倒錯的デカダンス,実は純愛のカタルシス

映画「聖なる蝶 赤い部屋」(窪田将治 2021) および「愛の嵐」(Il Portiere di notte, Liliana Cavani 1974) がなぜデカダンスを装いながら,本質は厨二病的で純愛のカタルシスを表現していると思えるのか。

 

愛慾は一人の欲望で成立するが、愛は互いの情熱と信頼がないと成立しない。

「愛慾が支配するエロス」は悲壮感の伴うデカダンスだが、「愛が支配するエロス」はどんな時でも幸福感の伴うカタルシスである。

 

官能小説やAVは愛慾を誘うメディアである。それはオナニーの手段として創作され、オナニーする者の性的快楽(アクメ)を達成するために相手を想定して犯す、あるいは相手になり変わって犯される空想ごっこをする。空想ごっこの内容種類は無尽蔵で射精したくてたまらない空想ならばどんな酷いことでも構わない。デカダンスが先鋭的であればあるほど犯罪的エロスを空想する事で射精を達成するようになる。しかしここには相手に対する愛情はないに等しい。サド公爵の作品群,マゾッホの「毛皮を着たビーナス」のマリー,これらの登場人物には被虐者への愛情はない。なぜなら加虐者の一方的な愛慾成就行為でしかないからである。(但し,現実に行われるSMとは全く違う世界である。)

 

一方で「愛の嵐」や「聖なる蝶」で表現されたエロスは、表面的には歪で、グロテスクで、デカダンスのように見えるが、主人公の瑠美もErikaもそれぞれ先生、Maxから逃げ出すことはなく、愛慾ではなく愛情で変態的生活を過ごしている。つまりこの愛慾行為はカップル双方が愛し合っている感情の迸り、生きている活力→生活の表象である。揺るぎない愛情に担保された安定感のある幸福なカタルシスが二人を破滅に導いて行く。これはどんなに悲惨な結末(「愛の嵐」では二人は射殺される。「聖なる蝶」では瑠美は先生に絞殺される。)でも、結ばれた愛の絆を感じあって破滅していく。

 

トリスタンとイゾルデ」第2幕のような密室での不倫。不倫は社会的手枷足枷が外された純愛の遂行を意味する。ラブホテルで逢瀬を重ねる二人の愛慾もそれが純愛であればエロティシズムはセックスの快感を求めている以上に、二人が一つに溶け合ってアクメに達する合体感が性的快楽を最高に味付けしてくれるのである。「ロメオとジュリエット」だって社会的手枷足枷がある事は不倫と変わらない。これらカップルが平気で服毒しようと試みたり、死した相手を見て自分に刃を立てられるのも揺るぎない愛の絆を感じ合っている安定性あればこそだ。

しかし実際にはこんな都合の良い事はないだろう。これは男から見た恋愛ロマンス、頭の中での空想でしかない。男性が求める女性への純愛心理がこれらの映画を支配している。旧態依然のヘテロセクシャリティーからは全く逸脱していない。ゆえにテーマ性としては全く新しくない。見てくれがビザールなだけである。だからこれらの映画には絵面の奇抜さとは裏腹に精神的な安心感すら感じられる。