Karfreitagsvergebung (聖金曜日の赦し) —— 映画「オッペンハイマー」の簡易分析

聖金曜日の映画】
 2024年3月29日はKarfreitag(聖金曜日)、カトリック教会では磔刑に処されたJesus Christusの受難と死を偲ぶ日である。本日のこの憂いに満ちた悲しみを追憶する日に、日本では原子爆弾の父と言われた Oppenheimer の映画が公開初日を迎えた。初日最初のIMAX上映を観て感じたのは,まずこの映画はまさに聖金曜日という追憶の日に相応しい内容だったことだ。それは Robert Oppenheimer という人物を深掘りすることで明らかになる憂いと悩みだけではない。

 この映画の前半は Oppenheimer が原爆開発の任を負うまでの,彼と量子物理学との出会い,研究者としての錬成,そして恋愛&共産主義への傾倒にある。中でも実験物理学から理論物理学へと研究の射程を定めていく過程で,ケンブリッジ留学によって Niels Bohr と,さらに Bohr のすすめでゲッティンゲン大学へ移籍して Max Born, Werner Heisenberg に出会い,彼らの下で博士号を取得する。1920年代から30年代にかけて,量子物理学の発展がめざましいのだが,それは本当に一握りの,だれもが知り合いのようなグループ内でのことだったと思われる。Otto Hahn, Lise Meitner の核分裂の発見を皮切りに,Max Born, Niels Bohr, Werner Heisenberg, Albert Einstein, Friedrich Hund, Carl von Weizsäcker など Oppenheimer にとってはゲッティンゲンで顔馴染みだった同僚,師,仲間だったのだ。それが米独の戦争で別れて原子爆弾の開発を担う皮肉。有事とは言え憂いに満ちた悲しみであり,しかしながらアメリカが先に開発しなければ,ナチスドイツが戦争に勝利するかもしれないという杞憂が常に恐怖となってつきまとう。

 それと同時にアメリカならではの「悪の観点」が Oppenheimer を苦しめる。それは共産主義だ。アメリカは今でも共産主義思想,社会主義,組合,断交など資本主義に対する敵だと決めつけて一顧だにしない。労働者の権利よりも,雇用主のアメリカンドリームの方が大切なのだ。独仏の社会主義君主制や民主主義など全く相容れない。だから Oppenheimer が共産党員ではなくてもそのパーティーに出向いたり,恋人になる精神科医ジーン・タトロック,後に妻になる生物学者のキャサリンはみなパーティーで知り合った共産党員だ。これは日本の社会・共産主義者にも共通していることだが,この思想を造り上げて,広めていったのは実はインテリだ。インテリゲンチャは頭脳で社会主義を理解してユートピアだと考えるからパーティーを開いて団結する。それは知的エリートにとって何も悪意はない。しかし貧富の格差を否定しない資本主義を守ろうとする政治家や企業家にとっては面倒くさい理想主義者たちに他ならない。だからレッドパージに繋がる。(勿論当時はソヴィエトという国家が存在したのでこの国家の,スターリンのスパイになっているのではという危惧は十分ある。)————この,共産主義への傾倒はアメリカ社会では受難の対象に他ならない。 Oppenheimer は受難する。前半生がどっぷりと受難の原因になっているからだ。

 時代と政治に翻弄される量子物理学者たちの憂い,社会・共産主義に目覚めたインテリゲンチャの杞憂,この悲しみに満ちた過去を聴聞会で追憶し答弁する Oppenheimer 。この映画の作り方はまさに Karfreitag に相応しい。ではワーグナーの楽劇 Parsifal のように Karfreitagszauber (聖金曜日の奇跡) は起こるのか?

———— 残念ながら起こらない。傷を負った Amfortas であるかのような Oppenheimer に変わって聖杯の務めを果たす=アメリカの原子力政策を健全に導こうとする Parsifal は現れない。Amfortas の傷も癒えなければ聖槍を齎す者もいない。いるのは傷の癒えない Oppenheimer に替わって政治的野心から聖槍ではなくアメリカに水爆を保持させた Lewis Strauss だった。プリンストンの所長,理事長であり,アメリ原子力委員会の委員長もつとめた Lewis Strauss。このユダヤ人には政治的野望があった。そのためには Oppenheimer は排除せねばならない大きな衝立だった。映画館で鑑賞している内に,この映画は二つの公聴会シーンで組み立てられていることに気づく。一つは Oppenheimer のレッドパージに関する聴聞会。もうひとつは Lewis Strauss の商務長官認定の公聴会。すべてはこれら聴聞会・公聴会での回想,再現ドラマとして過去がカラー映像で蘇る,まるでタイムマシーンに乗っているかのような構成になっている。

 

【3人のユダヤ人】
 この映画の根底にある本当の主張は人の勲は時の政治の手段にしかならないアメリカ政治の醒めた現実だ。その現実の中に人々の誠実さ,野心,慾望,愛情,成功と失敗,嫉妬などあらゆる感情と活動が乗っかって国家という政治の船は操舵している。

 それを明確に暗示するために脚本は原作とは異なり3人の人物を照射対象とする。Robert Oppenheimer, Lewis Strauss, そして Alber Einstein の3人のユダヤ人である。そしてこの映画の最も重要且つ秘密だったシーンが,Lewis Strauss に案内されてプリンストンに初めてやって来た Oppenheimer が庭で佇んでる Einsteinを見つけ,会話をするシーンである。Lewis Strauss は Oppenheimer に Einstein を紹介しようとするが Oppenheimer が「旧知の仲だから紹介は不要だ。」と一人 Einstein の所に近づき話をする。その間何が語られているのか Strauss にはわからない。分からないが, Einstein が険しい顔で去って行くのを観察して, Strauss はOppenheimer に「何か嫌な事を言われたのではないか」と気にするのである。妄想癖があるのか Strauss はそれが自分自身に対する誹謗中傷もあるのではと思い込む。この時プリンストン高等学術研究所所長だった Strauss はこのポストを皮切りに政治家として閣僚までに成り上がるのを目指して傘下の人々をドライヴするのである。そのためには自分のドライヴが及ばない Oppenheimer は目の上の瘤だった。ゆえに戦後は Los Alamos で Oppenheimer と意見を異にした学者たちを上手に利用して Oppenheimer の追い落としを画策するのだ。

 Oppenheimer はアメリカでは怪訝な学問だとして白眼視されていた量子物理学を科学者として大きく育てるために,物理学者のライバルたちと戦いながら軍とタッグを組んで当時必要とされた原爆開発に傾注する。しかしそれは単なる第二次世界大戦の敵国ドイツを下すための兵器開発ではなく,彼に量子物理学を授けてくれたドイツ,ゲッティンゲン大学の研究者たち,中でも Werner Heisenberg へのシニカルな学術的恩返し及びライバルとして先を行く立場になるための努力だったのだ。こうした Oppenheimer の個人的な気持ちとは裏腹に,原爆開発を成功させた彼に寄せられる賛辞,勲章,Strauss が嫉妬するようなアメリカの原子力政策に対する影響力,これが実は全て Oppenheimer 個人の功績への代償ではなくて,1950年代のアメリカ政界が戦後の敵対国ソヴィエト連邦に対抗するための政治的プロパガンダの一手段でしかないことが,プリンストン初日での Einstein との会話でなされているのだ。Einstein は言う「自分は国を捨てた身だ。」しかし Oppenheimer は自分が政治的手段として,ただのピエロとして翻弄されているに過ぎないことが得心出来ていない。だから Einstein は言う。「国を捨てることだ。そうすればわかる。」——国家に対して誠実に愛国心をもってロスアラモスの研究に従事した Oppenheimer にとって,Einstein のアドバイスはあの時点では全く理解出来なかったのだ。奇しくも数千年も国家を持たなかった流浪の民ユダヤ人賢者の言葉といったところだろうか。深読みすれば浮き上がってくる解釈だ。

 この映画の大いなるテーマは「政治と人の慾望・野心」であり,それを3人のユダヤ人で例示している。ユダヤ人は白人社会に重要な関与をしてきたが,しかし肝心なところでは排除される。結果的には,

① Oppenheimer はレッド・パージのあおりをうけて,また Strauss の画策?で原子力委員会から追放され,

②Lewis Strauss はアイゼンハワー政権下の商務長官のポストを公聴会で(J.F.ケネディら3票の否決票によって)拒絶される。

③そして1939年 Einstein はナチス政権下で Otto Hahnが核分裂実験に成功したことで危機感を感じ,ルーズベルト大統領に原爆開発を求める文書に署名をしてアメリカの原爆開発を決定づけたが,彼の物理学はもうピークを過ぎていて,もはや量子物理学を指導する立場にはないと周知されてマンハッタン計画からは外された。

 3人のユダヤ人は皆,彼らの人生で肝心なところでは除されてしまうのである。これが白人社会がユダヤ人を今でも認めない現状であることを想起させるのだ。

アカデミー賞に多部門でオスカーを取った理由の背後にこうしたことがあるならば分からない事はない。

 

【この映画から受け取るもの】
 この映画に「恐ろしい破壊兵器を作ってしまった科学者の悔恨」を求めるのは間違ってはいないが,私にはそれがメインストリームには思えない。むしろそんな恐ろしい人物を創り上げていった,アメリカ政界という恐ろしい歴史,時間軸について関心を寄せるべきではないだろうか。政治は係わっている人々の野心と慾望と画策によって築き上げられるパフォーマンスである。かつてナチスの宣伝大臣 Joseph Goebbels は政治こそ最高の芸術だと称した。私はGoebbels の見解には賛成しかねるが,政治こそ歴史という形の,怨念や野心といった様々な人間の気持ちの塊,思念が織りなす複雑な複合体だと思えてならない。この映画はそれを我々の目の前に提示して,「さぁ,ここからお前は何を受け取るか?」と問題提起されているように思った。