「メンゲレと私」を見て考えたこと

1.三部作の共通点と今回の異なる点

 「メンゲレと私」鑑賞した。前作2作「ユダヤ人と私」,「ゲッベルスと私」と共通のB&Wで最初から最後までインタビューが流れる様式だが,アフタートークで渋谷先生が解説されていたように,前作2作ではインタビューの合間に流れる映像は出演者の実体験していない部分の真実を実写で見せて鑑賞者に情報の補完をしている様相だった。例えば「ゲッベルスと私」ではゲッベルスの秘書をしていたBrünnhilde Pommsel女史が「自分はゲッベルスタイピストだったが,別にナチス党の思想に共感していたわけではない」「給料が良かった。同僚も良い人ばかりだった」「強制収容所ガス室のことなど全く知らなかった」と当時のごく普通のドイツ市民が抱いていた回想が繰り返される中,市民の知らないところで行われていたユダヤ人殺戮,強制収容所の映像が流れて,Pommsel女史の当時の暮らしぶりと彼女の知らないナチス政権の蛮行がコントラストになって,映画を見ている者への情報として完成されるのである。

 ところが,今回の「メンゲレと私」で流れる当時の映像部分は米軍やソビエトナチス・ドイツによるプロパガンダ映画からの抜粋ばかりである。ともすれば,当時連合国と枢軸国はこんな映画を上映して国民を啓蒙?洗脳?していたと言わんばかりである。一方今回の証言者であるDaniel Chanoch氏のインタビュー部分は氏の波瀾万丈の逃亡劇で満ちている。まず生まれのリトアニアは20世紀には独立国として存在出来たのは僅かな時期で,1918年に独立国として回復するが,1940年にはソビエトに占領され,1941年にはナチス・ドイツに再占領,大戦末期の1944年には再びソビエト支配下になりこの支配は1991年まで続いた。そのリトアニアユダヤ人として生を受け,リトアニア人からもユダヤ人として白眼視された彼はアウシュビッツ強制収容所でその金髪・碧眼ゆえに死の医師メンゲレの寵愛を受けて生き延び,オーストリアに渡り,イタリアを経て,イスラエルに非合法に移住する。当時まだ13歳の少年であった。この飾ることのない冒険譚があまりにもリアルなため,むしろ事実の映像フィルムよりも当時両陣営が流していたプロパガンダフィルムの方が強いコントラストを見せることが出来るだろうと,制作者側が考えたのではあるまいか。

 

2.生きる事を維持出来た装置

 強制収容所に収容されて生き延びた人々に共通すること,それは絶望の中で絶望を理解せずに,生き延びるための希望・目的を棄てなかったことだ。今回の Daniel Chanochは収容当時まだ8歳の子供である。8歳で生きる希望を失えば容易く死んでしまうかもしれない。しかし彼には希望があった,それは父が齎したパレスチナの情報,日の光とオレンジの国,キブツでの希望溢れる生活,詩人と作家がいる国,この文化的に輝いている地域(当時パレスチナはイギリス領),約束の地に是非とも移住したいという憧れが8歳の少年を生きるための行動,我慢に我慢を重ねて,大人と同じようにアウシュビッツではユダヤ人の死体を運搬する仕事をこなし,メンゲレの度重なる選別にも疲れを見せない姿で乗り越え,目的の地へと向かうチャンスを虎視眈々と狙っていた。この「絶望を理解せずに希望を抱くことで危険を乗り越えるバイタリティー」がこの人を生かした。

 同じようなことを私は別の例で思い出した。同じアウシュビッツで生き延びた女子囚人たち。それはアウシュビッツ女子囚人オーケストラの面々である。彼女たちの上に立っていたのは,かの Gustav Mahler の姪だった Alma Rosé だ。この人も死の医師ヨーゼフ・メンゲレに寵愛されただけではなく,マーラーの姪であり,ウィーン・フィルコンサートマスターだった父親の才能を引き継いだヴァイオリニストとして尊敬され,彼女は囚人番号で呼ばれることなく,ナチスの管理者からFrau Rosé(ロゼさん)と呼ばれ個室で暮らしていた。そんな特別待遇のユダヤ人音楽家が率いる女子囚人オーケストラで,彼女が団員を鼓舞していた口癖がある。1つは”Wenn wir nicht gut spielen, werden wir ins Gas gehen.”(上手く演奏しなかったら,私たち,ガス室送りなのよ。),これは生き延びるための戒めの言葉である。もう一つは彼女の希望の言葉,”Das könnte sogar mein Vater hören.” (これをお父様が聴いてくれればなぁ。),オーケストラが上手に演奏出来たときに彼女が発するこの言葉こそ,オーケストラが存続するための目標になっていた。厳しい練習もこのために堪えられた。そして質の高い演奏がナチス管理者たちの誇りでもあった。残念ながらアルマは食中毒で亡くなってしまったが,団員たちはほぼ全員が終戦まで生き延びたのである。

 人は例え限界に置かれても,目標を失わなければその一条の光に向かって生き続ける可能性がある証左がこの生存者たちの証言ではないかと思う。希望は棄ててはいけないのだ。

 

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3.文化を求める人間の証

 収容所から解放された Daniel Chanochの行動で非常に面白い語りがある。それは日々の食料,生活物資を得るよりも,紙と鉛筆がほしかった。そしてある会社でそれを手に入れ,一晩中文字と絵を描き続けたという下りだ。彼はこれが自由の象徴,文明社会に戻ってきた証だったと述べている。

 人間は生きるために食料と衣服,住まう場所を求めるが,それは文明生活ではなく,最低限の,生物として存在するための必要条件なのだ。しかし思考する生物である人間は,文明・文化を創造しそれを享受して生きてきた。この欲求が紙と鉛筆だったのだ。これは我々の現代生活でも考えさせられることではないか。欧州では美術館や博物館,コンサート,映画館に行くとき付加価値税は食料品レベルに下げられている。生活必需品扱いである。音楽会に行くことは贅沢ではなく,人として生きるためには必要なものだという見解なのだ。

 文化を軽んじる政権は,人が労働して,その収入で食料と衣服と住まいを維持していれさえすれば幸せなのだと勘違いする。homo ludens たる人間は趣味や遊びを失ったら人間性を失ってしまうことが,彼の行動から反語的に理解出来るのではないだろうか。

 

4.野蛮とは何か,それは人を殺すことだけではない。

 この映画で語られたことで,今までのKZ(Konzentrationslager:強制収容所)映画で殆ど無視されてきた事実を敢えて語っている部分がある。それはカニバリズムだ。食料の危機,飢餓の危機は有事にはつきものだ。しかし戦死者を葬らずにその肉を食べることは,人間の築いてきた社会・文化を根底から崩壊させる蛮行である。もちろん殺人は蛮行だ。だから戦争は愚かな政治的決着だと言わざるを得ない。クラウゼヴィッツの『戦争論』で語られる戦争の目的は敵の戦意を喪失させて政治的解決をもたらすための実力行使だと言うことになる。殺人という蛮行を敢えて繰り返すことで戦意を喪失させるのだ。ここに戦争の政治的目的がある。

 ところがカニバリズムは政治ではない。この蛮行は生きるための手段として人間の尊厳を貶めて口に入れるのである。一度食料として口にすれば,次からはこれは蛮行ではなくなる。慣れてしまうからだ。生き続けるために人は子孫を残し,その一方で生き続けるために共食いを続けていくとすれば,死んだ死体のみならずそのうち生きている人間も生きるために殺して食べてしまうかもしれない。誰が生きるべきで誰が食べられるべきかなどどうやって決めるものだろうか?その蛮行の一歩手前が,目の前で死んだ者を弔わずに解体し食してしまう行為である。10代前半になっていたDaniel Chanoch はこれを平気の平左で行っていたハンガリー人が許せなかった。

 文明社会でカニバリズムが許されている社会とは,遺族の継承のための骨噛みや,敵を倒した際に完全制服を示す食人行為,または力を自分に移すための食人行為が多いが,中には単に食料として食べる場合がある。中国のように赤ん坊の肉を好んで食べるとか,また日本では首切り役人山田浅右衛門が死体を穢多頭の弾左衛門に渡し,弾左衛門が肝を丸薬にした人丹(じんたん)が売れに売れたと言う。明治初年になって全く違う丸薬だが,同じ音の「仁丹」が出たのはおそらく人丹のブランドが確立していたからであろう。

 人を食べる文化が普通に定着することは恐ろしいことである。その野蛮を極限状態の人間が行うのは許される行為かもしれないが,極限でも決して正常な行為ではないことを子供のDaniel でも直感的に思っていたのだ。Danielのいたアウシュビッツではメンゲレが双子の人体実験を繰り返していた。それを日常見ていたDanielが直感的にハンガリー人の人肉鍋を蹴り飛ばしていたのだ。地獄の中の地獄こそカニバリズムだと感じていたのだろう。彼の言うようにこのことについてはもっと究明されるべきだ。

 

5.3部作が完結してなおたりないもの

 このホロコースト証言シリーズ3部作はこれで完結した。「ゲッベルスと私」で加害者側のドイツ人の一般的な,ごく普通の暮らしが明らかにされ,「ユダヤ人と私」では生き延びたユダヤ人生存者を受け入れないオーストリア政府の戦後の「ユダヤ人撲滅政策」=オーストリア国内からユダヤ人を閉め出すこと=イスラエルに移住させてオーストリアユダヤ人を居住させないという理不尽な人々,現代の右翼勢力に繋がる危険な精神文化を白日の下にさらした。そして「メンゲレと私」では極限状態で生き延びることはどんな人間を作ってしまうのかをきれい事ではなく露骨に暴露した。

 しかしまだ,欠けているものがある。あとひとつ,明らかにされていない立場の人間がいる。それはホロコーストに参加した人間のインタビューである。当然そんな不道徳で,非倫理的な言動を記録して良いとは思わないが,しかしなぜ,文化的な,オペラを見て,スポーツを楽しむドイツ人が,平気で無感情にユダヤ人を裸にし,引っ立て,ガス室に送って,その夥しい死体を日常の光景として疑わなくなるのか,悪魔の気持ちがどこにも回想されていない。ランズマンの「ショア」ですらなし得なかったことだから,理性的に考えれば当然,今回の映画監督たちも出来るとは思えないのだが,しかし一番知りたいことでもある。

 

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