『セチュアンの善人』で何が語れるか

【はじめに】

2024年9月のこと,俳優座,田中壮太郎脚色版『セチュアンの善人』を堪能した。3時間の芝居、退屈することなく観劇した。

成立年代がナチスを逃れて亡命した時期で、戦争も回避でき

ず、何が善で何が悪なのかハッキリとしない社会情勢の下に書かれたブレヒトの脚本。日本では長いこと千田是也をはじめ市川明や岩淵達治が考えた、善人でいることと生きることの対立は、社会を変革することで aufheben(止揚)される社会主義へのエールだと解釈して演じられてきた。それを田中氏は巧妙に脚色する事により、LBGTQの問題、効率化により利益を挙げて、皆がそこそこどうにか暮らしていることに慣れきって改革しない資本主義・自由主義社会の隠蔽された深刻な問題を提示することに成功している。(彼はMarkus Gabrielのder ethische Kapitalismusを信じたいと本日のアフタートークで語った。)

これは単なるプロレタリア演劇の継承ではなく現代に適合する形でこの劇団が標榜する「世に役立つため」のリアリズム演劇が実践された感想を持った。

一方翌月の10月には世田谷パブリックシアター白井晃版の『セチュアンの善人』が上演された。俳優座の演出とは全く異なるコンセプトが興味深かった。本稿ではこの二つの異なる演出が同じ作品から何を語ろうとするのかを比較してみたい。

 

【舞台措置】

パブリックシアターの舞台装置。そうそう、先に見に行った長女が言ってた。舞台装置がカプセルホテルだって。よく聞いてみるとそれが着脱式で動くと。ーー?それってもしかして?中銀カプセルマンションか?と言って写真を見せたら「それだ!父さん!」と。確かにカプセルマンションそっくりだ。今回シアター入り口に触れる模型があった。ただしこれは単なる舞台装置であって,中銀カプセルマンション風のこの住居が何かを意味しているとは言えないようだ。このカプセル的なものを二つ移動させてシェンテの店を構成させる。

 

 

一方俳優座のそれはジャングルジム,シーソー,街灯,そして台のようなもの,さらに真ん中に円形の土俵的な物があり,この円の中で芝居が展開される。シェンテの店は円の中に設置される。

どちらの演出の舞台装置も基調が灰色。装飾もない。とても殺風景で色彩感に乏しい。これは心と物質の貧しさを表現しているかのよう。

 

【シェンテの存在】

白井晃版のシェンテは本質的に善人だ。葵わかなのシェンテは考える善人ではなく、考えずに善行をしてしまう。この反省しない善人が白井晃版の特徴かもしれない。このキャラクターを貫くので,前半最後の場で歌われるこの部分がとても生きてくる。

 

Ich will mit dem gehen, den ich liebe.
Ich will nicht ausrechnen, was es kostet.
Ich will nicht nachdenken, ob es gut ist.
Ich will nicht wissen, ob er mich liebt.
Ich will mit ihm gehen, den ich liebe.

私は愛する人と行く
損得勘定なんてしない
いいいことかどうかも考えない
彼が愛してくれているかどうかも関係ない
私は愛する人と行く             (酒寄進一訳)

 

一方俳優座のシェンテは男娼の設定だったが、悩める善人だった。このシェンテには優柔不断さが際立っていた。善人としての優しさが,厳しい決断を避けている印象だった。白井晃版のように思考する前に軽率に善行を行ってしまう自然な意志力がなく,むしろ悩みながら善行を施す決意をしていく。

 

【白井演出のこと】

一回目鑑賞終了。うーん、面白かった。白井晃の演出はこれで二回目。以前鑑賞したのは「ファウスト」だった。その時も思ったが、彼は音楽を効果的に利用する。その使い方の巧妙さに一瞬「これってミュージカルだったっけ?」と勘違いする。今回も前半はほぼそうだった。役者の台詞回し,歌い方もミュージカルを連想させる。台詞はザ・新劇って感じで常に張りのある発声で発話される。全員頬にマイクが付いているので、考えようによっては普通の、テレビドラマのような話し方でもPAを通して聞こえる。それをあの発声は敢えて音楽劇っぽくしているのだろうか。

youtu.be

世田谷パブリックシアター、二回目公演鑑賞終了。いやぁ、役者さんは凄い。3時間のお芝居を休憩2時間くらいで二回もこなすなんて。この劇はほぼ八割方音楽劇だった。体力相当なものだ。声の大きさ、張りが二回目でも変わらなかった。また同じ事を二度繰り返すと普通は二回目は早くなる。しかしそこはプロ。全く変わらない。

ただ、気になったのがやはり発声の調子。700人の劇場で、大声張り上げて一本調子に叫び続けるのはどうなんだろう?熱意たっぷりの演技だが、力の抜ける場面が殆どないのは逆に違和感を感じる。

自分は今まで見たことがなかったが,今回youtube上にアップされている白井晃の立ち上げた遊◎機械/全自動シアターの上演をいくつか視聴してみた。それで理解した。白井晃のもともとのこの劇団の声の調子と、今回の声の調子はほぼ同じなのだ。これは彼の演劇のスタイルなのだろう。

先ほども述べたが,葵わかなのシェン・テは根っからの善人である。白井版はシェン・テの行いから善と倫理観にはズレがあることを暴露する。例えばシェン・テは店の前の住人シンに米を分ける。また八人家族を店の奥に泊めてやる。シンも八人家族もシェン・テの善意は「店を持つくらいの立場なのだから」当たり前だと思って悪びれずに厄介になる。しかも店のタバコを平気で吸ってしまう。このシェン・テの行いは施しを与えるという意味では善行である。それは神も認めている。しかしながら,社会倫理から考えれば,この人達にすべきことはこの人達が自立できるような援助をする事である。見返りを求めずにただ与えるだけではそれは倫理的行為だろうか?シェン・テのしていることは施しを受けた人々が抱えている問題を解決してはいない。ただ直面している困窮を回避するだけの時間伸ばしに手を貸しているだけである。

その点,シュイ・タは社会的倫理を十分に知っている。何故ならシュイ・タは問題を解決する役割を担っているからだ。シュイ・タは提供されたシュー・フーの空いた倉庫をタバコ工場に変えてしまう。そこでシェン・テの店に居候をしていた八人家族とシンを労働させ,その対価に賃金を支払う。当初八人家族は憤ってこう言う。

 

忘れないでちょうだい。うちらだって前はタバコ店をやってたんだ。自分で働いた方がましだね。 (酒寄進一訳)

 

最初から働けばこの八人兄弟は暮らせないことはないのだ。その智恵を絞ればできない筈はないのだ。ところが働く気がなかった。それは冒頭の歌でよくわかる。

 

髪がまだ 白くなかった頃
賢く立ち回るつもりだった
だけど思い知ったよ 賢いだけじゃ
腹一杯 食えはせぬ
 だから言うんだ もうよそう!…

まじめにやっても馬鹿を見る
それなら試そう 人生の裏街道…

歳をとったら 夢も希望もない
時間を使って 潰すだけ
だけど 若い者には未来がある
なにもない未来と人は言うけれど
 だから言うんだ もうよそう!… (酒寄進一訳)

 

現代社会にもホームレスの人々がいる。彼らは働ければ働きたいが,その手段がみつからない人々だけではない。勿論働きたい人々は自治体の援助の下に自立を目指す。NPO法人もある。

一方で,もはや何も希望もなく,諦めて,できるだけ容易にその日暮らしを過ごすだけの興味しか無い人々がいる。NPOから衣服や食料を恵んでもらい,反社会組織の口利きでまんまと生活保護を受給して,施しを受けるだけの人生を謳歌する人々がいることも事実なのだ。朝から広場で円陣をつくり,生活保護のお金で酒を買い,酒盛りをし続ける人々を,自分は東京の繁華街でイヤになるほど見てきた。彼らには支援してくれるNPOがいた。NPOの人々は毎日彼らに食べ物を与え,頃合いをみては寄付で集めた衣服を提供する。こうした人々は貰えないことがもはや特別で,貰えることが普通なのだ。施されることに感謝をして自立しようとなどしていない。彼らにとって恐怖は,毎晩の寝床の確保と健康の状態だけだ。勿論夏は良いが秋口からだんだん健康が損なわれてきて,冬を越せない人もいる。冬を越せず亡くなった人がでると,その人が寝床にしていた場所にある日突然花が生けられる。だから「あ,死んだのだな」とわかる。自分はこうした人々のライフサイクルをとある場所でもう何年も見てきた経験がある。

この劇では,こうした人々をシェン・テは施しだけで,善行だけで解決できると安易に考えている愚かさを露呈している。朝から酒盛りをしている人たちは,決して働いて金を得ようという気にはならない。まさに裏街道を試している。シェン・テは彼らにとってただのカモに過ぎない。それに比べてシュイ・タは彼らを自立させて自活させるプログラムを提供した。自治体がしていることと同じだ。決してシュイ・タのしていることは悪人ではない。社会倫理として当然の解決策なのだ。

このシェン・テとシュイ・タの行動のギャップに白井晃は積極的な照射を当てている。搾取に関して言えば,これは微妙だ。つまり法に則っていれば法治国家である以上搾取とは言えない。しかし帝国主義下の植民地政策よろしく法律自体が被支配者たる従業員の地位を貶めている法律であれば,実質上の搾取といえるからだ。シュイ・タが敬遠されて,シェン・テが待ち望まれるのはホームレスである彼らが自立する意欲を持っていないからである。シェン・テならまた施してくれるかもしれない。しかしシュイ・タがいると働かされる。それが我慢ならないのだ。彼らには労働の義務は通用しない。白井晃は,というか Brecht はこの労働について大きな問題提起をしたと言える。労働をしない自由があれば,人は法治国家の下になにもせずに遊民的に生きていることができる。

しかしそれは国家が国民を守れる力があれば,の話だ。社会主義の大きな問題であり,アメリカのようなかなり行きすぎた資本主義が存在できる理由でもあるのだが,かつて冷戦以降の共産主義国家は国民が生きていくこと保証してはくれたが,生活は豊かとは言えなかった。だからベルリンの壁が崩壊したときに資本主義の西へと東ベルリン市民が押し寄せたわけだが,彼らがそこで目にしたものは豊かだが,貧富の差が大きく存在していること。

一方行きすぎた資本主義のアメリカは労働する・しないは自由だ。ホームレスが施しを求めて路上にいるのをどうにかしようとは思わない。彼らは自分自身でそれを決めた以上,他人がそれに口を挟む必要はない。労働して碌を得ようが,株式投資の売買の利益で働かずに暮らそうが,路上で施しに頼って暮らそうが,それは選んだ人の自由ということだ。セツアンの人々が働かずにシェン・テから施しを求めて生きているのは,アメリカ的に言えば別に何の問題でもない。シェン・テが施さねば他の誰かに頼るだけだろう。または誰にも頼れなければ他の自由を考えるだろうということ。——田中版も白井版もこのアメリカ的な考えには全く同調する気がない。ないからこの戯曲を問題視する。

 

【音楽の比較】

音楽担当の国広和毅氏が,Paul Dessauの前衛的な音楽を弦楽器とパーカッションのたった4人のアンサンブルでとても現代的だが,芝居の雰囲気を壊すことのなく,観客に違和感を感じさせない音楽作りで, Dessau の歌の非旋律的なメロディーを歌唱ではなく,セリフの延長で聴かせる重要な役割を演じたと思う。 Dessau の音楽はクラシック音楽でも前衛的であり,それは三文オペラの作曲家 Kurt Weil のそれよりも大変奇抜に聞こえるものだからだ。今回はそれを全く感じなかった。劇の進行を止めない音楽だった。

 

酒寄新一訳はこの演出を予測していたのか,非常に歌詞的な翻訳をしている。例えば最後にシェンテが自身の秘密を神様に告白するセリフ,

Euer einstiger Befehl
Gut zu sein und doch zu leben
Zerriß mich wie ein Blitz in zwei Hälften. Ich
Weiß nicht, wie es kam: gut sein zu andern
Und zu mir konnte ich nicht zugleich
Andern und mir zu helfen, war mir zu schwer.

 

神さまからいただいた使命
善人たれという その命令に
わたしの体は雷に打たれたごとく
まっぷたつ 他人に善行施し
自分によくすることなど 無理な相談
無理難題というもの         (酒寄進一訳)

 

善人のままで生きろというあんたがたの言いつけは
稲妻のようにあたしを真っ二つに引き裂いた。
破滅する人を助ければ自分が破滅する。
私はどうすれば良かったんですか?      (田中壮太郎上演台本)

 

白井晃演出はここを歌わせる。俳優座田中壮太郎演出はここを演技で主張する。

白井晃演出の特徴・否特長でもあろうが,こうした部分が上演作品をエンターテイメント化させる。つまり劇の品質を上昇させる。これは役者一人一人がユニゾンで歌うシーンも同じで,普通演劇ではバラバラに役者が動く部分が,まるでミュージカルを見ているかのように一斉に動かす。これはある種万人受けする効果を創り出している。逆に俳優座演出にはそういうシーンはない。そのかわりに配役一人一人が強い個性をもって舞台上を闊歩する。このコントラストは面白い。

 

限りなく正攻法に近く,役者が新劇っぽい台詞回しをする白井演出を見ていて,「結末はどうなるのだろう?」と心配になったが,あのおじいさんだけが,まるで客席に話しかけるような自然なセリフで語る。

 

観客のみなさま どうかお気を悪くなさらず
こんな終わり方ではだめなことくらい百も承知…(酒寄進一訳)

 

舞台ではここは訳本よりも砕けたセリフだったと思う。それが大変スパイスのきいた,適切な終わり方を導いた。完全な Verfremdungsefffekt(異化効果作用)を作ったのだ。

 

俳優座版の魅力は】

一方,倫理資本主義をシェンテが決断し,シュイタから決別する田中演出には,Brecht が俳優に語らせるこの最後のセリフはない。

その代わりに水売りのワンが語る

シェンテ。お前はあの雨の日,雨が降っているのに俺の水が欲しいって言ってくれた。俺にシェンテのコーヒーを淹れてくれよ。効率なんてクソ食らえだ。きっと,時間が掛かっても,お前のその思いやりが仕組みになる日が来るよ。

そうして全員がシェンテを眺め,暗転し,次の瞬間

カーテンコールがてら,全員で歌って踊るかもしれない。

と終わる。田中壮太郎は「シェンテが救われる良い結末が必要です!」という本来ならば最後に俳優が言うセリフもないかわりに,この歌って踊る場面があるのだ。

勿論 Brecht の原作にはない場面だ。俳優座の「善人」は田中荘太郎氏が現代に合うように市川明訳を「翻案」された斬新な演出に終始する。初っ端から読み替えが行われる。

シェンテの持つ店はタバコを売る店ではなく,コーヒーショップだ。後にこのコーヒーショップは120店の支店を展開する一大チェーンShentes Coffee という店名になる。そしてシュイタの経営手腕はこのコーヒーに秘密のスパイスを加えることで大繁盛をもたらす。そのスパイスとは,後にヤン・スンに見破られて揺すられることになる,ニコチンだ。ニコチン入りのコーヒーを飲ませることで Shentes Coffee にしか客は並ばないのだ。こんなことは原作には全く書いていないし,そのヒントすらない。原作ではシュイタの経営手腕でタバコ工場が繁盛するだけで,繁盛した秘訣などどこにも出ていない。考えられることは搾取に近い低賃金の労働力の確保,法律の目を掻い潜った密度の高すぎる従業員数。つまり通常一人分の賃金の半分で二人分働かせ,倍の生産量を上げて利益を高めているというもの。効率の徹底した追究と労働時間の拡大も利益に貢献する。

しかし田中版「セチュアンの善人」ではニコチン入りの秘密のコーヒー,低賃金労働力の確保,労働時間の長さ,徹底した効率追究,そして役員に列せられる理髪店シュー・フウの旦那と女家主ミー・チュウの援助,待遇を役員にした唯一妊娠を知る寡婦のシン,そして恋人であるが相手は真実を知らないヤン・スンを管理職に格上げすることで,事業の拡大が行われる。これは Brecht が想定したであろう資本主義の悪の部分だ。 Brecht が実際知っていたかどうかは分からぬが,彼が亡命して立ち去ったナチス・ドイツの政策はまさにこのシュイタの逆だった。SPD(社会民主党)が政権を取ったワイマール共和国時代,労働時間は10時間以上だった。これは1927年の映画「メトロポリス」でも独裁的支配者の息子フレーダーセンが,メトロポリスの下層市民になりかわったときに,労働を体験して叫ぶ「父さん,10時間労働は限りなく終わらないよ!」この労働時間を8時間に短縮し,違反すると企業を罰する法律を作ったのはナチス・ドイツだ。そして年次休暇を取らせる法律を作ったのもナチス,有給休暇中に旅行などレクリエーションを励行したのもナチス,その福利厚生はナチス労働戦線下部組織 Kraft durch Freude(歓喜力行団)がマネージメントした。つまり,当時のドイツの労働者は,この「セチュアンの善人」でシュイタが行っている搾取行為を一切感じていない。だからナチスは支持を得たのだ。Brecht はその部分を書き誤ったといえる。もし彼がナチス批判をするならば,その一見労働者に素晴らしい生活を提供しているナチスだが,実はそれがすべて戦争遂行のためのものであることを暴露しなければならなかったのだ。

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田中版の目を見張るところは,このナチス的トリックを話の中に上手く導入している。シュイタの搾取は変わらないのだが,その搾取とニコチンコーヒーに良心の呵責を抱いて怯えるシェンテに対して,彼らはこう言うのだ。

 

巡査:あの,皆,薄々気づいてました,あなたが,シュイ・タさんだって事は。
弟:でもだんだん,シェン・テ・ズ・コーヒーのお陰でなんかこの界隈もキレイになっ
        て来てさ,町もオシャレになってきたから(中略)なんだか暮らしが安定してき
  て,こりゃありがたいよ。
失業者:だからシェン・テさんの事は気付いたらみんな探さなくなっていったよ。
巡査:だから,ねぇ,あなたはシュイ・タがいいんじゃないでしょうか。シュイ・タさ
   んでこの町をもっと豊かにして下さいよ。
弟の嫁:前の暮らしには戻りたくないよ。
シェン・テ:みんな,ゾッとするような事を話すけど,ここのコーヒーがどうしてこん
      なに売れてるか分かってる?
祖父:なんか美味しくてクセになる,あんまり健康に良くない汁でも入ってるんじゃ
   ろ。でもわしなんか,もう先も長くないし,別にいいよ美味しければ。
女家主:シュイ・タにお戻りになって,シェン・テさん。

 

田中版は大衆の意識がNS時代の低所得者国民を連想させる。まさにナチスの政策に乗って,真実の恐ろしい意味を理解することを放棄して,刹那的に今の繁栄を謳歌する住人達。現代社会,資本主義社会を強烈に批判する改変をしているのだ。ここまで原作にないことを書いても良いのだろうか?この芝居を実見した当初,私は躊躇した。これは俳優座の伝統であるBrecht(Berliner Ensemble)-千田是也-岩淵達治の流れをついに一新したのか,と思ったのだ。が,先日 Peter Konwitschny の「影のない女」をみて,Berliner Ensemble でBrecht の片腕だったKonwitschny の大胆なオペラ原作改変について,Brecht 自身が時代に合わせる問題提起をするためには原作に手を加えて変更するべきだという意見だったことを,Konwitschny の発言から知った。そういう意味では田中氏の行ったことは正当な Brecht 的演出だったと言えるのだ。

ここで住人のいわれるがままシュイ・タとして生きていくのならば,不条理劇なのだが,シェン・テはそれを拒む。

私は貧しさが憎かった。あまりの貧しさを見ると激しい怒りに襲われ,自分が狼に変身して唇が大きく裂けていくのを感じた。(中略)会社の利益を追求したかったわけじゃない。恋人を愛するため,隣人を助けるため,貧しさに抗うために犯した罪です。もう終わりです。私は裏町の天使でいたい。私はシェン・テに戻ります。シェン・テになったらこのコーヒー・ショップは小さくなるかもしれないけれど,皆さんどうか受け入れてください。

この下りのアイデアは田中氏のアフタートークで明らかになるのだが,彼は行きすぎた資本主義の終焉は倫理資本主義を遂行することで救われなければならないと考えたという。彼はドイツの哲学者 Markus Gabriel の提唱する倫理資本主義の世界を思い巡らしたのだ。これが最後のシーン,水売りのワンが独白して,暗転後皆が踊り歌う場面となる。なんと理想主義的かと思うだろうが,しかし行きすぎた資本主義で人間社会が破壊されていく姿を,田中演出は絶対に受け入れないと決意しているわけだ。この部分に,私は俳優座の伝統であり,そのレゾンデートルでもあった築地小劇場からの演劇思想を垣間見る。

【おわりに「寓話劇」とは】

全くアプローチが異なるのに、田中壮太郎版も白井晃版も意外と共通していることがある。それはこの劇を不条理劇では終わらせない姿勢。不条理な現実に観客を投げ落として「さぁ、どうする?」と冷徹に幕を降ろさずに、明るい未来が約束されねばならないという意識が高いのだ。白井も田中も「善は常に虐められて亡び,悪がはびこるのが世の常だ」というイロニー的肯定には決して与しない。爽快感が沸く結末を作っている。「寓話劇」は不条理劇ではないのだ。故に両演出ともに社会性を重んじる演劇となっている。こういう所がシェイクスピアゲーテの戯曲のような、個人的な感情や困苦をクローズアップすれば良い劇とは異なっている。いわゆる社会主義リアリズムが反映されている。後味の悪いものが好きな人は爽やかすぎて嫌うだろう。そういう闇の世界を肯定したい人は多分 Brecht の世界には共感できないと思う。社会主義的リアリズムは闇の世界を完全否定する。闇の住人には居場所がない。つまり悪魔は不要なのだ。

 

2024年の秋,俳優座(田中壮太郎)と白井晃,この二つの演出で一つの作品を比較できたことは大変有意義なことだった。Brecht の語りたいことをどう捉えて,現代社会に投入するかを二人の演出家は全く別の方法で挑戦したが,しかしゴールはひとつ。私にはそう思えてならなかった。

 

【追加事項】
作品を理解するための演出・舞台装置はもう古い考え方。脚本を読めば作者の意図は理解できるはずなのだ。舞台に上するのは,作者の考えた世界の再現ではない。

こころの豊かさ,こころの声,そして思考停止の危険性

Etwas Unpraktisches kann nicht schön sein
(非実用的なものは美しいとは言えない)

ウィーンの建築家 Otto Wagner は歴史主義から発して黄金の20年代にあと一歩手が届くところで亡くなったが,彼の作品的成長は最後には近代建築の黎明を告げるものとなった。実用性と美の関係が取り沙汰された近代デザインはこうして始まったといえよう。

そして黄金の20年代,芸術の集大成は建築だとばかりに Bauhaus 校長 Walter Gropius は語る。

Die Baukunst soll ein Spiegel des Lebens und der Zeit sein.
(建築芸術は生活と時代の鏡であるべきだ)

虚飾を排し凜とした Bauhaus デザインはロココな貴族趣味から脱皮して一般市民の清貧的思想を反映したもの。これは虚飾を排したのであって,精神的生活を我慢するものではない。

例えば Bruno Taut の Hufeisensiedlung (馬蹄形集合住宅) は労働者のための集合住宅だが,そこには「人間にとって豊かな環境とは何か」が考え抜かれている。これが1920年代のモダニズムである。毎日のパンを得ようと必死に働く労働者の居場所は粗末なテーブルとベッドがあれば良い,というものではない。自然豊かな前庭,色とりどりの玄関ドア,大きな窓の明るい部屋,機能的なキッチン,気分を爽快にさせるバルコニー,これらは人間が享受するべき豊かな環境として設計された。

 豊かな生活を送りつつも,人間は今の位置にとどまらず,向上心に目覚めていく存在である。否,そうであらねばならない。労働者が集合住宅で生活しながらその地位を高めようと努力するのも同じだ。20年代の急先鋒だったMax Ernst はこう警告する。

 „Ein Maler ist verloren, wenn er sich findet. Dass es ihm geglückt ist, sich nicht zu finden
(画家というものは自分を理解したときに破滅する。自分を理解しないことで,画家は成功するのだ。)

 停滞は芸術にとってあってはならない,それは人間の一生にも言えることだ。

 黄金の20年代の締めくくりは映画「メトロポリス」の脚本家 Thea von Harbou の意味深なモットーに集約される

Einen Mittler brauchen Hirn und Hände. Mittler zwischen Hirn und Händen muss das Herz sein.
(頭脳と手には仲介者が必要です。頭脳と手の仲介者はきっと心に違いありません。)


 頭脳とは為政者や企画者であり,手はそれを実現させる労働者だ。この両者が対立したり,いがみ合うことなく結びつくためにはその仲介として Herz (心) が必要だという。これが精神なのかもしれない。為政者や企画者の高邁な精神は,労働者の豊かな精神的生活なくしては実現し得ない。映画ではこの Herz がメトロポリスの為政者 Joh Fredersen の息子であり,身を挺して労働者の子どもたちを救った Freder となっている。

見方を変えれば,我々の生活を豊かにするのは「こころ」であり,そのこころの糧となるものを人々はどうやって生活の中から得ているかが重要であろう。その糧は人によって様々である。人の価値観の数と同じように。但し思考停止して安直にそこらで「間に合わせ」て得られるものではない。有り余るほどの選択肢があるにもかかわらず,「こころ」の声を聴かずに自ら思考を停止し,巷の流行りを手に取りなんとなく満足していることこそ愚の骨頂だ。黄金の20年代を享受していた Berlinっ子は自分の「こころ」の赴くままに劇場や展覧会に通い,表現主義ダダイズムを目にし,キャバレーでレビューやジャズを楽しみ,一夜のパートナーとダンスを踊った。退廃的で不道徳な avant-garde 的文化に酔いしれた。(これは Berlin だけの話で,地方は真逆の農村的保守的生活であることをお忘れなく。)

この不健全な文化はインフレによるあえぎと,それが後押しした新興勢力 Nationalsozialisten(国民社会主義者)によって完全に爆破された。秩序ある生活,禁煙,健康がモットーとなり,その代わりに低層市民にも休暇とレクリエーションが「総統の贈り物」として与えられた。人々は早起きして Guten Morgen! に替わって Heil Hitler! と挨拶し,勤勉に働き,定時になると KDF(歓喜力公団=ドイツ労働戦線の福利厚生部隊)主催のダンスパーティーの夕べに参加して新しい出会いに心ときめかせる。

また労働者に開放されたトレーニングジムで汗を流したり泳いだり。長い夏休みは KDF主催の休暇パンフレットを利用して国内への団体旅行,あるいは北欧やマデラ島への船旅が用意されている。福利厚生が享受できるのは大人たちだけではない。子どもたちは毎週 Hitler-Jugend(ヒトラー青年団)の例会に出席して行進と合唱で団結力を高める。年に数回はキャンプもある。学校でも HJ でも友達といつも一緒。
大多数の大人も子どももこの楽しいアクションに積極的だった,思考停止をして活動することに何の躊躇もなかった。毎日の生活が充実していて忙しいのは,自らが求めてそうなったのではない,国民社会主義者たちの国民への強制,つまり思考させずに生活することで政治批判をさせず,為政者の目的を素早く達成するための施策であった。ひとりにしない生活,静かに自省する時間を奪う生活,みな同じことを特に何も考えずに楽しむ生活,それが黄金の20年代を爆破して樹立されたナチス1000年帝国の国家的福利厚生システムだった。享受者たちは誰もそのことに気づかない,なぜならそんなことを考える暇がないからだ。これに躊躇したのは,退廃芸術展に足を運んだ人々たち——もう二度とセザンヌピカソゴッホが見られなくなるのに涙した芸術愛好家だった。絵画の周囲に書かれた誹謗中傷に傷つきながら,絵画との別れを惜しんだ人々。

一方思考停止の目的に気づいたショル兄弟のような,白バラグループのメンバーはミュンヘン大学で勇敢にも学生に向けて密かにビラを散布した。程なくして彼らは捉えられ,国家反逆罪を適用されて,ギロチン台の露と消えた。

自らの「こころ」の声を聴かずに,ただ巷に転がっている手っ取り早い物で欲望を満たしたと勘違いする,もし今の我々がそういうアクションをしがちならば,皮肉にも自由主義・資本主義のまっただ中で,協力しなくても一向に構わない国民社会主義者の目論見を積極的に支援していることになる。youtubeを早送りしながら同時にSNSを拾い読みする忙しさは一体何に対して急いでいるのだろうか?情報を取れるだけ取っても思考を停止して受容するだけでは意味はない。取捨選択して自らに取り込むことが「理解」であり,「こころの糧」になる筈だ。思考を停止してどこでも手に入れられる誇大広告の消費者になる必要がどこにあるのだろうか。広告主は抜け目なく消費者の思考停止を狙ってくる。それは商品の複雑なラインナップだったり,色とりどりのバリーションだったりする。思考することに面倒くささを感じた消費者は「とりあえず」廉価な商品をバリーションごと買ってみる,これで広告主の作戦は成功だ。同じ商品を纏った消費者たちが街中に繰り出され,流行が現実化する。これで世の中の経済が活性化しているというわけだ。めでたしめでたし。——で,「こころ」は満たされているのか?

 

親の想いは複雑なんだよなぁ。

【贅沢な悩みは本人には切実だ】

あの娘は保育園の時から賢いのは直ぐに分かった。2歳でひらがなが読めた。就学前にローマ字が書けた。それは勉強してではない。ただ興味本位に目にしただけ。音楽的な才能はヤマハに通い始めた当初から歴然としていた。それは「才能」だと思っていた。でもそれは昨日ママさんから聞いて理解した。彼女はgifted だったのだ。後々彼女が滑り止めの早稲田大学に進学して悩んでカウンセリングを受けて分かったこと。IQが140を超えていること。しかし言語能力が大変高いのに,視覚は120と聴覚にくらべて20も違うことでアンバランスが顕著。文字を書く時点で思考はもっと先を行っているので,計算式を書いている途中で頭の計算結果よりも書く方が遅すぎて数字が正確に書き残せない。心が辛くなって受診したカウンセリングで,(自分は発達障害ではないかと疑って受信したそうだが、実際にはそうではなかったが)あの娘は鬱病ではなくて「双極性障害」だと明言された。親に内緒で通院した精神病院。「パパとママを悲しませたくなかった。」そうあの娘は告白したそうだ。——賢い子だけれど,大人になるにつれて周囲とも上手くやっていけるだろう,いつもジャングルジムに座ってクラスメイトの遊びを眺めていた小学1年生の我が子の姿を,ママさんは眺めながらジッと我慢してきたそうだ。しかしそれは誰にも言えない悩みだった。

独り浮いていた小学校時代,あの娘のアイデンティティーはヤマハのプロを目指す人々による演奏と作曲専攻クラスと知的欲求を満たしてくれる学習塾SAPIXの最上位クラスにあった。桜蔭を目指すクラスに在籍していたあの娘は女子学院の算数問題を数分で解いて全問正解,周囲の女子学院志望生徒達を唖然といわせ続けた。そんな彼女がイヤミに見える場合もある。彼女はgifted なだけ。努力に努力を重ねる子どもたちをよそに何事もないように全問正解して立ち去る。彼女には自然なことでも,普通の努力家達には嫉妬の対象だった。それが彼女にはなぜだか分からなかった。何も悪いことなどしていないのになぜ恨まれるのか?自分がバカを装っていれば誰からも好かれ,友達ができるのか?友達に飢えていた彼女は小学校ではヘラヘラ笑うバカになっていた。

(この子に普通の就職は無理だ。)そう思ったパパとママはあの娘に「好きなことをやりなよ,パパとママはアキホが働けるようになるまで頑張って応援するから。」そう言って大学卒業後も好きな道に進学して構わないと助言したそうだ。その一方で彼らは思ったそうだ。(アキホは30まで生きられるだろうか。)——その危惧は現実のものとなってしまった。JAZZサークルで,PITINA全国コンクールまで出場して入賞した程の音楽的才能があるお陰で,易々とこなしているアドリブのピアノ伴奏が買われて毎日のように演奏活動をしたことで,理系である彼女は単位を全く取得出来ず,翌年 gifted の才能で落とした単位を優ですべて取り返すようなハチャメチャな日々を過ごしたそうだ。大学4年生になる頃にはそんな無理な生活が祟って精神的には最悪の状態。通学するのすら恐怖でいっぱいになったという。希死念慮が怖くて家に帰れない。3階の自室から飛び降りてしまうのではないかと恐怖だったらしい。あの娘は死にたいなんてこれっぽっちも思っていなかった。でも希死念慮があの娘の行動を支配する。それが制御出来なくて,意を決して4年生は休学して,例え閉鎖病棟でも入院しようと決めていた矢先,あと数ヶ月で入院するというある日,希死念慮はあの娘を連れ去った。母親の在宅しているそのスイートホームで。発見した母親の焦燥感は一切の感情を喪失させ,幾度も歩道橋から下を眺めては逝けない自身を絶望させた。30どころか,あの娘は22で消えてしまった。

都市計画を勉強したい。ひとりぼっちで死んでしまう寂しい人々を見逃さない優しい街づくりがしたいから。——そんな心の持ち主が学ぶ先はただ一つ,gifted が多く集まる大学で,明治の黎明期から都市計画の総本山である東京大学。あの娘は調べに調べて将来どの教授の研究室に入るかすら決めていた。そして東京の私立女子御三家の筆頭である桜蔭生は東大に受かってなんぼ。落ちたら恥に思う文化の女子校。(令和5年の桜蔭卒業生231名中東大合格者72名早稲田146名,慶応102名)——現役時には滑り止めの早稲田には合格したが,東大に受からず浪人。翌年東大受験で字数制限の問題の字数を間違えるというあり得ないケアレスミスで不合格。不本意ながらも二浪はせずに早稲田に。コレが普通の人なら何も問題ない。しかしあの娘には問題だらけ。「学校大嫌い」という自己紹介を書くようになったという。JAZZサークルでピアノを担当し他のパートの先輩達と息の合った演奏をする毎日を過ごすうちに,先輩の彼女があの娘に嫉妬するようになる。あの娘は同性の親友が欲しくて堪らなかったのだが,同性からは嫉妬ばかりされたそうだ。何でもできるから。恋人を取られる恐怖を覚えられたから。——そんな下らないこと,と大人は,親は考える。しかし若い当事者には gifted なあの娘の能力はただの目の上の瘤にしか映らなかった。ただの邪魔者。でもあの娘は何もしてない。先輩を立てて一生懸命演奏をしただけ。欠席続きの授業の単位を取るために,クラスメイトに教えて貰う。gifted なあの娘は直ぐに理解していく。試験の結果は教えてくれた彼らよりもずっと良い成績。男子は笑う「お前さぁ,俺たちよりも出来てんじゃねーか!」。しかし女子は嫉妬する。それがあの娘には辛かった。あの娘にとって初めて努力して勉強した結果,それが実ったという成功体験を経験出来たのに,クラスの女子には冷たい目で見られた。初めての成功体験があの娘の人間関係を破壊した。

 

あの娘は何も特別なことをしていなかった。死の数年前まで勉強は努力で得たものではなかった。なんとなく眺めていれば出来たのだ。音楽的な感受性は確かに練習に次ぐ練習で高みに登っていった。そのお陰でJAZZサークルの時は和音の番号表記だけで楽譜は不要でどの曲も十二分に伴奏が出来た。唯一の不得意は暗記物。社会科は苦手だった。だからメロディーを付けて年号を暗記した。歌詞にしたならばあの娘は覚えられる。

音楽はあの娘にとってアイデンティティーだった。しかし音楽を職業にすることは難しい,と親族にオーケストラ奏者のいるママは思っていた。あの娘は忠告を受けて言ったそうだ。「私の居場所がなくなる。でもそうしなくてはいけないのだわ。」でも結局あの娘はママに告げた。早稲田出たら音大に行っても良いかな?満身創痍の心のあの娘の言葉にママはNO とは言えなかった。——冷遇と挫折だらけの少女時代。あの娘はその少女時代を過ごしただけで人生を終えてしまった。本人が閉ざしたのではない。本人につきまとう黒い影が閉ざしたのだ。「生きてちゃいけない。死ななきゃ。飛び降りろ!」躁状態が支配する精神世界は本人の意志を,自我を眠らせて身体を操ってしまう。「死にたい」なんてコレぽっちも思っていなかった。親にも数少ない友人にもそんなことは言っていなかった。むしろ楽しく,幸せを掴もうと躍起になって生きていたあの娘の自我。希死念慮双極性障害にとって恐ろしい死神なのだった。

 

【後から湧き出る「こうしていれば」】

「小学校であんなに苦しむのなら,小学校から私立に入れてエスカレーター式にそのまま上がれれば良かったのかも。」

「私が音楽を止めさせたから,趣味でも良いから細く長く続けさせていれば…。」

「中学にあがってから悩みも増えてきた。桜蔭でもみんな努力で来た人達ばかりだったから,友達ができなかった。」

「思春期のときにこそ,保育園で一緒だったみんな(うちの娘たち)と会っていれば,心を開ける機会ができたのに…。」

「もっと早い段階で,あの娘の病気に気づいていれば,私がもっともっと真っ正面から勉強していれば…。」

「私は一生懸命,子育てをしてきたつもりだったのに,失敗してしまった。間違っていたのはどこなんだろう。」

「音楽の道を閉ざして,私があの娘の芽を摘んでしまった。」

「早稲田で妥協させずに,東大に入れてやれば,違っていたのかもしれない。」

「自分はIQが130あったけれど,それよりも20近く高いアキホの話し相手にすらなれなかった。」

「兄と姉が一番手の高校に進学して比べられたくなかったから,二番手の高校に進学したら,うちの親は半年口をきいてくれなかったんですよ。だからそんな思いをさせたくなかったから,好きなことをさせたのに。あの娘は前しか見ない子だから,東大しか見えてなかった。」

「就職のことなんか心配せずに,好きな道を進ませてあげていれば…。」

「幸せな人生を送らせてあげられなかった。」

 

後付けで思うことは悔やんでも意味がないよ。そうなだめる私たち。パパさんは黙って涙を拭いていた。

 

【辛い気持ちは癒えるはずがない】

あの娘は突然逝ってしまった。人は言うだろう,早逝して何も残さなかった,可哀想な人生だったと。辛い。才能に満ちあふれていたあの娘が中途半端に遺すものも少なく去ってしまった。もっと何かが残ったはずだと。

あの娘の存在理由は何だったか,そう問う人もいるだろう。決してアキホは遺伝子を受け継いでユラユラと生まれてきた遺伝子の方舟だったとはボクは思わない。少なくともアキホは美秀さんと嗣男さんに無上の喜びを齎し,私たちや娘たちに友情と幼馴染みの際限のない寛容を芽生えさせ,その才能で期待と感歎を集め,存在感を確固たるものにした。死にたいなどと思っていなかったことは誰の目からも分かることで,自死などと警察が決めつけること自体,遺された私たちには疑いと不審で満ちていた。最愛の一人娘が結婚して家を去っても寂しいのに,黄泉の世界に去ったら,パパとママはオルフェウスのようにアキホちゃんを迎えに行きたいと願うのは当たり前だろう?だからママは辛くて辛くて鬱になって歩道橋から下を眺めたんだよ。でもね,そこには死はあってもアキホちゃんは見つからなかったんだ。飛び降りてもアキホちゃんに会えないなら,ママの目的は達せられない。アキホが見つからないと辛くなる。エリートサラリーマンとして,世界中を飛び回るパパも世界中でアキホちゃんを探し回っているに違いない。でも見つからない。辛いね。

M家の居間にはパパとママとアキホのギターが整列している。いつでも演奏出来るように。アキホのギターはFenderだったっけ?なかなかの銘品じゃないか。

オーディオ機器のサイドボードに並んでいるビデオとDVD,ヤマハの発表会のもの。アキホの小さい頃の輝ける演奏だね。ママのiMacにはアキホの大学時代の演奏動画が詰まっている。見せて貰ったよ。アキホがニューオリンズジャズをやっているところ。銀座ヤマノホール。カデンツをキッチリ文法通りにメロディーを変奏して即興してたね。素晴らしい。

アキホのお部屋もお邪魔した。構造計算の本が沢山置いてあったね。勉強家じゃないか。秘密の窓の落書きもママさんが見せてくれた。

椅子に座るアキホの代わりに,机上にはギターを演奏するアキホのパネルとアキホの遺骨が置かれている。心の中だけでなく,物理的にもアキホがそこにいること,ママとパパには大切な証なんだと思う。

アキホの部屋を思い出の部屋にしているのではないよ。キミのパパとママは今でもキミと一緒に暮らしているのを実感したいのだよ。見えないキミがママの辛い気持ちの宿主だとすれば,その気持ちは絶対に癒えるなんて事はない。癒えたら,アキホがママから居なくなってしまうだろう。ママはアキホと一緒にいたいのだから。ママの子育ての22年間は無駄じゃない,それを明らかにするのはアキホが存在していたという記憶だけでは不安なんだよ。皇女Elisabethが息子を失ってから一生喪服で過ごしたように,ママはこれから一生アキホと一緒に過ごすためにキミの生きていた時のままにしているのだよ。アキホちゃんは言ったのだろう,「私は誰からも愛されない。ともだち一人もいない。」——バカを言っちゃいけないなぁ。ママとパパがキミを愛しているじゃないか。キミが言っていたように,保育園時代のお友達はキミのことを家族だと思っている。僕たちアキホのお友達のパパもママもそうだ。キミは愛されていたし,これからも愛され続けるよ。

 

 

悲しみや辛さが記憶を超えて人の存在を感じさせてくれる。これこそ süßes Kreuz(甘き十字架)の正体なんだね。気づかせてくれてありがとう。

この感覚は癒える必要がない。背負っていくことで意味づけが失われずに存在し続けるのだから。

♫ Remember me!——Klaus Nomiはそう歌ったけれど,辛さがあるからそんな心配は不要。ましてやパパ・ママに呼びかける必要はないよ。キミのことは誰も忘れない。

youtu.be

多分今のママは越路吹雪の歌の如くに言うだろう。——♬ わたしは忘れない。海に約束したから。辛くても辛くても,死にはしないと。

youtu.be

はにわのきもち

【はじめに】

「はにわ」とは古語から語源を辿れば,埴(はに)土で作った輪に並べて王墓を取り囲む副葬品だ。つまり墓に入れる土器のことである。しかし今,「はにわ」といえば人や動物,家などを象った古代の面白い出土品,考古学の史料だけれどもどこか憎めないユーモラスな古美術品の印象ではなかろうか。

それを証明するように,2024年秋,東京国立博物館50年ぶりに「はにわ展」を開催し,同時期国立近代美術館でも「はにわと土偶展」を催している。二つの展覧会には「はにわキャラ」で一世を風靡したNHKの番組「おーい,はに丸」に登場する「はに丸くん」がフォトスポットとして設置され,来場者は思わず目を細めスマホを取り出す。とにもかくにも日本人は「はにわ」が好きなのだ。これは間違いない事実だ。かくいう自分も小学校低学年時代の愛読書は小学館の『原始美術』。この本を眺めながら火焔土器を作ってみたかった。はにわを作ってみたかった。しかし当時(今から半世紀前)はそんなことを教えてくれる教室などなく、子どもにも陶芸を教えてくれる、とある有名な陶芸家のところで土いじりをしていたのだった。

こうした展覧会の流れに乗じて自宅近所の下高井戸シネマでは秋山貴子監督のドキュメンタリー『掘る女』が再上映されて賑わっている。

2024年秋はまさに “saison de Haniwa” という印象だ。

二つの展覧会と「掘る女」,そして自分のはにわ遍歴を重ねつつ,ここに「はにわへの思い」を綴って見たい。

 

【はにわの起源について】

はにわの起源については今回の東博「はにわ展」の図録にも少し紹介されているが,正確に言えば,最古の文献は『日本書記』巻六 垂仁(すいじん)天皇32年に記されている。原文は以下の通り

卅二年秋七月甲戌朔已卯、皇后日葉酢媛命薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿日、從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。於是、野見宿禰進曰、夫君王陵墓、埋立生人、是不良也。豈得傅後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取植以造作人馬及種々物形、獻于天皇日、自今以後、以是土物更易生人、樹於陵墓、爲後葉之法則。天皇、於是、大喜之、詔野見宿禰日、汝之便議、寔洽朕心。則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令日、自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。

天皇厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓、謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之綠也。所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。
黒板勝美による訓読(読み下し文)
卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢命〔一に云ふ、日葉酢根命なり。〕薨れます。臨(はふりまつらむとすること)日有り。天皇群卿に詔して日く、死(しにひと)に從ふ道、前に不可(よからずといぶこと)を知れり。今此の行(たび)の葬(あがり)に奈何(いかが)せむ。是に於て野見宿禰進みて日く、夫れ君玉(きみ)の陵墓に生きたる人を埋立つるは是れ不良(さがなし)。豈後葉(のちのよ)に傳ふることを得むや。願はくは今將に便(たより)なる事を議りて奏さむ。則ち使者を遣して出雲國の土部(はしべ)壹佰人(ひとももたり)を喚上(めしあ)げ、自ら土部等(はしべたち)を領(つか)ひて埴(はにつち)を取り、以て人馬及び種種(くさぐさ)の物の形を造作りて、天皇に獻りて日く、今より以後、是の土物(はにつち)を以て生きたる人に更易()へて陵墓に樹て、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ。天皇是に大に喜びて野見宿禰に詔して日く、汝の便なる議(はかりごと)、寔に朕が心に洽(かな)へり。則ち其の土物(はにもの)を始めて日葉酢援命の墓に立つ。仍りて是の土物を號けて埴輪と謂ふ。「亦の名は立(たて)物なり。」仍りて令を下して日く、今より以後、陵墓に必ず是の土物を樹て、人をな傷(やぶ)りそ。天皇厚く野見宿禰の功(いさをしき)を賞()めたまふ。亦鍛所(かたしところ)を賜ふ。則ち土部職(はしのつかさ)に任()けたまふ。困りて本の姓を改めて土部(はしの)臣と謂ふ。是れ土部連等天皇の喪葬(みはふり)を主る綠なり。所謂野見宿禰は是れ土部連等の始祖なり。  (黒板勝美編『訓読日本書紀岩波文庫より)
小島憲之 et al.による現代語訳は以下の通り
三十二年秋七月の甲成の己卯(六日)に、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が去された。葬りまつろうとして、何日もの間が過ぎた。天皇は群卿に認して、「亡き人に殉死するという仕方は、前に良くないことだと知った。今、この度の葬礼にはどのようにしたらよかろうか」と仰せられた。ここに、野見宿禰(のみのすくね)が進み出て、「いったい君王の陵墓に、生きた人を埋め立てるのは、実に良くないことです。どうしてこれを後世に伝えることができましょう。願わくは、今、好都合なことを協議して奏上いたしたいと存じます」と申しあげた。そして使者を遣わして、出雲国の上部(はにべ)(埴輪制作・葬礼などにあずかる部民)百人を召し寄せ、自ら土部らを使って埴土(はにつち)を取り、人・馬、その他いろいろな物の形を作って、天皇に献上し、「今から後は、この土物(はに)をもって生きた人に代えて、陵墓に立て、後世の定めといたしましょう」と申しあげた。天皇は大いに喜ばれて、野見宿禰にして、「お前の考え出した便法はまことに私の心にかなった」と仰せられた。そこで、その土物を初めて日葉酢媛命の墓に立てた。そして、この土物を名付けて埴輪という。
または立物(たてもの)という。そこで布令を下して、「今より以後、陵墓には必ずこの土物を立てよ。人を損なってはならぬ」と仰せられた。天皇は厚く野見宿禰の功績をお褒めになり、また工事場を与えられ、そうして土部職(はじのつかさ)に任ぜられた。それで本姓を改めて土部臣(はじのおみ)といった。これが、土部連(はじのむらじ)らが天皇の喪葬をつかさどることになった由縁である。それゆえ野見宿禰は土部連らの始祖である。小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校訂・訳『日本書紀小学館より)

 

つまりは古代の豪族達はインド(ヒンドゥー教)のサティ(亡夫の火葬の際に妻を生きたまま一緒に炎に入れて殉葬させる習慣)のような酷いことをしていたが,それを垂仁天皇が妻の葬儀の時から埴輪に変えたという伝説。野見宿禰は以降土師(はじ)という姓になったとする。因みに「土師」さんは全国に3700人程度いるらしい。(大阪,岡山,大分,福岡,佐賀に多いらしい。)ただし,土師という姓は天皇や貴族の死・葬礼にかかわる氏族ということで「穢れ」のイメージと繋がる。これが原因だろうか桓武天皇の時代(781-806)には改姓が認められて土師氏から秋篠,大枝→のちに大江,菅原の三氏になった桓武天皇の母方が土師氏出身だったということも関係があると思われる。学問の神様で有名な菅原道真の菅原氏はこの土師氏の改姓したものであるから,道真のルーツも野見宿禰ということになる。野見宿禰は同時に相撲の達人でもあり,相撲の神様として祭られている事の方が多い。

ただしこの『日本書紀』の伝説は,東博の図録によれば,考古学的調査では誤りだと言わざるを得ない。なぜなら埴輪の最初は人や動物の形ではなく,飲食物を捧げるための器だったからである。これが円筒埴輪に発展し,その後で様々な形象埴輪になったと考えられている。形象埴輪は陵墓を見上げることで見えるように「みせびらかし」の為に作られたと考えられていて,つまり葬られた人物がいかに権力があり,物を持っていたか,あるいはどんなエピソードがあったかを誇示する目的だったと推測されている。『日本書紀(720)が書かれた頃,古墳(3-6世紀)はもはや歴史的遺物であり著者も想像で書いたに違いない。

ただそれにしても土師氏の作る埴輪は自由闊達でユーモラス。なぜかゆる~い。

 

【自由闊達な「はにわ」がいかに受容されてきたか】

東博の「はにわ」たちを鑑賞すると,それは確かに考古学的史料として展示してあるものなのだが,ひとつひとつのはにわに個体差を感じ,作り手の気持ちや製作時の心が反映しているように感じてしまうのはなぜだろう。二つの目と口は穴が空いているだけだ。それにも拘わらず人物はにわには表情を読み取ることができる。背中に赤ん坊を抱く女,乳を与える女,悪霊を追い払うために不敵な笑みを浮かべるはにわ,従者のはにわは真剣な表情だ。

人物だけではない,動物のはにわでもそうだ。人に感づいて思わず後ろを見返す鹿のはにわ,追いかける犬をもろともせずに高いところへ昇り,「ヘーイ,登ってこられないだろう!」と我が物顔の猿,ずんぐりむっくりとユーモラスな子馬のはにわ。東博にならんだはにわたちは,見るものの心を捉え,それらが単なる副葬品であることを超えてあたかも美術作品群であるかのような錯覚を起こさせる。——(近代美術館の解説によれば)それは確かに錯覚だった。はにわを美術的鑑賞の対象として取り上げだしたのは紀元2600年を目前にした1930年代後半のことなのだ。それまでは飽くまでも考古学上の出土品。古墳時代の副葬品,つねに大王や豪族たちの「死」θάνᾶτος と結びつく穢れの品でしかなかった。

私の幼少時代の愛読書だった,斎藤忠著『原始美術』(小学館 Book of Books 日本の美術1)でも——これは昭和47(1972)刊行だが——「とにかく,埴輪は,死の行事にともなって墓におさめたものであり,死者とともに永久に土中に埋めようとしたものである。したがって,埴輪からは,日常の生活と関連する道具などと異なる性格を把握しなければならない。」と安易な読み・理解に注意を促している。

それにも関わらず「はにわ」は人を惹きつける。昭和27(1952)処女詩集『二十億光年の孤独』を刊行した谷川俊太郎はそのなかで「埴輪」という詩を載せている。

 

すべての感情と苔むして静かな時間とが
君の脳に沈殿している
眼の奥にある二千年の重量に耐え
君の口は何か壮大な秘密にひきしめられる
泣くことも 笑うことも 怒ることも君にはない
何故なら
君は常に泣き 笑い そして怒っているのだから

考えることも 感ずることも君にはない

しかし
君は常に吸収するそしてそれは永久に沈殿するのだ

地球から直接に生まれ 君は人間以前の人間だ
足りなかった神の吐息の故に
君は美しい素朴と健康を誇ることが出来る
君は宇宙を貯えることが出来る

 

戦後(1946年)杉並の自宅に戻り旧制都立豊多摩中学に進学した俊太郎の父親,谷川徹三はこのとき,文部大臣兼東京国立博物館館長,学習院院長に忙殺されていた安倍能成の下,東京国立博物館次長(1949年まで)の職にあった。父親の職場を訪れた十代半ばの俊太郎が,展示されている埴輪を見て詩を書いたのかもしれない。この偶然をどう考えればよいだろうか?多感な時期の俊太郎が「はにわ」に対峙したとき思わず脳裏に閃いた「君の口は何か壮大な秘密にひきしめられる」そして「君は常に吸収するそしてそれは永久に沈殿するのだ」とは一体何だろう?

私はこの答えを明治期以降の「埴輪の受容」から紐解きたい。

 

【古代日本のシンボル・王政復古としてのはにわ】

近美の展示・図録をよく読むと,明治時代から軍国日本直前までは「はにわ」のイメージは古代日本の象徴だったようだ。明治時代に入り,大学が設立されると,お抱え外国人学者が考古学をもたらした。大森貝塚に代表される西洋考古学の成果だが,勿論発掘調査が行われたことで数々の出土品が登場し,埴輪や土偶,土器が日本人のルーツを代表することになる。その中でも埴輪は具体的な人物を象り,その衣装から階級や職務も分かる貴重な史料となる。

それと同時に明治日本が力を入れた近代国家としての宣伝,つまり万国博覧会への参加に,西洋文化とは異にする,長い歴史を絵で具現化するのに一番理解しやすいものが埴輪であることには誰も異論はなかろう。現に近美の展示物には1910年の日英博覧会1893年のシカゴ万博において「代表的日本」として紹介された埴輪のイラストがある。明治政府は古墳時代の発掘物を世界に示すことで,大日本帝国という国家は明治維新でできた新しい国家ではなく,神武天皇を太初とした紀元前660年より続く万世一系の由緒ある国家なのだと広めたかった訳だ。その証左として古墳があり,その具体的遺物として埴輪があったのだ。

明治政府の意識はこの万世一系だけではなかった。この万世一系の中に今の天皇がいることも示したかった。故に国家神道が登場し,王政復古が声高々と唱えられて天皇親政が世界に喧伝される。

江戸幕府後期,1867年に孝明天皇崩御するがこのとき葬儀は従来通り仏式であったが,その墓は石塔ではなく,円墳(後月輪東山陵)を築いてその山上に天皇の棺を安置した。この特例は,既に幕府が斜陽になり王政復古が唱えられた証だ。そして1912明治天皇崩御によって王政復古のプロパガンダは一気に最高潮に達する。まず明治天皇伏見桃山稜は上円下方墳になった。これは天智天皇陵などに習ったといわれている。(実際には天智天皇陵は上八角下方墳だったことが後の調査で明らかになった。)そして稜の中には天皇を護衛する埴輪が4体製作され石室の四隅に安置された。副葬品のように埴輪が作られた例はこの後妃の昭憲皇太后伏見桃山東稜の四隅に置かれた他にはないそうだ。まさに古墳時代を彷彿とさせる天皇親政の最後の象徴がこの埴輪安置だと考えて良いのではないか。

明治天皇の埴輪を図面にしたのは帝室博物館の歴史学者三宅米吉・学芸員の和田千吉と関保之助で,これを彫刻家の吉田白嶺が製作した。面白いのはこのとき,明治時代の軍人を象ると「殉死」のイメージが伴うので,敢えて平安期の武装にし,ポーズや顔については和田千吉が発掘した武装土偶を参考にしたという。

明治政府は王政復古の象徴としての埴輪を作らせたが,これは日本書紀の埴輪の縁起を思い起こさせる物にはしたくなかったようだ。飽くまでも天皇を護衛する意味での役割の埴輪を強調したがった。なぜならば,明治天皇崩御の際,期せずして乃木希典が妻を伴って殉死したからであった。殉死を美として受け入れたくない明治政府は再三にわたって「殉死的意義と誤解されては困る」と報じたが,世間は乃木夫婦の殉死をもてはやした。そして埴輪の存在が世間にも知られるようになった。政府も国民に衝撃と賞賛を与えたこの殉死を評価せざるを得なくなり,伏見桃山稜の麓を提供して1916年,乃木神社の建立を許可したのだった。

期せずして埴輪が死と共にあることを広めてしまったことになったが,太平洋戦争に入る頃には,これが本当にプロパガンダとして利用される。

 

【埴輪美は愛国の証】

1940年,日本は紀元2600年を迎えた。この前後から「埴輪美」という言葉が登場する。軍国日本を象徴するイメージは何か?それは一言で言えば「武士道」である。領主との契約によって仕える西洋の騎士とは異なり,日本の武士道は主のために死をも辞さない決断力,葉隠れの冒頭にある「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり。」(これは実は死ぬことを勧めているのではない。迷ったら,死ぬ覚悟で物事に当たれば,例え犬死でも死んだ者の名誉は傷つかない。生きながらえて見苦しいと言われるよりましだ,ということなのだが。)を国民に教育して「天皇陛下万歳!」の号令の下に殉死するのを幸せと思わせる政策を軍部は採る。この最たる宣伝材料が埴輪になった。

 

日本人は深い深い心を持って居り,こまかい心を持ってゐても,それを表面に出さないのを尊びます。たった一人のこの戦死の報せを受けても,涙もこぼさないお母さんこそ,日本人の理想です。うれしい,悲しいといふ心を,人の前で遠慮なく現はすことが,あたりまへのことにしてゐる西洋人には,よく日本人がわからないと言ひます。皆さんも,若しこの埴輪の顔を見て,私の今までお話ししたやうなことが分からない,これはうそだと思うやうでしたら,その人は英米人の心になりかかったのであり,心によごれがかかったのです。ようく拭き清めなければならない。そしてもう一度,埴輪の顔を見ることです。つまり,埴輪を皆さんの心の鏡になさい。(後藤守一『少國民選書 埴輪の話』1944増進堂

 

この文章を書いたのは高等師範を出て地歴の教諭として教壇に立ち,帝室博物館にも勤務,1941年に翼賛的考古学団体,日本古代文化学会を創設した人物だ。1942年より國學院大学に奉職,戦後は明治大学考古学研究室を創った。日本古代文化学会は国家総動員法により内務省文科省の指導で学会統合でできたものだが,この学会には東京帝大の人類学会や帝室博物館が主導する日本考古学会は参加しなかった。官庁主導の統合に官立の学術団体はNOの意志を示していた。この意味が分かるだろうか。学問は政治ではない。だから政局に左右されるような団体ではありたくないからだ。

しかし『埴輪の話』を読むように,戦時体制は東博で垣間見られるような活き活きした埴輪の姿を隠蔽して,穴の空いただけの目と口は「壮大な秘密」をひきしめ,豊かな感情を抱くもそれを出さないことが美徳と価値づける。近美に展示された同時期の蕗谷虹児の作品「天兵神助」(1943)を見ると,倒れた航空士を抱く武人埴輪が当時の大和魂を具現化した表現であることがよく分かる。突撃し,戦闘して敵を倒す姿ではなく,武人埴輪と共に突撃し,戦死する姿を絵の中心に置くこの構図は一体何を国民に求めているのだろうか?

後藤守一の文章を読んだ後に今一度谷川俊太郎の詩を掲げてみよう。

 

泣くことも 笑うことも 怒ることも君にはない
何故なら
君は常に泣き 笑い そして怒っているのだから

考えることも 感ずることも君にはない

しかし
君は常に吸収するそしてそれは永久に沈殿するのだ

 

後藤が『埴輪の話』を刊行した1944年,谷川俊太郎13歳。まさに少国民だった。彼がこの文章を読んでいたかどうかは分からない。しかし谷川の詩を読むとき,これは後藤守一の文章を代表とするこの価値観への静かな抵抗ではないかと私には思える。戦時期に盛んに流用された「武人はにわ」は豪族の死と共に埋葬され,王政復古の明治期に発掘され,以来帝室博物館で日清・日露戦争第一次世界大戦第二次世界大戦を迎えた。


どんなに悲惨な状況にあっても,後藤守一の文章のように,この武人は泣かず,笑わず,怒らず,こまかい心を表面に出さず,じっと虚ろな表情のまま展示ケースに居たのだろう。でも彼はそれぞれの時代の空気を一身に纏い,彼の中にその時代は沈殿していく。戦後になって博物館を訪れた俊太郎にはそう見えたのではなかろうか。なぜなら戦後はにわは戦中とは全く違った意味づけをされて再度クローズアップされていくからだ。

 

皇国史観から日本文化のアイドルへ】

表情を出さないことを美徳とされた「はにわ」の扱いは,GHQにとって皇国史観を鮮明にしたものとは理解されなかったようだ。はにわは戦犯を免れた。それどころか,今まで記述されてきた高天原神話に代わって,考古学的証拠という客観的な事実として歴史が記述されると,埴輪と土偶はその代表的遺物として紹介されるのだ。古いものの代表,遺跡から出土した気高い文化遺産として。

また絵画の世界では兵士や歴史上の武人を書くことが禁止されたため,埴輪が格好の描画対象になったという。近美の展示で展示グッズのファイルにもなった長谷川三郎「無題——石器時代土偶による」(1948)斎藤清土偶(1958),馬淵聖「土器と埴輪」(1959)を眺めるとそれは日本人のアイデンティティーを確かめ,過去の悲劇に屈せずに,モダニズムを取り入れながら新しい社会を建設しようとする新生日本の心意気を投影するかのような作品に仕上がっている。

日系アメリカ人としてWWIIの時には苦境に立たされた彫刻家イサム・ノグチが陶芸を習うと同時に発見した京都博物館の埴輪の影響で創作されたテラコッタ群も「はにわ再生」に一役買っているようだ。

戦時中に盛んに語られた「埴輪美」は「はにわの美しさ」に代わり,それは「簡易質素な純粋美,無邪気さ,明るさ,やさしい強さ」と評された時代から,「素朴,シンプル,デフォルメされた美,シュール,かわいい」へと変貌し,はにわはアートの一部になる。現代のサブカルチャーにもすぐに入り込み,映画「大魔神」を皮切りに藤子不二雄石ノ森章太郎ゆでたまごみうらじゅんらのマンガに「はにわキャラ」が登場,東映戦隊ものには「はにわの敵役」が6回も出てくる。「それゆけアンパンマン」にも「はにわくん」,「はにわん」なるキャラが登場したらしい(2012)

はにわキャラで最も愛されたのはNHK教育テレビの「はに丸」と「ひんべえ」だろう。「はに丸」にいたってはもはや黙して語らぬキャラではない。目立つの大好き,おしゃべり大好きなはに丸王子は,20152017年までマイクを片手に人間の記者では絶対に聞けない「素朴で直球の疑問」を相手に投げかけてしまう「はに丸ジャーナル」が6回も制作された。数千年に渡って世の中を見続け,歴史的事件に居合わせた「はにわ」が,沈黙を止めて堰を切ったように政治家や話題の人物から本音を引き出す。子供だましだと高を括っていた相手が思わず絶句する「はに丸ジャーナル」はNHK現代社会を批判するために投入した痛快情報番組だった。

 

【はにわのきもち——まとめとして】

古墳時代の誕生から,現代に至るまで,ただ王墓に副葬されるだけの役割だった埴輪は,明治期の考古学誕生以来,1200年の眠りから目覚めさせられて様々な意味づけを施され,日本国民に愛されることになった。その愛着は今も変わっていない。「はにわ」は王墓に副葬されるものであるから,古墳が発掘されない限りは出土しない。つまり発掘調査されている古墳からしか埴輪は出てこない。仮に古墳があっても埴輪がでてくる確証はない。最近では2000年代になってやっと全貌が見えてきた百足塚古墳(宮崎県児湯郡新富町)の発掘調査では60個体以上もの形象はにわ・人物はにわが出土しており注目が集まっている。彼らの二つの穴の空いた目で見たことを,穴の空いた口から話してくれたならば,日本史のミッシングリンクが一挙に埋まることになるだろう。だが,一方でもしなにか驚愕の事実が分かってしまったら。黙して語らずのはにわでいたほうが良いのかもしれない。

 

加藤有子氏のBruno Schulzのモノグラムと劇団MODE「さよならシュルツ先生」から読み解けるもの

10月21日に観劇した劇団Modeの「さよならシュルツ先生」の事前知識のために加藤有子の博論『ブルーノ・シュルツ』を読んだ。
Bruno Schulz(1892-1942) はポーランドの画家であり小説家だった人物だ。自分はザッヘル・マゾッホの作品に似たものを絵画の世界で表現した人物として Bruno Schulz が取り上げられている加藤有子氏の小さな論文を見つけたことから Bruno Schulz を知った。そしてこの加藤有子氏が日本で唯一と言っても過言ではないSchulz の研究者であることも知った。加藤氏は修士時代に Schulz を研究対象とすることに決め,そのためにポーランド語を学び,ポーランドに留学もして,ポーランド文学の目線でしか Schulz が読み解かれていないことに,自身の芸術学・美学の出自から新たな視点を投げかけた研究者である。劇団MODEの劇を鑑賞するに当たって,その前知識としてこの博士論文を読むことは利益あって害なしであろうと考えて読書してみた。

 

Ⅰ. 加藤有子の博士論文を読み解く

【序章と第1章】

序論と先行研究、第1部の初めで理解できたキー。

①今までのシュルツ研究は彼のたった9年間の小説家生活に対するものしかなかった。しかも9年という月日では作家の生涯と作品の発展過程の対照研究ができない、とされてきた。

②画家としてのシュルツは当時は非前衛的でポーランド人には好まれたが、戦後は評価が逆転し、ただのマゾヒストの願望をアナクロニズム的絵画にした価値の低いものとされてきた。

③著者の加藤有子氏は前の二つについて意義を唱える。絵画も小説もシュルツの創作過程の変遷を十分に表す要素があり、それを提示する事がこの博論の目的であるとする。

 

シュルツの自画像を見る時、画中画には一般的に美術界では最高のランクに上げられていた神話世界の描写を彷彿とさせる図象学的絵画が描かれているが、その神話的主人公が現実界の裸婦だったり、傅く男だったりとマゾ的エロスを醸し出す。

コレは高尚美術の中に大衆美術を区切りなく描くことを意味する。そしてシュルツが当時センセーショナルだったフロイトの読者であり、性的なものが社会の文化を作り上げているというフロイトの挑戦的学問に賛同すべく、敢えて高尚美術に低俗でマゾヒスティックなエロスを盛り込んでいるというのだ。

故にシュルツの絵画はただの性的嗜好の絵画ではなく、旧来の絵画芸術の常識を根本から問い直すイロニーだと加藤氏は解読する。ーー図象学的分析から絵画の意味を引き出そうとしている。これからどう論が進むのか楽しみだ。

 

【第2章】

Bruno Schulz についての加藤有子の博論を読み進めている。第2章まで読み終わった。

第1章の画家としての Schulz の作品,そして次の章の「書」という概念。この「書」という考えが第3章の小説家としての Schulz の作品解読に大きく結びつくことがよく分かった。

Schulz は画家として小説家として別個に芸術を作ろうとしたのではないこと,この二つのジャンルは Schulz にとって二つではなく,ただの一つの芸術表現として繋がっていることが存分に語られる第2章だった。

そして少年時代にワクワクして読んだ物語が大人になると萎んだ筋書きにしか読めなくなる喪失感を補完すべく, Schulz は一見物語とは関係のない挿絵を挿入させて自分の小説を,まるで教会の大聖堂に置かれた巨大な聖書,シナゴーグで恭しく掲げられるトーラーのような「書物」に高めようとする,という分析。

小説『大いなる季節の一夜』で語られる13番目の月の意味(ユダヤ歴には3年に一度13月が現れる。),彼の「書物」観は

①実は聖書やトーラーではなく,

②使い古された書物のテクスト=口伝律法(ミシュナー)の余白に書く描写→ミシュナーの周りに注釈(ゲマラー)を書いて創り上げていくタルムードのイメージであること,

だから主人公が幼児期に邂逅したが今は探し求めている「書物」として父親が「聖書」を差し出したときに,主人公の少年が語る台詞

「ごまかさないでよ!この本は父さんを裏切ったんだ!できそこないの偽書!『書物』はどこにやったの?」


が意味をなす。——これに気づくには,Bruno Schulz は単なる裕福なハプスブルク帝国ガリツィア在住のユダヤ人としてだけではなく,本来のユダヤ教の文化を幼児期から踏襲して理解していたことを見破らねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絵画で額縁を有効活用し,額縁の先の虚構の世界と,額縁の外の現実の世界を一体化させてしまった,παρεργον の象徴的利用が,彼の「書物」の世界ではミシュナーの余白に書かれるゲマラーのごとく,テキストに併置される筋とは関係の無いように見える挿絵の存在であること,これを指摘することができたのは筆者の美学者・美術研究者としての能力が如何なく発揮された所以だろうと思う。

これは文学研究者では難しい理解だ。Ikonographie 的分析が Schulz の小説へも為されて初めて気づくことだと感心して読んだ。

そしてこうしてパーツとして分解された Ikonographie 的各要素が,今度は Schulz の生涯・当時のガリツィアの文化的状況を援用して Ikonologie として意味づけされる。これは Schulz 自体が本物の読者に期待していることでもある。加藤有子氏自身が Schulz の「この小説があてにしている本物の読者」になっていることに気づく。だからこのアイデアが思いつくのだろう。まさに痛快な読み解きを展開している。

Bruno Schulz という人物がいかに現実と虚構の乖離を打ち壊して,絵画も文学も同じ地平線上でこの架空空間と現実空間を混在させる前衛的試行を行っているかがよくわかる。新しい,全く新しいことをしている。しかしそれは当時も後代も理解者を見いだすのが大変難しいことだったのだ。

 

【第3章】

Bruno Schulz の博論、第3章に入った。Schulzので小説はカフカやマン、ヨーゼフ・ロートなど数人の小説家の影響を受けている。それはただ単に影響を受けて自作の小説を創作したというレベルではなく、主人公の名前や筋の展開においても故意に似せて書いているというのだ。あからさまな借用はいわば祖型となる作品を積極的に引き継いだ証であり、引き継ぐことで祖型の登場人物や筋の展開が一つの作品から飛び出して、次々に有機体となって他の作品に発展していくのだ。だから単なる模倣ではない。

この論文は第1章の画家としてのSchulzは一貫して絵画の虚構と現実の関係を混ぜこぜにした。画中画はそれを受け継ぐ自然な手法であり、かのようにも続く第2章ではミシュナーとかゲマラの関係宜しく、文章とそれを寓意する組挿絵の有機的に蠢く「書」の世界の変容を示した。そして模倣と諸作品から受けた要素を引き継いで発展させる第3章。筆者の分析と意味付与に期待したい。

Schulzは自分が影響を受けたTh. Mann, J. Roth, F.Kafka 等の作品の登場人物名や筋を、明らかに模倣している。だがそれは実は模倣から発したテーマの継承であり、そこから独自の、所謂今ふうに言えばスピンオフ作品のメイン作品化の様な様相を呈している。

この現象について、加藤有子氏は、Schulzの画家からのスタートに理由があると考える。影響を受けた作品からの引用、もしくは引き継ぎというのは、画家の技術習得に重要な、精巧な模写にあたると指摘する。画家達は先人の模写で学び、その後独自の作品を作り上げていく。その結果「聖母子像」が何度も描かれて直されていく。それは見方を変えれば「聖母子像」がある画家から別の画家へと引き継がれ、反復され、新しい息吹が吹き込まれていくのだ。こうしたとめどもない変形、メタモルフォーゼこそSchulz の目指す芸術であった。

故にただの模倣で、独自性を欠くものについては以下の書簡にある様に批判的だ。

トルハノフスキの本は僕を最近悩ます事の一つです。(…)貴兄はディレッタントの手になる下手な絵画複製を見た事がおありですか?そうした複製の細部というのは、一様に同じようなやり方で繊細さを欠き、変形され、だめにされてしまっているのです。僕の嫌悪感というのは、不器用な手で僕の様々な発明品を扱おうとする、この厚かましくも単純で粗野な心性です。こうしたディレッタントの手では、僕の発見も戯画と化してしまう。あの本は僕にとって多大な害となります。
(A.プレシニェーヴィチ宛 1936年12月1日 加藤有子訳より)

Schulzのメタモルフォーゼは一体どこから影響を受けたのか?その答えを加藤有子氏は Goethe の Morphologie (形態論)に見出している。Schulz が Morphologie という言葉を使っているからだ。

このとめどもない形態変化の小説化されたものが、Schulz の場合は『肉桂色の店』における父親ヤコブのあぶら虫への変化である。勿論これは彼に影響を与えた Kafka の „Verwandlung“(変身)が大きな役割を演じている。

ところがKafka におけるザムザはとめどない形態変化を一回性の、完全態と捉えて、変化していくが普遍の中心部分を維持する意識がなかった。故にザムザは甲虫のまま死んでしまったが、Schulzのヤコブは違う。ヤコブの形態変化は一過性のもので、彼の中心部分を維持する意識はその後も人間に戻ったり、別のものへと変わったりする。この描写自体がSchulzの芸術観を裏付けていると加藤氏は証明する。ーー大変ユニークで且つ鋭い指摘ではないか?

Schulzの版画集『偶像崇拝の書』における画中画による過去の有名宗教画の構図を利用したマゾヒスティックな絵も、小説におけるテキストに付加された(恰も絵画におけるアトリビュートのような)筋とは全く関係のない挿絵も、そして登場人物名や筋書きの他作品からの引用と発展も、全てがSchulz の芸術論の同一線上に並べられる事実を、著者は明確にすることに成功している。本当に痛快な博論だ。面白い。

目から手へ…。この第3章の終結は Schulz が従来の芸術論を打ち破っている事を示している。目で見たものを手が形にする。コレは西洋美術の基本的な解釈であるイデア論の考えだ。つまり目で見たと思っているもの(実際にあるものを見ているのではなく)は創作者の脳裏にある完全な理想=イデアであり、それを身体器官、とりわけ手が具現化する。しかしここにはギャップがあり、手が具現化できるものは目に映る完全体そのものには劣る、とされてきた。加藤有子氏はその証左としてレッシング『エミーリア・ガロッティ』に見られる台詞、「この目で直に描ければ!目から腕を通って絵筆に至る間に、どれだけ多くのものが失われてしまうことか!」を紹介する。

しかしSchulz はコレを否定する。彼にとって手は彼自身から切り離された創造の主体であり、目で見たものを再現する道具ではないのだ。見ないで描く、見たものではなく、見ずに手が積極的に描くのだ。

「世界が新しく生まれ変わるためにおめ前の手を通過した、と。お前の手の中で素晴らしい蜥蜴の様に脱皮し、鱗を脱ぎ捨てるために。」

これはどういう事か?加藤氏は解釈する。新たな世界を創造するのではなく、今ある世界を更新しているということ。だから「蜥蜴のように脱皮」するという表現なのだ。Schulzについて今まで加藤氏が手回してきたもの,絵画における画中画,小説における挿絵の役割,そして筋の中のメタモルフォーゼ,これらは皆既存の物を更新する,付け加えることで新しい存在へと変化していく意味づけがなされていた。それがこの第3章の最後には「目から手へ」つまり目に映った現物として存在していないイデアを再現・創造する手ではなく,手が触覚で感じ取った既存のものを変容させる手の働き,視覚や言語を超越した表象へ向かう芸術作品が Schulz の目指すものなのだ。ゆえにその作品は留まることを拒否して何度も変容を繰り返す。あたかもヤコブが人間とあぶら虫に,人間と鳥に繰り返し変化していくように。
さぁ、後は結論を残すだけ。

 

【読了!】

加藤有子『ブルーノ・シュルツ 』読み終えた。

従来の文学分析のみのSchulz研究ではなし得ない、美術・美学的視点による考察で、Schulzの絵画作品と小説作品が、所謂「書物」という概念の下地平線上に一列に並べられるべき一貫した芸術論の発見につながっている。コレは大変大胆かつシュルツに対する学際的研究の必要性を明らかにした。

虚構と現実、の二項対立を対立とせず、そこに場を作る事で境界線自体を融解させるシュルツの芸術観は何と新鮮で斬新なのだろう。20世紀の前衛思想が一見ただの個人的作品に見えるそれらに潜伏しているのだ。それはわかる人にしかわからない。シュルツはその「わかる人」に向けて作品を作り上げて問題提起してきたのだ。

とても大胆で面白い博士論文だったと同時に、こんな人物を演劇で上演するには一体どこに焦点を当てているのか気になる。そもそもこの博論を読もうとしたのは今週高円寺で上演される「さよならシュルツ先生」上演を理解するためだ。今、世界で唯一のシュルツに対するモノグラムを読み終えて考える事は、果たして脚本家・演出家のシュルツへの読みがどこまで深いかが試されそうだ。

嬉しいことに,加藤有子氏のこの博論が2023年に

"Bruno Schulz, modernista z Drohobycza. Księga, obraz"

としてポーランド語に翻訳・出版されたことだ。これは世界の Bruno Schulz 研究をボトムアップすることになる。

 

Ⅱ.劇団MODE「さよならシュルツ先生」を体験する

松本修氏の劇団】

劇団MODEは元近畿大学教授の松本修氏の実験的劇団である。実験的と言ったのは,この劇団がワークショップを重ねてその中の参加者からオーディションで舞台に乗る配役を決めていくこと,対象となる演劇作品を松本氏の脚本・演出と共にワークショップ参加者達が創り上げていくことで演劇の可能性を模索していることが主目的だと思われたからだ。上演でできるだけ大きな収益を上げるための演出や配役ではない。つまりこれを商業演劇とすれば,松本修の劇団は劇作品の芸術化を考えている。勿論芸術としての演劇の要素には観客の存在もあるに違いない。しかしながら,観客第一,観客は神様でドラマを構築しようとする考えとは違うということである。観客に伝えたいことは,画家や小説家が作品で鑑賞者・読者に影響を与えたいのと同じ次元のものでしかないということだ。

その上で,松本修が今回 Bruno Schulz の小説と絵画を元に劇作品を再構成して上場しようとしたことには,彼の個人的な大学教員退職による時間の獲得と演劇に対する情熱があるのは自明の理である。カフカ「審判」やブレヒトの作品に興味を抱いている松本氏にとって,Schulz は一般には決してメジャーとは言いがたいが劇作品として創り上げるには魅力的な題材なのであろう。なお,この劇作品は2023年に初演し,今回が再上演となる。加藤有子の博論は2010年に提出され,書籍化されたのは2012年である。当然松本修氏が加藤有子氏の書籍を読んでいる可能性があることは考えられる。それがよくわかるのは,一見絵画作品と小説作品には何の繋がりもないと考えられてきた Schulz の作品群を,この演劇はひとつにしていること,そして絵画における女性の支配的な役割を,小説の中の演技にも反映させていることは演出の松本修氏自身が絵画と小説の Schulz を別個には考えていない証左だと見て取れるからだ。

特に松下美波が演じた家政婦アデラと看護婦の役回りは脚線のチラリズムとモンローウォークで父とヨゼフを誘惑し妄想に耽らせる「偶像賛美」の対象になっている。この女優さんはホントに美しかったが,「偶像賛美の書」の偶像役として素晴らしい演技的挑戦をされたと思う。

 

【劇「さようならシュルツ先生」について】

「さようならシュルツ先生」はBruno Schulz の小説と絵画をちりばめた劇である。

冒頭三三五五集まった俳優達が Bruno Schulz の絵画「ウンドゥラと芸術家」と小説『砂時計の下のサナトリウム』の挿絵のポーズをして,スマホで写真に収めるところから始まる。何の説明もなく始まる。何か最初から Verfremdungseffekt(異化効果)が登場している感じ。つまりこれから演じる。配役=「舞台上ではその者」ではない。舞台両袖には衣装掛けが並べてあり,椅子もある。つまり登場すべきシーンになると両脇の椅子から立ち上がって舞台に出てくるのだ。

 

これと同じことをしていたのは1999紀伊國屋ホールで上演された「ファウスト(イオン・カラミトル,毛利三彌芸術監督)だった。たった8人の役者がひとり二役三役するので,両袖に椅子があってそこに座っているのがデフォールトのポジションになっていた。この配置も一種の Verfremdungseffekt なのかも知れない。

さて,「さようならシュルツ先生」に戻ろう。写真に収めると暗転して小説をテキストにした劇が始まる①『年金暮らし』②『鳥』③『マネキン人形論』④『父の最後の逃亡』⑤「砂時計の下のサナトリウム」⑥『天才的な時代』の順だ。

この中で最初の『年金暮らし』だけを除く他のすべての小説は Bruno Schulz の実際の家庭を基にした,弱々しい変身ばかりする父親とそれを眺めて生てきた息子のヨゼフ,父親に翻弄されながらも家庭を切り盛りしていく母親,美しい家政婦のアデラとその後に家政婦として家に来たゲニア,子どもたちが登場する,非日常的な事ばかり起こる日常劇に終始する。

最後の『天才的な時代』で絵画が登場し,シュルツの友人シュロマはその絵に驚嘆し,小説の通りシュロマはアデラのハイヒールを持ち去ってゆく。再び絵画的なポージングが行われ,この劇は終わる。

まるで「これから芝居を始めます。」→それぞれ役を演じる劇中劇→「お芝居は終わりました。」と芝居を入れ子構造で上演している。人生は劇だ,とでも言いたいのか?シュルツの人生を振り返れば,これはその通りだ。シュルツが絵画で描いたように,劇が人生ならば,現実と虚構の境界をなくしてしまう,そして劇を「演ずること」は模倣することであり,それは現実の中に虚構を封じ込めることに繋がる。シュルツの芸術論は——加藤有子によれば——既存のものを模倣し繰り返すことで新たな作品が模倣の合成のように生み出されて,それが更に模倣されて別の作品へと繋がっていく。まさに小説の芝居が別の小説の芝居へと移っていき,変遷の内に役を演じた者は現実の俳優へと実社会へと戻っていく。そんな劇に見えた。

 

舞台装置:舞台奥二箇所に黒く塗られた朝礼台。これは主にナレーション的役割の台詞、即ち異化効果(Verfremdungseffekt)の時、サナトリウムでの部屋のベッドの見立てに使われた。

他に場面によって椅子や食卓の机が置かれる時があった。

衣装:衣装はSchulzの暮らしていた時代の服装。特に奇抜だとかデザイン的に特異なものではなかった。Schulz家は裕福なユダヤ人家庭であった。
   衣装はその雰囲気を醸し出す、背広やワンピースであって、正統ユダヤ人特有の黒い服ではない。

動作:動作で奇抜なのは
   サナトリウムの看護婦のモンローウォーク。
   サナトリウム医師の屈みながら両手を水平にして歩く所作。
   家政婦アデラの使用人らしくない堂々とした歩みと時たま父に見せる網タイツの脚。

 

構成とドラマトゥルギー

①出演者で絵画を真似た記念写真
②年金暮らしの場面(爺→小学生→先生に虫入れて怒った女教師のSM)
③父ヤコブとヨゼフの物語(世界中の鳥を飼うヤコブ→ザリガニになるヤコブサナトリウムで死んだように暮らすヤコブ
④シュルツに別れを言いにくる友人シェロマ

 

事前知識無しで見に来た観客は,多分筋が破綻しているように見えるだろう。

年金暮らしの話と、その後の父とヨセフの話は全く繋がりがない。繋がりを意識できそうなのは女教師の怒った姿のSM&鞭とメイドのアデラの網タイツ脚。何じゃこりゃ?

確かにそう易々と理解できるような作品には見えないし,この劇を見たらそもそも Bruno Schulz 自体が不可解な人物にしか思えない部分もあるだろう。また,加藤有子氏の論述「Schulz は既存のものを変容させることで新しい芸術作品を繰り返し生み出していくという芸術観」をこの劇を見るだけで理解できるかどうかはわからない。

劇中父が家業を放棄して世界中から鳥を飼って自ら鳥となったかのように暮らし,あるときにはザリガニとなって現れ,手違いで料理されて食卓に登るが,足を一本遺して生き返って逃亡するというような荒唐無稽な話からそれを連想するのは多分不可能に近いだろう。

そしてなぜこの劇の題名が「さようなら」なのか?その「さようなら」はシュルツ自身であろう若きヨゼフに別れを告げる監獄から出てきたシェロマのセリフそのもので再現される。それも全く不可解に思えるかもしれない。この舞台は劇中劇の筋からなにかを導き出そうとしても無駄な徒労に終わる。なぜならば,すべては Bruno Schulz の芸術論の具現化に過ぎないからだ。ここで表現される演劇という表層(Vorstellung)は彼の論じる芸術のあるべき姿の例えに過ぎず,劇の筋を通して人間の絡み合いから生ずる何か普遍的な問題を問いかけてはいない。それを探そうとしても無駄なのだ。だから破綻して見えることになる。

しかしこの不可解な演劇現象を一旦すべて受け入れてそれが一体何を意味するのか?そもそも Bruno Schulz とはどんな現象なのかを自分で読み解く楽しみがこの演劇の醍醐味かもしれない。

「筋がない」のではない。加藤有子氏の論じるように Bruno Schulz のやったことには一本筋が通っている。でもそれを見つけられるかどうかは受容者の技量に懸かっている。

「あなたはそれが分かる人か?」が見るものに問いかけるものだとすれば,劇団MODEのこの作品は芸術史・美学を理解したい意識の高い者にとっては興味深い,大変面白い謎解きクイズが出されているのだ。——Bruno Schulz の芸術理論はどんなものなのか,舞台上で展開されるあらゆる物事を参考に箇条書きで示してみよ,と。

 

【最後にひとこと】

この舞台で成程と感動したのは,Schulz が完璧な物の代表格として常に表出される女の脚,舞台上の女の脚はSchulz の想像したものを連想させる Libido を惹起させる実物となっていた。

これは役者を脚で選ぶことにもなるのでかなり難しい選考になる。黒いガーターストッキングに包まれた肉付きの良い脚,網タイツに包まれてもそのエロティックさに負けない魅力的な起伏をもった細い脚,こういうフェティッシュな脚でなければ Schulz の美学は完成されない。

それを合格点で見せたのだからなかなか凄いことだと思う。ただ細くても脚は色気を醸し出さない。ハイヒールの形状をシェロモが賛美したように,女の脚の完璧さはどの女の脚でも同じなのではない。ヤコブが思わず跪きその完成された魅力にとりつかれるに値する脚をアデラが見せなくてはこの舞台は意味が無いのだ。網タイツを履いたからと言ってエロスが増すわけではない。網タイツ脚でも全然セックスアピールが受容できない場合だってあるのだ。それを及第点で演技しているのだから大したものだ。

 

Kuno FischerとGoethes Faust

日本で哲学が学ばれ始めた頃、つまり帝大ではフェノロサが英語で哲学を論じた。学生の共通の外国語が英語だったからだ。これは漱石をはじめ、井上圓了,西田幾多郎,阿部次郎,九鬼周造和辻哲郎を教え子に持った有名な Raphael von Koebel の時代もそうだった。しかし西洋哲学を学び取るには,英語だけでは不十分で,ドイツ語は勿論のこと,ギリシア・ラテンの古典語の知識が不可欠だ。Koebelは学生にそれを説いていた。このKoebelが大学時代に師事した教官に,哲学でドイツ留学した最初の日本人は学ぶことになる。

日本で最初に哲学を講義した日本人,井上哲次郎が留学(1884-1890)したハイデルベルク大学には当時 Kuno Fischer(在任期間1872-1903)がおり,親しく指導を受けたようだ。 この時Kuno Fischer は主著『近代哲学史』を既に上梓していた。(1852-)

Kuno Fischer (1824-1907)

井上の後輩で日本人が最初に記した『西洋哲学史要』の著者波多野精一は,件の書籍の主要参考文献は Fischerの『近代哲学史』だと告白している。

東京大学の哲学教授として21年間君臨したRaphael von Koebel が Fischer の下で博士論文を書き上げたのは井上が留学する3年前。
井上留学中は丁度私講師として活躍を始めた頃だ。


この Fischer が1877年に出版した Goethes Faust は大正2年森鷗外によって抄訳された。同年完成した鷗外の全訳に並行して,『ファウスト』の世界を理解してもらう為に鷗外は Fischer のこの本を訳し『ファウスト考』として供したのである。

とは言っても大正2年のファウストブームは,帝劇を5日間連日大入満員にした割に劇への理解は乏しかった。

大正2年(1913年) 3月27-31日 帝劇のファウスト(近代劇協会)

それを予期してだろう,鷗外はFischerを全訳ではなく抄訳した。これは筋の把握と解説が目的だからだろう。第二部終結部分もファウストがグレートヘンに導かれ,昇天する傍ら神秘の合唱が語られる流れしか紹介していない。

だが,Kuno Fischer は哲学者であるから,筋の流れを解説する「ファウスト物語」を著したのではない。この昇天にはどのような意味が込められていると解釈すべきかを最後に書いている。残念ながら,鷗外の抄訳にはそういった肝心の部分が一切省かれている。即ち,以下のところだ。


「高き祖先の霊たちに,神に達する為には,ファウストのより良き魂が要求するように,隠者の如く自発的に世界から隔絶すればよいのではなく、むしろ世界をその深淵なるところまで経験しなければならないのだ。即ち小世界と大世界である。

この神への道程は世界をぐるりと巡っていくことではない。世界の中を突き抜けて,何世代もの人々が重ねた偉大な時間が包含する,世界の最も内部にある欲求や思いを通り抜けていく事なのだ。これこそがゲーテファウスト』の道であり悲劇である。この道程にあるいかなる経験も意味の詰まった重要なものなのだ,なぜならその経験は全きものから理解され,かつそれと比較されるからだ。故にこの悲劇の結語は神秘なる合唱が語るが如くに発せられるのである。

全て移ろいゆくものは
ただの幻影に過ぎない。
未だ足らざるものが
此処では成し遂げられる
言葉に出来ぬものが
此処では行われる。
永遠の女性が
我々を引いて往く。」

上記和訳(拙訳)部分の原文  (4行目 Um zu Gott 以下ページの最後まで)

この時期日本では『ファウスト』をどう有識者は考えたのか?
嘗て一高で乞われた新渡戸稲造が講じた「ファウスト物語」においては,新渡戸は第1部しか語らず,さらにクリスチャンの新渡戸はキリスト教の教義に照らし合わせて,グレートヘンが懺悔をし,牢獄で祈ることで救済されたとのみ述べた。つまり一高生は第2部について何も教わらなかった。

鷗外訳に先んじて出版された高橋五郎訳(明治37年)は第1部のみ,明治45年に出た町井正路訳には「ファウスト後編梗概」と題した第2部の紹介がある。ドイツ文学とは全く関係ない町井が趣味と熱意で訳したものゆえだろう,ファウスト昇天の部分について町井は冷淡にもこう書いた。

 

ここで登場人物が述べる文句は,例の美文で優秀なるものであるが,例に依て相互何等関係無きが如く,又ファウストに対しても別に何等の意味無きが如き,誠に妙である。

 

一方当時のドイツ文学者たちは天使の合唱


Wer immer strebend sich bemüh‘t
Den können wir erlösen.
(常に努力してやまない者を我らは救済することができる。)


を引き合いに出して「努力」の価値を昇天へのキーワードとした。

大正2年に『ファウスト評論』を書いた鼓常良も,大正15年に『ファウスト物語』を著した茅野蕭々も「常に努力し向上する」ことにより神の愛に引き上げられて昇天すると書くのだ。
戦前日本のゲーテ研究を牽引したというべき大学者木村謹治はこの理屈をエッカーマンゲーテとの対話』にある Goethe 自身の言葉に証左を求めている。

 

ファウスト自らのうちにはその最後まで高進純化をやめない活動があり,而して天上からは彼を扶くる永遠の愛がある。この消息はわれらの宗教的見解と全く調和する。それによれば,われらは単に自力によってのみ救わるるに非ずして,それに加へられる神の恩寵によるのである。

木村謹治『ゲーテ』(弘文堂書房 1939年 317ページ)

木村はエッカーマンの文章から「高進純化をやめない活動」と語っている。ここの原文はこうなっている。

 

In Faust selber eine immer höhere und reinere Tätigkeit bis ans Ende, und von oben die ihm zu Hülfe kommende ewige Liebe.

Montag den 6. Juni 1831 aus Eckermann "Gespräche mit Goethe"


Goethe はここで höhere und reinere Tätigkeit 「より高くより純粋な活動」と形容詞は比較級でそして修飾先の名詞は Tätigkeit (=activity)なのだ。どこにも Wohltat(善行)とは書かれていない。
そもそもドイツ語の streben や sich bemühen は日本語の「努力」のイメージとは程遠い。日本語の「努力」は『広辞苑』によれば


目標実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること


だが、その目標はプラスイメージのものが大きい。

「努力して大学に合格した。」
「たゆまぬ努力で売り上げが伸びた」

はよくあるが、

「努力して人妻を愛人にした」
「たゆまぬ努力でアイツを虐め上げた」

とはあまり言わないのではないか?

しかしドイツ語の streben や sich bemühen は全力を傾け一目散に行動して何かを得ることを言う。そこに倫理観は問われていない。

Goethe の Faust におけるファウスト博士の行動を客観的に眺めてほしい。

 

魔女の薬で若返ったファウスト

① 一目惚れした少女グレートヘンをお宝攻めで陥落させ,
② 処女と肉体を味わう為に母親を毒薬で死なせ
③ 少女の兄と決闘して殺害し
④ 少女に子どもを孕らせて父なし子を産ませて少女が困って殺してしまうのを黙って見ていた
⑤ グレートヘンは牢獄で処刑されるが,ファウストはその後何もかも忘れて今度は絶世の美女,神話の世界のヘレナと交わり息子を生ませる。
⑥ 皇帝に上手く取り入り干拓事業を手がけ地位も名誉も不動のものにする

そんな彼が領民の自由を勝ち取る日々の生活に満足して,


Verweile doch, du bist so schön!
(止まれ,お前はなんと美しいのだろう。)


と言ってメフィストの手に落ちる。
そんな自分勝手極まりない男をなぜ天使は救済するのか?
中世の民衆本のファウスト博士は最後の最後に悔い改めて神に祈ろうと試みるが、Goethe の方のファウスト博士は一切悔い改めてなどいない。それなのに死体は天使の手で悪魔メフィストフェレスより奪還され救われる。

これを肯定してしまえば,人生勝ち組に入れば何をしても救われる,というテーマになる。いくらなんでも『ファウスト』はそんな作品ではない

日本的な意味での、努力したから救われるのではない。それを Kuno Fischer は Erlebnis(経験)で弁明する。

ファウストは自分の欲しいものを得ようと,小世界(第1部)では少女グレートヘンの愛情も肉体も全てを手に入れて,図らずも彼女を地獄に落としてしまう。

そして大世界(第2部)では絶世の美女ヘレナと交わり,オイフォリオンを生ませてギリシアとゲルマンの結合を成し遂げる。ヘレネとの一連の関わりが終焉を迎えると,今度は政治と権力の一翼を担う。全てがファウストの意志と行動力= streben で手に入れたものだ。Fischerはそれ自体への評価ではなくて,そのようにして生きて(leben)得た(er-)もの,即ちErlebnis (経験)を評価する。小世界と大世界を,時間軸の流れなど一切無視して見聞きし味わった様々な経験が彼を成長させ,その成長ぶりが昇天することで完全になり,人を卒業させるのだ,と言わんばかりなのだ。


Goethe „Faust“ は哲学論文でもないし,宗教のカテヒスムでもない。文学的な戯曲である。よって善悪について白黒ハッキリ決める本ではない。また宗教の力を借りて人を善に導く倫理の書でもない。大変人間臭い生き様のドキュメンタリーなのだ。

Goethe は60年の執筆期間を費やして(自分自身とも言える)ある人生の価値判断を,昇天する主人公で仮託したのである。
生きる価値を善行ではなくて,不断に何かを求めてやまない意志の力と定めたかったのだ。その求めてやまない事どもこそ,Fischer のいう Erlebnis だと私は考える。

何をしたのか?という中身の問題ではない,「したこと」が問われている。非常にシンプルだ。するしないかなのだ。『ファウスト』第1部で Goetheファウスト博士にヨハネ伝第1章をドイツ語訳させている。そこでもこんな価値判断がある。

 

Geschrieben steht: »Im Anfang war das Wort!«
Hier stock ich schon! Wer hilft mir weiter fort?
Ich kann das Wort so hoch unmöglich schätzen,
...
Es sollte stehn: Im Anfang war die Kraft!
Doch, auch indem ich dieses niederschreibe,
Schon warnt mich was, daß ich dabei nicht bleibe.
Mir hilft der Geist! Auf einmal seh ich Rat
Und schreibe getrost: Im Anfang war die Tat!

「始めに言葉ありき」——こう書いてあるが,
もうここで止まってしまう!誰も助けてくれないのか?
「言葉」なんかをそんなに高く評価できるものか,

こうすべきだ「始めに力ありき!」
いや,こう記しているうちに,
そんな所に落ち着くな,と諫める声がする。
霊感の助けだ!突然思いついたぞ
悠然とこう書こう「始めに行為ありき!」

 

Goethe が Eckermann に語ったのは höhere und reinere Tätigkeit だった。まさに Tat (行い)が問題なのだ。思いついても何もせずにいるのではなく,思いついたら実行する意志力,それが価値なのだ。Goethe 自身の人生がまさにそうではないか。彼は Faust を通してその人生が価値あるものだと総括したかったから,神様まで総動員して大団円を描いた,イヤイヤまさに人生の悩みを解決したい結末に私には思える。
この
思い込みがあってこそ, Goethe は "Faust" を封印して死の床を迎えられたのだろう。

 

本文中の独文の和訳はすべて拙訳です

 

聖書翻訳,たった4行でも面白い

旧約聖書と言えば原典はヘブライ語である。しかしこの原典を読める人々はユダヤ人でも伝統的に男性だけだった。

さらにディアスポラによって各地に離散したユダヤ人はその地の言語を覚えていくので聖書を原典で読める人々は更に減っていく。

そうしてヘブライ語が出来ないユダヤ人のために古くは72人訳ギリシア語訳旧約聖書,通称 Septuaginta が成立した。

そういう聖書翻訳の伝統は実はユダヤ人にもある。

ここにユダヤ人によるドイツ語訳旧約聖書が2冊と,イディッシュ語訳が1冊ある。紹介しよう。

1.Moses Mendelssohn訳

ドイツ語圏に渡ったユダヤ人(Ashkenazim)たちはユダヤ人訛りのドツ語イディッシュ語を話すようになるが,哲学者の Moses Mendelssohn はキチンとしたドイツ語をユダヤ人も話すべきだと啓蒙運動を展開した。これが俗に言うハスカーラー運動で1780年頃ベルリンで始まったそうだ。この運動で最も有名な人物が Moses Mendelsohn (1729-1786)だ。彼の孫はあの音楽家メンデルスゾーンであることは知る人も多かろう。そして劇作家Lessingの『賢者ナータン』の主人公ナータンはこの Moses Mendelssohn がモデルだという。

 

2.Martin Buber訳

『我と汝』で有名な20世紀の哲学者Martin Buber(1878-1965)はイディッシュ語とドイツ語が母語の環境下で育った。1924年にフランクフルト大学教授となるが,ナチス台頭後失職する。1938年にドイツを出国しエルサレムに移住,彼の地でヘブライ大学教授として1951年まで教壇に立った。このBuberは同僚の哲学者 Rosenzweigと1924年から旧約聖書をドイツ語訳し始めた。戦争を挟んで1958年に完成した。

 

 

二つのドイツ語訳聖書はユダヤ人の翻訳聖書として大変重要視されている。しかし比較をしてみると,二つの聖書は同じヘブライ語原典から独自の見解を示しているのが分かるのだ。

創世記の冒頭,たった4行だけだが,共同訳聖書の翻訳によると以下の通りである。

 

初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、 

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 

神は光を見て、良しとされた。「始めに神は天と地を」

 

チョットお遊びで比較してみようじゃないか!

 

(Moses Mendelssohn)

Im Anfang erschuf Gott die Himmel und die Erde.

Die Erde aber war unförmlich und vermischt,

….

Da sprach Gott: “Es werde Licht.” So wurde Licht.

Gott sah das Licht, dass es gut war,

 

(Martin Buber)

Im Anfang schuf Gott den Himmel und die Erde.

Die Erde aber war Irrsal und Wirrsal.

….

Gott sprach: Licht werde! Licht ward.

Gott sah das Licht: daß es gut ist.

 

(Jiddisch)

In anheyk hot got kashafn dem himl un di erd.

Un di erd iz neven vist un leydik,

Hot got gezogt: zol vern likht. un es iz gevorn likht. 

Un got hot gezen dos likht az es iz gut;

 

まず1行目の動詞の選択から好対照だ。

メンデルスゾーンは神の創造を意識した動詞,erschaffen を使っている。通常 erschaffen を人の主語にするとまるで神の様に何かを創造したというニュアンスになる。

一方でブーバーは主語が人でも使える動詞 schaffen(ゼロから創り上げる) を使った。

そして הַשָּׁמַ֖יִם (ハッ・シャマイーム)「天」をメンデルスゾーンヘブライ語原典通り複数形で訳している。ブーバーはドイツ語の常識に合わせて単数形にしている。ヘブライ語原典で複数形の「天」にはもともと単数形がないのでブーバーは実践的に訳したといえよう。

イディッシュ語訳で顕著なのは,この言語には動詞の過去形が存在しない。よって前二者が過去形で訳している動詞部分を,現在完了形にしている。

「天」は単数形になっている。


二節目前半の共同訳では一言「混沌」
とされている部分は,ヘブライ語原典では תֹ֨הוּ֙ (トーフー)「形がなく」, וָבֹ֔הוּ (ヴァ・ボーフー)「そして何もなかった」と書かれている。

メンデルスゾーンは unförmlich 「形がない」 と訳しながら,その後は vermischt 「まぜこぜになっている」と混沌を具体的に表す言葉に訳し変えている。

ブーバー訳は Irrsal und Wirrsal と古代高地ドイツ語からの雅語「迷い」と「混乱」を使っている。ここでなぜブーバーが形容詞 irreとwirrに大変古い名詞化語尾 -sal を使ってIrrsal, Wirrsal としたのか,これはヘブライ語原典が「トーフー」「ボーフー」と脚韻を踏んでいるからだ。とても凝っている。

イディッシュ語訳は vist un leydik (= wüst und ledig)と後半の形容詞をまさに「空っぽ」に充てている。


三節で顕著なことは,
メンデルスゾーン訳は置き字のesや副詞的接続詞 so を使って,Licht「光」を二回とも文末に置く修辞法を採用している。

なぜならば,ここはヘブライ語原文では   יְהִ֣י א֑וֹר  (イェヒ・オール)「光あれ」 וַֽיְהִי־אֽוֹר׃ (ヴァ・イェヒー・オール)「光があった」と オール「光」を最後においてのリズムがあるからだ。

一方のブーバーはこれを文末ではなくて文頭にして,Licht werde! Licht ward. とともに2音節文で表す。こうすると原文のイェヒ「ある」+オール「光」の2音節文に次の文はヴァ「完了の接辞」がついたシンプルな表現であることを連想させるのだ。そこでブーバーは werden「なる」 の過去形をメンデルスゾーンが使っている通常の過去形 wurde にせず,雅語の過去形 ward にして文全体を2音節に保たせている。

イディッシュ語は接続法Ⅰが使われず助動詞 zol (=sollen)を使って,(標準ドイツ語で逐語訳すると)Licht soll werden. としてある。過去形はないので,その後は完了形で Und es ist Licht geworden. と長い文になっている。


四節で最も問題視すべき事がある。
それは,メンデルスゾーンは dass es gut war と過去形で訳した部分をブーバーは daß es gut ist と現在形にしている。イディッシュ訳も es iz gut と現在形だ。これはどういうことか?因みにルター訳も欽定訳(King James Version)も過去形だ。現在の口語訳は全部過去形で訳してある。なぜメンデルスゾーン訳とイディッシュ語訳は現在形なのか?これも実はヘブライ語原典に理由があるのだ。

וַיַּ֧רְא   (ヴァヤルー)「そして見た」   אֱלֹהִ֛ים  (エロヒーム)「神は」  אֶת־הָא֖וֹר (ハーオール・エット)「その光を」  כִּי־ט֑וֹב(キー・トーヴ)「まことに・良い」

実はここは直訳すれば Und Gott sah das Licht sehr gut (= And God saw the light very good)という構造になっていて,コピュラ動詞である sein (= be) が書かれていない。よって ist か war かは訳者の判断によるのだ。

ギリシア語72人訳 Septuaginta はヘブライ語原典と同じく,


καὶ εἶδεν ὁ θεὸς τὸ φῶς ὅτι καλόν.


とὅτι (= dass) καλόν(=schön) とコピュラ動詞を書かずに記している。ユダヤ人の翻訳である Septuaginta はヘブライ語原典に執着しているのだろう。同じ箇所はヒエロニムス訳ヴルガタ聖書では,

quod esset bona

とコピュラ動詞として esset (接続法未完了過去)を加えている。キリスト教徒はヘブライ語原典に固執していないのか?ただコレで分かるのはヒエロニムス訳のこの表現が,ルター訳や欽定訳に影響を与えて 

daß das Licht gut war
that it was good

過去形を充てさせているのかもしれない。

たった4行の翻訳だが,これだけ色々な事が言えるのは大変面白いではないか!