット得意げに語られていたA先生は既に退官されて名誉教授になられたそうだが,たまたまyoutubeで講演されているのを見た。まだまだご活躍のようだ。

評論家になるなよ、の評論家って?

 中学生の頃だったか、ちょっとした小論文を書いていた時のこと、担任の先生から「評論家にはなるなよ。」と言われた。論文を書く職に就きたければ研究者になれ、という意味だったらしい。

 評論家も研究者も単純に見れば物事を論じる分には同じように思えるわけだが、実は評論家が作品に対して公平で批判的に論じているかといえば、それは怪しい。

 ある種の評論家はものを論じ紹介する事で、読者をそのものへの消費者になるように導く役割を担っている。なぜそう言えるのか、即ち


①評論家は評論で生計を立てているので、評論を掲載する出版社・メディアの意向を無視することは出来ない。

②出版社・メディアがある特定の作家・品物と様々な利害関係で結びついている場合、評論家はそれを援護する立場で評論しなくてはならない。出来レースである。

③自分の好みを推すよりも、満遍なく様々な作品・品物の良さを論じた方が仕事の幅が広がる。

市場原理の上に評論家業も成り立っているので、それを度外視すれば自分の首を絞める事に繋がりかねない。


 例えばオーディオ評論家が雑誌で新機種の視聴をする場合、それぞれの特徴なり、利点を取り上げて読者がどの機種に興味があってもプラスイメージを持って買えるように書かなければ意味がない。雑誌で取り上げている以上は「この機種は買うな!」と書いたらNGだ。

 書評だって、取り上げている以上はその書籍を宣伝し、読者を増やすための行為のはず。頼まれてもいないのにつまらない本を「こんなつまらない本が出た。世も末だ。」と書評に取り上げる評論家はいまい。

 映画評論家としては日本一であろう淀川長治は日曜名画劇場で取り上げた作品について、それがどんなものであろうと魅力を語る事に専念している。コレからTVで放送する映画について「こんな駄作見るべきものはない」とは絶対に言わない。

 つまり何か商品を紹介する評論にはバイアスがかかっている事は否めない。


 一方で市場経済の中で公正にものを批判できるとすれば、研究者かも知れない。但し彼らは学問の自由の下に平時は保護されるが、有事になれば政敵として「いの一番に」失脚させられる、政治家にとって目の上の瘤だからだ。(御用学者以外は)


 最近はTVでコメントするのは知識人として大学教員か取材側のジャーナリストが多いような気がする。局も公平性を掲げたいのだろう、学者兼評論家の起用が多くなった気がする。大学に籍を置かない純粋評論家の主戦場は雑誌・ネットにあるようだ。それと同時に雑誌・ネットにはライターという商売人もいる。このライターと純粋な評論家の境界線が正直よく分からなくなっていないか?どんな分野でも頼まれれば調べて書くライターさんと、自分の専門の立場から論じる評論家が同じクオリティーだったら評論家の立つ背はないだろうな。


 そもそも純粋な評論家という職業の人はどれくらいいる、あるいはいたのだろうか。例えば商品を論評するのではない、政治・経済や芸術、音楽などの評論家として名高い人々を考えてみよう。

 音楽評論家で名高い吉田秀和は確かに雑誌に評論を書いていたが、桐朋学園創立者の一人であり、桐朋では楽典や高校生に国語を教えていた。教務面だけではなく学務にも関わっていた。

 鶴見俊輔も随一の評論家だが、彼は京都大学、のちに東京工業大学同志社大学教授と研究畑の人だ。

 丸山眞男東京帝国大学法学部卒業のエリートで、大学に残った研究者である。東大法学部教授だった。

 美術評論家の場合、大学教員、研究者以外に学芸員やキュレーターという仕事の傍ら評論活動をしている事も多いようだ。研究職に籍を置いていない美術評論家(前衛・アングラ)の石子順造は鈴与倉庫のサラリーマンだが、実は東大大学院で美術史を修めている。日本にシュルレアリスムを紹介した瀧口修造は1939年から日本大学の講師を務めていた。


 こうしてみると評論家として名を残している人の多くはどこかで大学講師をしている率が非常に高い。大学教員であるというのはある意味専門家、研究者だから利害関係に遠慮せずに自由にものを言える立場と認められうる状況なのかも知れない。

 そうなるとあの時中学校の先生が「評論家になるなよ。」と仰った具体的な評論家って一体誰なんだろう?

ものを売るための評論家のことなのだろうか?