大正時代の感傷主義的エリートたち

 華厳の滝に投身自殺した一高生、藤村操の「巖頭之感」は当時(1903年)の旧制高校生や知識人に大きな衝撃を与えた、というが、具体的に影響を受けた人の言葉を読んだことがあるだろうか。

例えば当時藤村より5歳年上だが、一高では一年上の寮生(西寮六番)だった岩波茂雄岩波書店の創業者)はこう書いている。


「その頃は憂國の志士を以て任ずる書生が『乃公出でずんば蒼生をいかんせん』といつたやうな、慷慨悲憤の時代の後をうけて人生とは何ぞや、我は何處より来りて何處へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悩時代でもあつた。立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするを恥ぢ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには死も厭はずといふ時代であつた。。現にこの年の五月二十二日には同學(一年下)の藤村操君は「巖頭之感」を残して華嚴の瀧に十八歳の若き命を断つてゐる。

悠々たる哉天壤、遊々たる哉古今、五尺の小蠣を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチーを値するものぞ。萬有の眞相は唯一言にして悉す日く「不可解」。

我この恨を懐て煩悶後に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。初めて知る大なる悲観は大なる樂観に一致するを。


青天の霹靂の如く莊嚴剴切なるこの大文字は一世の魂をゆりうごかした。賞時私は阿部次郎、安倍能成、藤原正三君の如き長友と往來して、常に人生問題になやんでゐたところから他の者から自殺でもしかねまじく思はれてるた。事實藤村君は先駆者としてその華嚴の最後は我々憧れの目標であつた。巖頭之感は今でも忘れないが當時これを讀んで涕泣したこと幾度であつたか知れない。友達が私の居を悲鳴窟と呼んだのもその時である。死以外に安住の世界がないことを知りながらも自殺しないのは眞面目さが足りないからである、男氣が足りないからである、「神は愛なり」といふ、人間に自殺の特権が與へられてゐることがその證據であるとまで厭世的な考へ方をしたものである。」

岩波茂雄の遺文「思ひ出の野尻湖」)


 この後岩波は一高の寮を飛び出して野尻湖の小屋に隠遁する。学業を廃して自殺するのではないかと母親が岩波を探したのだった。彼は友人藤村操の死と同時に自らの二度目の留年、失恋に苦しんでの隠遁だった。


 岩波茂雄の書いた藤村操18歳というのは数え年で、現代の数え方だと満16歳である。

一高生の自殺、それは外野から見れば「エリート学生の自殺」として、国家に約束された有望な将来を断ち切ってまで自殺することへの驚愕だったに違いない。

 しかし岩波やその仲間たち、阿部次郎や安倍能成、林久男らの言動や述懐を見ても、彼ら一高生の悩みは、その約束されたレールに乗って立身出世する事、国家のために滅私奉公する事への疑問だった。

岩波茂雄に先立って、藤村操の行動に反応したのは林久男だった。安倍能成の『岩波茂雄伝』にはその一部始終が書かれている。


しかし岩波の先を越したのは、同じ信州人の林久男であつた。彼は學校にも出ず、遂に寮を出て、一人で雑司ケ谷の畑の中の一軒屋にこもり、雲雀鳴く晩春(明治三十六年)、麥の色濃い季節に、晝も戸を閉めて悶えて居た。それを慰問する為に、同じ悲しみを持つ岩波が渡邊得男と一緒にそこへいつた。(中略)ところが林の様子はだんだん昂進して發狂か自殺かといる所までになつたので、今度は岩波の方が専ら心配して、當時一高の教授だつた桑木蔵翼、精神病の秀三博士に相談し、信頼する先生に預けたらよからうといふ勧告に従ひ、當時長野の高等女學校長で有名な数育者だつた渡邉敏に相談することになり、岩波と渡邊は即刻長野に行って、渡邊に乞うて上京してもらひ、一言も訓兪も説法もせず、林を連れて信州へゆき、林は間もなく平生に復した。

 

 藤村操や岩波茂雄を一高で教えていたのは夏目漱石・桑木嚴翼をはじめ明治に帝国大学を卒業した先輩達である。明治の彼らの「身を立て名を挙げ、やよ励めよ」の世代とは隔絶する、個人主義への萌芽が大正に活躍する岩波茂雄や阿部次郎、安倍能成らの考えなのだろう。

 それは現代ならば「勝ち組」に属するが故にその存在感を疑問視してしまう「贅沢な悩み」に違いない。そして悩みながらも、結局は勝ち組から外れる事なく研究者になったり、官吏になっていく、底辺の人々から見れば、ただのブルジョワジーの気紛れにしか見えない。
 京都大学竹内洋(教育社会学)は著書『日本の近代12』(中央公論新社)の中で,こうした彼らのことを「学歴貴族」と呼んでいる。そして彼らが帝大を卒業し,各大学での講座を獲得しながら,創業した学窓の友岩波茂雄岩波書店から岩波文庫の翻訳本や哲学叢書を刊行して世の旧制高校生の教養主義を維持させた現象を「岩波文化」と称している。


 しかし漱石や鷗外といった前の世代の人々が、藤村操や岩波茂雄たちの思いを全く理解しなかった訳ではない。国家や立身出世に潰される個人については、鷗外は『舞姫』(1890年)で書いている。鷗外自身が国家と家の為に個を捨て、陸軍軍医総監に登り詰める道を進まざるを得なかった。鷗外は諦念の人である。

 一方漱石は藤村操の件だけではないが、様々な教員生活の煩しさ、つまり国立教育機関でエリートを育てる事が神経症に結びついて癇癪持ちになった。それを治療する目的で小説を書きはじめた。漱石は英文学を日本人が研究する意味に違和感を感じていた。舶来主義の時代に、それで日本がどうなるのか憂いていたのである。

 ただ彼らは藤村操のように、個の存在理由を見出すために死を以て人生の安住を図るようなロマン主義的感覚はなかったと思う。これは藤村操や岩波茂雄らの時代はニーチェ個人主義が流行したからだろう。同級生の阿部次郎は後に東北大学ニーチェを紹介するが、明治期では個人主義と言っても国家・家族が個人に常に結びついていたものだったが、その呪縛から、ニーチェのそれはキリスト教の重圧から解放されたアポロン的なものだった。だが、こうした個人主義が、当時の大日本帝国の社会一般で尊重される訳はなく、一高の若者たちは悶々と悩み、個人主義の解放の境地は死だ、と安易に夢想してしまうのだった。藤村操はこうした当時の「一高生」の苦悶を一気に爆発させた極端な例だと言える。そしてロマン主義に傾く旧制高校生たちはこの親友に涙し、英雄視し、憧憬したのだった。

 その想い悩みが積み重なって、阿部次郎は11年後の1914年に『三太郎の日記』を刊行し、大正・昭和の旧制高校生徒に読まれ継がれたのだった。『三太郎の日記』は今の若者が読んだらおそらく理解不能な、不可解に富んだナルシズム的文章としてしか見ないだろう。「ヘルメノフの言葉」、「本当の俺の名前は瀬川菊之丞だ。」など噴飯ものの表現もあろう。これが感傷的な慟哭として理解されるには、現代社会が余りにも合目的的志向で動いているのを糾弾・阻止しなければ不可能である。

俺の心は慟哭せむが爲に鏡に向ふ累(かさね)である。鏡中の姿を怖るるが故に再度三度重ねて鏡を手にする累である。反省も批評も自覺も凡て病である。中毒である。Sucht である。
散漫、不純、放蕩、薄弱、顛倒、狂亂、痴呆——其他總ての惡名は皆俺の異名である。從つて俺は地獄に在つて天國を望む者の憧憬を以つて蕪雜と純潔と貞操と本能とを崇拜する。嗚呼俺は男と大人との名に疲れた。女になりたい。子供になりたい。兎に角俺は俺でないものになりたい。——

(阿部次郎『三太郎の日記』より)

 

 教養主義旧制高校生のバイブルはこの『三太郎の日記』と『若きヴェルテルの悩み』だったという。『ヴェルテル』が好んで読まれたのには合点がいく。ゲーテのこの初期作品はまさに Sturm und Drang(疾風怒濤)時代の代表作であり,大変感傷的な部分もある。例えばロッテとヴェルテルが夕日に向かって語る「クロップシュトック」の場面。クロップシュトックと言うだけで涙がこぼれる感傷的な気持ちというのは,藤村操の遺書を読んで泣き崩れる文芸部の生徒のそれと同じではないだろうか。

 岩波茂雄は藤村事件体験後の隠遁生活で,幾度も「神は愛なり」と叫んだそうだ。しかしこの「神」はキリスト教の神を指しているのではなく,自分が信じる自分の「神」なのだそうだ。当時の彼にとっては「神」という言葉の背景にある学術的な,あるいは社会一般的な語義などどうでもよいのであって,単にこみ上げる感情が着地する場所,それが彼の理解する「神」の語義なのだ。

 感傷的で個人的で内向的なもの,それが大正時代のエリートたちが大切に持ち続けていた「こころ」だったのだ。