Über die Semantik der Darstellungen (表現の意味論)

0.はじめに

 私たちは何事も受容する際に意味づけをするのが一般的です。例えば夏の季節、家人が網戸になっていた部屋の窓を閉め始めるのを目にした時、(あ、クーラーを入れるんだな)と理解し、(自然の換気では家人には暑すぎたのだ)と解釈するでしょう。これは家人の行為そのものに対する意味付与だと言えます。

 同じように「氷」をイメージした時に(ひゃっこいなぁ)と思い浮かべるのも物質としての氷に付与された「経験による」意味です。

このように我々は何事も、言葉も、行為も、目や耳から入る情報も、触覚による情報も、直接的な状況から自分にとってどんな意味づけができるか思考しています。

 

 所謂表現行為と言うものはこの原理を上手に応用して発信者と受容者の間に何らかの意味的関係を構築する事に価値を置いています。音楽を聴いたり、絵画を鑑賞した時に、胸の奥から込み上げてくるもの、芝居やドラマ、映画を見た時に思わず納得したり涙する感情の起伏は、受容者がそれら現象に何らかの意味を理解しているから起こる事です。何も理解していなければ、ただ素通りするのみなのです。

 しかし一方で、表現行為には表現者による意味付けも当然考えられます。表現行為の構造は表現者の意味付けでできているのですから。

 

1.原始的な表現行為(直接的意味付与)

 信号機の赤が「進め」ではいけないように、物事への意味付けにも「不変の」「固定された」ものがあります。それがなければ円滑な社会生活に支障をきたすものがそれです。

 例えば言葉がそうです。[ki]とか[baʊm],[aʁbʁə],[tɾiː]と発音したり,「木」“Baum“, «arbre», “tree” と記した時に発信者と受容者は同一のものを思い浮かべる(=意味付与する)筈です。前者の発音や書記体系をソシュールは signifiant (能記)と名付け,付与される意味体系のことを signifié (所記)と命名しました。

同じ言葉でお互いに意思疎通できるのは,シニフィアンシニフィエがお互い共通の恣意的結びつきであることを共有しているからです。

 同じように以下の写真を見て誰かが,

 

 

「この白い服の人はYouTuberの好事家Genetだ。」

 

と言ったとしたら,日本語のわかる受容者のほとんどが「白い服を着ている人物」=「YouTuber」=「好事家Genet」という関係が理解できます。それは「白い」「服」「着る」「人」「YouTuber」のシニフィアンシニフィエの恣意的関係を共有しているからで,ここまで理解できると,「好事家Genet」という人物を知らなくても,固有名詞だと判断できるので文意が誰でも理解できるのです。これは発信者と受容者が意思疎通する為の最低限の意味論です。

 表現者はここに自分の表現したい意味付与ができるような工夫をするのです。

例えば,

 

「この純白の乙女はYouTuberの好事家Genetだ。」

 

 こうなると言葉の意味に発信者の感情が込められて発信されています。「白い服の人」→「純白の乙女」は国語辞典で「純白の」「乙女」の解説で書かれている内容だけ受容しても,「まじりけのない白色。けがれがなく、清らかな」「年若い女子」を示します。つまり発信者はこの写真の人物に対して独自の見解,価値判断を施して言語化したと言えるのですね。

 ただしこれも極々当たり前なシニフィアンシニフィエの関係を利用して表現に工夫を加えた程度でしかありません。

 音楽だったら,何かのテーマとして定めたメロディーを流してその人物登場,とするような表現,絵画ならその人物である事がお決まりの描画,例えば聖ヒエロニムスなら側にライオンが横たわっている描画,が描かれてモチーフとして描かれている程度の単純な,誰でもわかる表現でしかありません。

Van Dyck 聖ヒエロニムス

2.暗示的な意味付与(パラレルな意味構造)

 先程の写真の意味付与は物理的に判断できる「白い服」「人又は女性」についてその恣意的意味付けに則った意味の盛り付けをしていました。しかし、以下のような表現は如何でしょうか。

 

「純白の服をあの好事家Genetが着てるんだ。」

 

 ここで新たに解釈されねばならないのが「あの好事家Genet」の「あの」という指示詞です。指示詞というのは基本的に表現者と受容者双方が何を意味しているのかがわかる内容を包含します。つまりこの文では「好事家Genet」について発信者と受容者には共有できる何かがあり,それを踏まえた時に「白い服」を着ている事が尋常ではないと判断している事を表していますね。

 「あの」の二文字で,字面では表れていないが,発信者と受容者には自明の意味付けが共有されているわけです。例えば「普段から黒い服しか着ない」習慣にもかかわらず,とか,「本人の行動様式から純白が意味するものは違和感を感じる」とか,この文の言語運用に関わっている人々には字面の意味(denotation)以上の,目には見えないけれど感じる事が可能な副次的な意味(connotation) が加わっています。このようなパラレルな意味付与が表現を豊かにする基本構造です。

 同じ事を音楽ならばどうするでしょうか。例えば Wagner の楽劇『ワルキューレ』第3幕終結部ではゲルマンの主神ヴォータンの意に逆らった行為をした娘ブリュンヒルデの周囲に炎が燃え盛り,眠りにつかせたブリュンヒルデの前でヴォータンは「恐れを知らぬ勇者以外はこの炎を超える事は出来ない。」(以下2'09あたりから)と歌うのですが,

その際にこの楽劇には登場しないジークフリートの動機が流れます。

これはつまり,『ワルキューレ』に続く楽劇『ジークフリート』でブリュンヒルデを発見し,炎を超えて彼女を娶る勇者ジークフリートのエピソードを予感させる効果を狙っています。しかしこれは今目の前で上演されている『ワルキューレ』の筋とは無関係なのです。これも一つの時間軸にパラレルな状態で二つの意味が表現されているわけです。ただし,先程の「あの」と同じで,受容者がジークフリートの動機を知らなければこの部分のパラレルな意味関係を理解する事は出来ません。表現者は受容者に副次的意味が理解できる知識があること前提で表現作りをしているのですね。

 

3.受容者に共通する意味付与を与えない効果

 次に考えられる表現として,表現者が受容者に共通認識を要求せずに創造力を期待する表現効果があります。

 先程の写真について言えば,

 

「忘れられないあの運命の日と同じ白い服を好事家Genetは身に纏って現れた。思わずあの日が蘇って身震いしてしまった。」

 

 と書かれたら,受容者の気持ちは穏やかでないでしょう。「忘れられないあの運命の日」,「あの日」とは一体何なのか。字ずらの文章は分かっても,connotation の内容は全くの秘匿状態。思わせぶりな中味にこの後の展開が気になりませんか。表現者は受容者にこうした秘匿表現でストーリーに興味を持たせる工夫をしています。

 

 こうした故意に表現者のみの知る情報を暗示する表現の例として,夏目漱石の「こころ」が挙げられます。この小説では,主人公が知る事となった,先生とその奥様との関係について奥様も知らないある事実を主人公が知った所で小説が始まりますが,最後まで語ることがない。つまり先生の言葉「恋愛は罪悪です。」などの表現行為はなされても,その中核的な意味については隠され続けるのです。

 音楽の世界ではこのような秘密の表現はバッハが得意とするところ。有名な「フーガの技法」の未完成の第14コントラプンクトゥスの最後はドイツ音階名でB-A-C-Hで終わっています。

またバッハは黄金比を用いてリズム展開することもありました。こういう表現行為は音楽の様式や付される歌詞とは全く関係ない,秘匿された,構造のわかるものだけが理解できる意味付けなのです。

 

 同じような事例として以下のおおくぼけい氏の作曲作品にも言えると思います。


 

 

 表題の「牡丹華」は赤い大きな牡丹の花が咲く時季をイメージした曲ですが、作曲家本人のコメント「牡丹の花言葉は王者の風格なんだそうです。」よろしく,曲の出だしに歌謡曲の王者二グループの持ち歌「赤い◯◯」と「ふる◯◯」を彷彿とさせるフレーズが奏でられるのです。これは意図されたものか,偶然かは作曲家自身しかわかりません。しかし気がついた者にはこのフレーズが意味する何かを感じざるを得ないのです。

 

4.表現の余剰性について

 今までは表現者(発信者)と受容者(解釈者)の双方について表現内容とどう関係があるかで表現解釈が変わる事を紹介してきました。今度はその表現を量的に考えます。

 先程から扱っている写真について,今度はこんな表現がなされたとしましょう。

 

「磔にされたかの人が身につけていた亜麻布が血で染まっていった様子を連想させる純白の服を,この世に生を受けた事を堕獄だと表現して憚らない,そして吸血鬼のように血に飢えているあの好事家Genetが着ているのだ。」

 

 この表現で,受容者自身で客観的に判断できる内容は

①好事家Genetという人が

②白い服を着ている,

という二つの事実だけです。発信者はこれに別の命題をくくりつけて新たな関係を紡ぎ出しています。一つは純白の服が磔にあったかの人(おそらくイエスキリストでしょうが)の身につけていた白い亜麻布を連想させること,次にイエスの亜麻布は槍で刺されて脇腹から出る血潮で赤く染まった逸話を取り上げて,好事家Genetの白い服もいずれそうなるかの様な暗示をかけています。その暗示が事実になる根拠になりそうな様態の表現として,今度は好事家Genetは吸血鬼のように血に飢えている,つまり血を見る事を楽しみにしていると断定しています。これで好事家Genetの白い服はGenet自らの行為によって血液が付着して赤くなる事は必至だという事が暗示されるのですね。

 

 ただ,こうした表現内容は受信者が予め予測できるものではないでしょう。好事家Genetの白い服がイエスキリストの亜麻布を思い起こさせる見解に首肯出来る読者が一体どのくらいいるでしょうか。また,好事家Genetが自身をヴァンパイアでありたいと仮託し,夢想する性癖があると知っている受信者がどれくらいいることでしょう。この類の表現は客観的な「白い服を着た好事家Genet」に後付けで意味付与しているのが明らかです。書き手は表現の対象に自身の個人的色付けをしたい訳です。そしてそれを受容者にも同じ色眼鏡で見てほしいという誘導なのですね。

 例えばニュートラルな表現,

 

 「毎日煙草を吸い酒を飲む好事家Genet

 

 この事実に対して発信者が自分の都合の良い意味付与をすると,

 

 「ゆっくりと紫煙を燻らせ,アブサンの新緑をこよなく愛する好事家Genet

 

 「チェーンスモーカーでアルコールがないと片時も落ち着いていられない好事家Genet

 

 表現の仕方によって,対象者(物)の評価がどうにでもなる事がわかります。それを受容者は受容する事で発信者の判断と同じ目線で対象者(物)を理解することになるのです。表現の世界では受容者が表現者の判断を拒絶する事はできません。なぜなら作品は既に存在しているからです。

 

「好事家Genetの衣装を見るたび、この人が如何にモノトーンの人生を歩んできたかが自然に現れている様に思う。」

 

上記の例は受容者にかなりの解釈の余地を与える表現だと思います。その原因は「モノトーンの人生」という表現をどう考えるかにあると思います。

モノトーン=色彩のない=味気ない,

と捉えるならば,モノトーンの人生はつまらない人生のように解釈されます。一方で

モノトーン=シンプル=虚飾のない,

と捉えるならば,ストイックで真面目な人生だったと解釈されるでしょう。この文で客観的事実は好事家Genetが白と黒を基調とした服装が多いこと,それが人生に反映されていることの2点のみです。解釈の多様性は同じ作品を二回,三回と繰り返し鑑賞する度に,受容者の心理や環境で解釈が変わる可能性を秘めています。それがひいては引き出しの多い作品となり,何度も鑑賞される古典へと繋がっていくことになります。ですから,受容者に明確な意味付与を与えない方が,少し曖昧な方が深い作品だと理解されがちになります。

あのモナリザの微笑のように。