Mode の記号化について


 Semiotics的観点からは凡ゆる事物が実は実体のないよう以外に記号化された意味を持っている可能性がある事を示唆できる。


 これは永続的、限定的問わず言える。

そこで気がついたのだが男性の Mode (ファッションにおける流行)である。


 昔、アカデミック・ライティングの授業でピエール・カルダンについての論文を取り上げた事がある。(北方晴子「20世紀メンズファッションとピエール・カルダンの功績」https://bunka.repo.nii.ac.jp/records/484)

 

 そこで書かれていた事で興味深かったのが、カルダンは今まで類似した外形しか持たなかったメンズファッション=クラシックスーツの世界に婦人服同様の「デザイン」を持ち込んでメンズファッションにおける既成概念を打ち破り、画期的・革新的な貢献をした人物である事、しかしながらこの出来事は1960年代のみで終焉する事。カルダンは70年代以降はメゾン経営に傾注し、ライセンス経営でカルダン帝国を築いていくと同時に革新的なファッションからは遠のいていく事。ーーここで北方晴子が指摘したのは以下の通りだった。

 

そして,カルダンのメンズファッションのデザイン改革の試みが,1960年代だけで消えてしまったのは,男性の反響が実際のところ,一般化せず「宇宙時代」と呼ばれていた1960年代,男性層に意義ある装いを見出そうという試みよりも,デザイナーたちが創作しただけのものに留まった。しかし一方では,若者に大きくアピール出来たのが衿無しジャケットである。 それもその時代のファッションを代表するというより,ビートルズの人気に負うところが大きいともいえる。そこには,1960年代の若者の 影響力がメンズファッションの概念をも変えたと言える。(北方晴子(2009) p.39)

 

 現代はアパレル業界とマスメディアのWIN-WIN関係の結実か、ファッション業界からのプロパガンダは広く受け入れられている。「今年流行の色は…」とアパレル業界が定め「装苑」誌に発表されれば全国のファッションリーディングを自負する人々、ショップ、メディアは様々な服、アクセサリー、アイテムを紹介する。店舗やネットショップに埋め尽くされたそれらを存分に「楽しむ⁉︎」消費者。という図式が出来ていると思う。


 ところが北方論文によれば60年代のメンズファッションはそうはいかなかった、という事になる。何故か?私はそこに男性が服を着ることについて個性の発揮以上に code (記号化)が読み取られているからではないか、と思う。


 例えば男性が職場に向かう時、職場で制服に着替えなくてはならない場所の多くは、工場、作業場、飲食店、その他警察や消防、自衛隊などの制服が定められている職場だと思われる。所謂営業マンとか、銀行員とか、役所の事務員とか、こう言った男性社員が多く在籍している職場で、女性社員に制服を貸与していても男性社員に服装を細かく指定して私服で出勤させる方が多いのではないか。

 では自由なのか、仮に60年代のカルダンの宇宙ファッションで勤務したらどうなるか?恐らくNGになるだろう。自由だけど、その格好で接客はやるな、と上司に嗜められるかもしれない。何が言いたいかと言えば、メンズファッションには社会的 code が付与されている、という現実だ。


 1990年代から2000年代にかけて、大学生が就活を始めるとお決まりのように濃紺のスーツに濃紺のネクタイ、ワイシャツは白で無地(ストライプは避ける)が定番だった。当時は就職活動に協定があったのでーー春になると電車にこういう格好の若者が増えて、(もうそういうシーズンか。)と思ったものである。この様子は秋前迄続き、キャンパス内で秋以降にこの格好は見かけなくなる。実際には就職が決まっていない学生も、キャンパス内ではリクルートスーツは着ずにどこかで着替えて就活を継続していた。クラスメイトに内定をもらっていない事を悟られたくないのか、自分が惨めになるのか…。濃紺のスーツがもたらす code は大学生の自尊心に大きな影響を与えていた。当然だが、ここで濃紺のスーツではなく茶色や黒のスーツだったらどうなったのか?スーツではなくジャケットだったらどうなのか?受験する側が確証のない冒険をする事はあり得ない。

 濃紺のスーツは今でもあるのだろうか?最近見るのはブラックスーツだ。ただ記事や仕立てを間違えると礼服に見えて、喪服かと思われるからネクタイやワイシャツには気を配っているようだ。このブラックスーツはリクルーターのみならず、今や男性従業員の定番。完全にブラックスーツ=サラリーマンというcode が出来上がっている。上位の者は白いワイシャツにストライプが入るが、下位の者は上司を越えるような僭越な服装は後々自分の昇進に関わるから、なるべく無難なファッションを選択する。

 社員バッジが必須の会社は上着のフラワーホールにバッジをつけているが、そういう規程のない社員で、「自分は社会参加に先進的だ」と表明している者はSDGsバッジをそこにつけている。これもある種のcode である。


 ファッションというのは流行が起きる現象だが、その流行は時代を代表する code にもなる。カジュアルでもベルボトムジーンズは1970年代に大流行した。小学生高学年から中学生だった自分にとって、少年期から青年期へと自我が目覚める時のファッションがコレだった。というか、親に衣料品店で服を買ってもらうにもカジュアルルックは100%ジーンズ(当時ブルージーンズ以外の色はあり得ない)、そして棚にあるジーンズはほぼベルボトムな訳で、流行というが選択肢のない流行の強制に近かった。しかし当時はその一択が「カッコいい」と思われていた洗脳下にあったから、誰もそれを疑う事はなかった。


 私服以外では男子中学生は大抵制服だった。詰襟かブレザー。詰襟は金ボタンをつける陸軍式の制服か、黒ではなく濃紺で前をホックで留める海軍式のどちらか。ただしこの服装は海軍でも士官の格好。19世紀の欧州では男子制服でも海軍兵卒の着用するセーラー服があったが、日本では女子学生の制服という code が付加されたので、実際にセーラー服を社会的地位の表明として着ている男性は海上自衛隊教育隊の生徒以外はいない。まぁコレも code ですね。男の子がセーラー服着てたら(勿論下はズボンであっても)違和感を覚える周囲は必須でしょうし、大体そういう洋服自体を見つけるのに苦労するのではないか。


 話を元に戻すが、接客や営業など人と接する職業で、制服が支給されていない職場で男性が個性を魅せるファッションを追求するのは至難の業なのだ。  

 まず接客という立場上、顧客からクレームがついたり顧客を不安にさせる服装は避けなければならない。

 次に上下関係。上司よりも質の高いものを身につける事はリスキーだ。メガネ、時計、筆記具、ハンカチーフなど日本はブランド品が容易に手に入る国。宣伝もどこかしこで見られる。セレブでなくても若者がそういう物に憧れるのは当然だろう。だからと言って、Tudor の時計をしている上司に対してプレゼンする部下の若僧が(それが例え親から貰った物だとしても)左腕にRolex をしていたらマズイのは察しがつくであろう。同じように革靴もリーガルやスコッチグレイン止まりならまだ良いが、ここで新入社員が Alden を履いていたら…。年相応の装いと言うよりも、序列を意識した装いを余儀なくされる。

 ホテルマンはエントランスに来る客の足下を眺めて品定めすると言われる。これはどんな靴を履いているかでチップの弾み方、金離れの良さが分かるという意味。銀行員も同じ事をする。融資が焦げ付かないかは相手の生活レベルでわかるという考えから。これに対応するのも男性ファッションの場合はcode だ。

 劇場やコンサートホールに集うにはドレスコードが必要か?例えばベルリン・フィルハーモニーホールのホームページを覗くと、そこにはドレスコードはありません、と明記してある。確かにコンサート風景を見ると、金管セクションの後ろの一番安い席にはジーンズ姿の軽装の人々が多く見られる。ところが高いチケットの席にはそういう服装の人は稀でタキシードまではいかなくてもそれ相応の出立ちだ。これも文化的な code だ。

 NYブロードウェイでミュージカルが初演される時、観客はタキシードとドレスが不文律。これもcode 。


 こうやってまとめてみると、男性の私服以外の装いに関して、 prêt-à-porter (プレタポルテ<ready to wear : 既成服)の場合はスーツとタキシード以外に選択肢がない事がわかる。