知識を収集して紹介することと知識を土台にして論じることは全く違う行為である。
Jemandem erlerntes Wissen vorzustellen ist ganz und gar anders als mit erlerntem Wissen über etwas zu denken.
情報は思考判断の材料であって知的活動の中心ではない。
Informationen sind zwar Stoffe, um über etwas zu denken und urteilen, aber keine Zentralen und Kerne der intellektuellen Aktionen.
人は確かに何かを得ると,それを真似て自分のものにする。しかし獲得したものを独自の考えによって出力しない限りは思考したとは言えまい。その人が何を考えたかは,その人が学んだ情報・知識を再提示しただけでは全くわからない。だからこそ,自分の言葉で,自分の視点で,獲得した情報や知識から何を語るかが大切なのである。それをしない限りは単なる受け売りを垂れ流しているに過ぎない。
この様に考えると,人間の知的産物とは幾千年幾万年の世代を受け継いだ情報・知識の複合体の上にコンテンポラリーな、斬新な思想が乗っかっているに過ぎない事が分かる。それは恰も地層のように知恵が知識となり、行為の結果が情報となり堆積しているのだ。この堆積物の上に,現代思想が砂の如く降り積もっている訳だ。
けれどもこれら堆積物にのみ寄りかかって思考することを怠れば,人類の思考の進歩は無くなってしまう。新たに堆積するものがなくなってしまう。思考行為は放棄されるべきではない。人は自分に向かって投資すべきなのだ。
自分の頭脳をRAM化してはいけない。人の頭脳は情報を出し入れするマガザン(Magazine)の役割だけ担っているのではないからだ。海馬もあるが大脳もある。大脳部分が最もヒトとしてヒトたる部位なのだ。それが思考行為である。
ITのインフラ化によって,我々は容易に知らない事を ubiquitous (どこでもその場で) rechercher(検索)すれば知れるようになった。だが,そのソースの信憑性がどれだけ正確なものか保証を確認しているだろうか,そして知り得た事を積極的に海馬に焼き付けているか?「また引けば良い」と刹那的な理解で終了していないか?自分の頭脳をRAM化する(電気が切れればメモリは消去される→刹那的理解)というのは正にこの事を指している。
人類は今まで海馬によって知識をROM化していたのだった。漢字の読み書き,外国語のスペリング,興味を持って調べた人物や事柄の情報,これらは海馬というHDDに収納され,大脳の思考に合わせてアクセスされて呼び出されていた。全てが頭脳の中で行われていた。頭脳に蓄積された情報を自分のアイデアで独自の条件で拾い出す事が出来た。この個性あふれるデータベース検索こそがその人の教養だと言える。
しかし,今はどうだろう,チョットした漢字もうる覚えでIMEに頼っていないか?人物や事柄について何回もWikiで調べてそれを読んで満足していないか?Wikipediaの情報が正確だと思い込んでいるとしたら,それは利用者だけで主催者は全くそういうつもりで運営していない。単なる参加型の「百科事典風書き込み板」でしかない。さらに今は「チャットGPT」が存在するようになり,自ら調査・研究せずとAIが便利に答えを出してくれる。文章も書いてくれる。これではヒトは創造する必要を失い,ただ享受するだけの生物に成り下がっている。
そのうち解釈や理解という行為も,AIと脳が結びつくことで自動的に電気信号により伝達されるようになるかもしれない。つまり人間が努力して物事を分かろうとせずとも,電気による情報伝達で分からせてくれる。そうなると頭脳の良し悪しなどなくなる。自分の好みのブレーンタイプに自分の脳をデザイン出来る時代が来るかもしれない。
そんな未来を予測しながら私が主張したいのは,ヒトにとって「努力」や「教育」や「何かを獲得する意欲」が不要になってしまうのは果たして人間にとって素晴らしい事なのか,という問いだ。この21世紀のIT社会で最も変革的なのがそこなのだ。今まで人間の文化が創り上げてきたものは間違いなく努力と教育と創造する意欲による賜物である。それが今では頭脳の鍛錬無くしてAIによるアウトソーシングで実現しつつある。それは人間の文明・文化にどんな変化をもたらすのだろう,進化か退化か,新しい人類の価値観を生み出すのか?正直不安である。