Hans Werner Henze "Gogo no Eikou"(Das verratene Meer) と三島由紀夫の『午後の曳航』

0.はじめに

Hans Werner Henze は20世紀〜21世紀にかけてコンテンポラリー作曲家として名を馳せている。1980年代後半に彼は三島由紀夫『午後の曳航』を題材にオペラを作曲した。今回,このオペラの改訂版,ドイツ語版の日本初演が2023年11月23日,日比谷の日生劇場で上演された。以下はその所感と考察である。

 



1.家父長制度と戦後の父親ープロイセン的父像への疑念と破壊

三島由紀夫の原作にはこんな下りがある。

 

正しい父親なんてものはありえない。なぜつて、父親といふ役割そのものが悪の形だからさ。奴らは僕たちの人生の行く手に立ちふさがつて、自分の劣等感だの、叶えられなかつた望みだの、怨恨だの、理想だの、自分が一生たうとう人に言へなかった負け目だの、罪だの、甘つたるい夢だの、自分がたうとう従う勇気のなかつた戒律だの、……さういふ莫迦々々しいものを何もかも、息子に押しつけてやらうと身構へてゐる。

父親はこの世界の蝿なんだ。あいつらはじつと狙つてゐて、僕たちの腐敗につけ込むんだ。あいつらは僕たちの母親と交つたことを、世界中にふれ廻る汚ならしい蝿だ。

 

登たち多感な13歳がなぜ父親をこのような非難の矛先にするのかといえば,この年代特有の自我同一性の確立への発達課題に直面しているからであろう。

娘のエレクトラ・コンプレックスに対するエディプス・コンプレックスを三島は描いた。そして「14歳までの法的無罪措置」を自分達に与えられた英雄としての力だと理解し、英雄になれなかった大人=竜二の殺害を企画する。

登にとって初めて会った時の竜二は英雄だった。英雄とは登が憧れる男の姿,理想の偶像である。この存在はかつてプロイセン的父親,日本の家父長制の反映ともいえまいか。『午後の曳航』は戦後進駐軍が帰った直後の話である。戦前の家父長制が敗戦と共に音を立てて崩れ始める。彼は,身を立て名を挙げやよ励みつつ,国家には滅私奉公する戦前の父親の神々しい主人の姿から,民主主義で急に変節した日和見主義的行動を実見して,英雄だった父親は実は最低の人間だと貶めた登の仲間「1号」のような少年たちに感化されている。
実はドイツでもこの思潮は同じだった。戦地に赴いた父親が帰ってくる。しかしその父親は嘗ての,ヒトラーを熱く支持する国家主義者の,世界に立つドイツを背負った父親ではなかった。疲れ果て,何事にも関心を失った,心ここにあらずの哀れな男にしか見えなかった。そんな父親を見たドイツの少年たちはプロイセン的父親像を否定することで自分たちの失った偶像のアイデンティティを補完しようとする。

二つの敗戦国では父親はいまや存在を打ち消された生ける屍だったのである。

ただし三島の用意したこの時代の反映を,オペラ作者のヘンツェは意欲的に導入していない。ヘンツェは登の語る英雄としての竜二や,英雄ではなくなっていく竜二について登たちのグループで語らせるが,父親についての評価は筋の進行上必要なものだけリブレットにしているように感じる。この部分はヘンツェは原作を十分に考慮していないのかもしれない,というか1926年生まれのヘンツェの青少年期はまさにナチスの時代であった。熱狂的なヒトラー信者であった父親,大好きな芸術が制限される社会へのショック,1号たちのように理想を保持するための「猫殺し」のようなガス抜きをしようにもHJというプライベートのない監視社会で生活していたヘンツェの自分を明かさない用意周到な自己防衛本能が無意識に現れているのかもしれない。

 

2.ヘンツェ版の "Das verratene Meer" または「午後の曳航」について

ヘンツェのオペラには二つのバージョンがある。
初稿は ""Das verratene Meer"(裏切られた海)というタイトルで 1990年ベルリン・ドイツ・オペラにて Götz Friedrich の演出で初演されている。
2003年に日本でセミステージ形式上演が企画され,その際改訂と歌詞をドイツ語から日本語に訳された版が完成した。この改訂版は2006年ザルツブルク音楽祭にて日本語台本のままで初演されている。今回の版は改訂版だが、リブレットはオリジナルのドイツ語である。これは2020年にウィーン国立歌劇場で上演することになり,ドイツ語に戻されたのである。
ドイツ語のリブレットを書いたのは作家のHans-Ulrich Treichel(1952ー)で、この作家は Der Verlorene(失われた者)という第二次世界大戦で家族を失った両親をテーマに自身の幼少時代を反映した作品で有名になった。
Treichel(トライヒェル)のリブレットは思ったよりも三島の原作に忠実だった。ただ、原作にはなくオペラの台詞として印象的だったのは、房子の

Aber wer schön ist, der bleibt nur,
solang man ihn ansieht, schön,
美しさを保っているのは
誰かに見られているから


これは当然房子は登が穴から自分を見ていると思って言っている訳ではない。たった33歳で寡婦となってしまった房子の,女としての寂しさが反映されているのだろう。三島の原作にはコレとは違うが,

登は母が眠る前に,まだ寝苦しいほどの暑さではないのに,一度すつかり裸かになる癖があるのを知つた。姿見は部屋の見えない一隅にあつたので,裸かの母があまり姿見に近寄りすぎると,覗くのにひどく難儀をした。

 

という文がある。母親は自分の裸体を毎日観察しているのだ。それは一種のナルシズムかもしれない。若いのに女を我慢して,母としてのみ生きる自分が唯一女を解放する時間,それが就寝前の裸体なのかも知れ得ない。ヘンツェのオペラではこれが自室の内省的独白を越境して,「見られている」と他者を意識する告白,あるいは(見られたい)という房子の願望に変えている。リブレットでは房子の「女である部分」を告白させている。

 

Seit du tot bist,
ist es still in mir.
Mein Leib ist ein Stein,
der zwischen Steinen liegt.
Ich bin ein Garten,
unter Schnee verborgen.

あなたが亡くなって,
私の中で全てが止まっています。
私の体は隣同士囲まれあった,
煉瓦のよう。
雪の下に隠されている,
お庭が今の私だわ

Wenn das Mondlicht den Schnee berührt,
dann beginnen die Steine
von der Liebe zu träumen.

月の光が雪に触れれば,
煉瓦はみな
恋を夢見る

 

新左翼の信奉者でホモセクシュアルのヘンツェにとって,この三島作品に興味を抱くとすれば,やはりホモセクシャル的な場面であろう。この作品にとってヘンツェが興味を引きそうなのは,登が竜二を英雄と憧れる箇所,そして登とその仲間が群れる場面だろう。

Treichel のリブレットは登の性的興奮をかなり肉感的に伝えている。第一場で登が房子の部屋を覗くときの登の台詞

 

Wie schön sie ist ... ihre Brüste ... ihr Bauch ... in ihren Achseln ... Schweiß... auf ihrer Brust ... so weiß ... sie atmet tief ... ihre Haut ... 

何て綺麗なママ,... ママの乳房 ... ママの下半身 ... ママの肩に…汗が…ママの乳房に流れていく…なんて白いんだ…ママはゆっくり息を吸う…ママの肌…

 

同じような肉感的な台詞をTreichel の筆は竜二と房子の濡れ場の後,休んでいる2人の寝室に忍び込む登に言わせる。

 

Ah, in meinem Armen ... die ganze Welt, meine Augen, ich schau dem Seeman direkt ins Gesicht ... vollkommen ... die Welt ist vollkommen ... ich habe dem Seeman direkt in die Augen gesehen ... er gehört mir ... die Nacht gehört mir.

ああ,僕の腕の中に,全世界を,僕の目は,僕はあの船乗りの顔を直接見てやろう。…完全だ…世界は完全になった。僕はあの船乗りをこの目で直に見たんだ。あの人は僕のもの。この夜は僕のものなんだ。


三島の原作では,竜二,房子,登の3人の心理はどれも等価値に描写されている。しかしヘンツェのオペラでは登の心理が他の二人の描写よりも多く描かれている。房子に到っては第2幕冬 第13場のみソロで心情を歌唱するだけで,他は筋書き通りの進行を歌うのみ。明らかに房子の女心はヘンツェの興味ではなかったのだろう。

 



3.1963年の厨二病

『午後の曳航』はまだ「厨二病」という言葉が存在しなかった時代に三島由紀夫が書いた、大人になる事を拒否する厨二病から覚めない少年たちによる、理想世界を破壊する者への処罰行為の物語である。
これをなぜHenzeがオペラにしようと取り上げたのか、そして欧州で好評を以て上演されているのか?三島由紀夫という作家のネームバリューだけでは納得できない疑問がある。
そして私自身が大変不思議に思うのが,現代の日本人だったら手短に「こりゃ厨二病でしょ。」で済む話だが,そんなスラングや日本の青少年の文化など知らない欧米人が,この若者の理想を追い求めすぎるが故に大人になることを拒否し,理想から外れた竜二に罰を下す実行力,——例の酒鬼薔薇事件を連想できる,否当時は少年Aこそ『午後の曳航』を実行したのだと言われたものだ。——になぜ魅力と興味を感じているのかということだ。欧米的に言えばバリーの『ピーターパン』が連想されるような物語である。
三島がこの小説を発表した1963年は60年安保闘争終結し,全学連・ブント全学連が敗北と総括して分裂し,一時下火になった時期である。このあと全共闘学生運動の主導権を握っていく。社会思潮としては学生運動は一時白けた時期,それがこの『午後の曳航』の生まれた背景にある。当時若者の大学進学率はたったの10%しかない。当時学生運動の中核にいた者たちが,警察に厳しく取り締まられず,多くが無罪になったのは,彼らが将来日本社会を牽引する幹部候補生だったからに他ならない。(残りの90%は既に社会人として日本社会の歯車に組み込まれているのだ。この90%の上に将来君臨するのが彼ら10%の存在なのだ。この差別化を,後世の今学生運動について論じる若い世代は十分考慮に入れなければならない。そうでなければ理解出来ない現象が沢山あるはずだ。)
このエリートの若者たちの青春の爆発が学生運動だとしたら,登とその仲間たち——概して小柄で繊弱な13歳ではあるが,みんな知的には優秀で,学校の先生すら彼らを推賞する,横浜のお坊ちゃんたち——の行為も,この大学生と同じ目線で描かれた,特権階級の青春の爆発で収斂されるに違いない。三島は登たちの闘争活動を「猫殺し」で再現した。バリケードを築いて校舎を占拠し,屋上からコンクリートを投げつけて機動隊を駆逐しようとした行為の代替として。特権階級の知的エリートの社会への反逆行為として。

『僕は殺したぞ』『僕はどんなひどいことだってやれるんだ』

オペラにおいてはこの青春の爆発が若者たちの集会で再現される。原作では壁に書かれた落書き「山下公園で逢いましょう」「若者よ,恋をしよう!」「忘れろ,女なんかは」etc. はオペラでは1号らの台詞が落書きされる Mein Vater (俺の父親), unmöglich(不可能) など。1号から5号までの5人は詰襟の学生服の下に赤,黄,緑のシャツを着ている。学生服の上着はボタンを留めずにジャケットのように開けてある。とても13歳には見えない。1980年代の校内暴力で目にした不良高校生のようだ。
3号の登は白い学生服のシャツに黒い制服のズボン。まだ他の生徒のように不良学生になりきれていない出で立ちだ。——お坊ちゃまがワルになること——まさに厨二病の憧れを演出の宮本亞門は舞台上で見せてくれている。 

猫を殺すシーンはオペラでは登の行為する所で終わる。三島のテキストにあるような,殺した後のセリフはない。


この物語では登のグループの首領である1号こそ最も重篤厨二病に罹患していて,彼のリーダーシップでこのグループはどんな悪行をもこなせるのだ。オペラでは猫殺しは集合場所で行われていたが,原作では1号の自宅で行われる。その際に1号の豪奢な自宅が閑散として寂しく描かれている。この寂しさが1号のニヒリズムを育てたと予想できる描写がある。

世界の圧倒的な虚しさに関する彼の考察は,このがらんどうな家のおかげで養はれたふしがあつた。こんなにどこでも出入り自由で,こんなにどの部屋も冷たく片附いてゐる家はめづらしい。


登場人物の主人公は登だが,この作品に流れる少年たちの「無感情を養う態度」は1号の思想そのものであり,テーマを探るのであれば1号の思想にスポットライトを当てることが鍵となる。彼こそ厨二病による行為を肯定する強い意志の持ち主だからだ。

これが最後の機会なんだ。このチャンスをのがしたら,僕たちは人間の自由が命ずる最上のこと,世界の虚無を塡めるためにぜひとも必要なことを,自分の命と引換へる覚悟がなければ出来なくなつてしまふんだ。
今を失つたら,僕たちはもう一生,盗みも殺人も,人間の自由を証明する行為は何一つ出来なくなつてしまふんだ。……鼠の一生を送るやうになるんだ。それから結婚して,子どもを作つて,世の中でいちばん醜悪な父親といふものになるんだよ。

このような考えかたを持ち続け,ネバーランドに居住し目覚めることを拒否する少年たち。それを厨二病現代社会が呼ぶのならば,私の知っているある人はこの病についてこんな見解を示している。

もしこの世に厨二病という病が本当にあるとすれば、それは「暗くて過激」な世界を愛好している気でいて、実はそれが持つ優しさに赤ん坊の如くあやされていることにいつまでも気付けないことだ。

そうだ,1号は家庭の寂しさのあまりに暗く過激な世界で癒やされる少年になっている。そしてそれにあやされているだけで,自分自身の発達課題を克服するのを先延ばしにしているだけに過ぎないことには気づいていない。だから1号はこう続ける。

血が必要なんだ!人間の血が!さうしなくちや,この空つぽの世界は蒼ざめて枯れ果ててしまふんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を搾り取つて,死にかけてゐる宇宙,死にかけてゐる空,死にかけてゐる森,死にかけてゐる大地に輸血してやらなくちやいけないんだ。

13歳という年齢が法律上彼らを特権階級にする。彼らはその特権を塚崎竜二の殺害において行使するのである。1963年の大学生はそのエリート性から,社会や警察から許された。しかし登たちはそんなお目こぼしではなく,積極的に特権を行使できる優越性を意識している。
オペラではこの部分は十分に表現されていない。オペラのリブレットにあるのは,

 

Jeder von uns ist ein vollkommenes Wesen.
Aber die welt, in der wir leben, ist leer. 
僕たちはだれもがみんな完全な存在だ。
でも僕たちの住む世界は空っぽなんだ。

Aber Ryuji Tsukazaki ist nur ein Symbol ...
Ganz recht! Und wenn ein Symbol nichts mehr bedeutet, dann ist es leer und tot.
Der Seeman hängt schon längst an einem Baum.
でも塚崎竜二はただのシンボルに過ぎない…
そうだ!そしてシンボルがもはや意味を成さなくなったら,
それは空虚で死んでいるんだ。
船乗りはもう長いこと木に首を吊っている状態なんだ。

 

法的に罪に問われないからこそ,今の時期に処刑を執行しなければならない,という三島の敷いた完全自由で不道徳なレールをヘンツェは十分に理解していたのだろうか。単なる少年犯罪としか見ていない。
この部分は演出家が如何に三島の原作を読んで理解したかにかかっている。2020年のウィーン国立歌劇場上演で演出を担当した Jossi Wieler と Sergio Morabito の発言では彼らは13歳の子どもたちについては原作を読み理解しているが,彼らが演出として全面に出したいのは3人のメインキャストそれぞれが抱く Alptraum(悪夢)と Traum(夢)の交錯を如何にヘンツェの音楽がドラマティックに,且つ耽美的に語っているかのようである。ヘンツェのこのオペラはヴァーグナーR.シュトラウスによって構築された Musikdrama的 オペラの延長戦上にあるとしている。所謂 recitativo でも Singspiel でもない,音楽と台詞が途切れることなくドラマを導いていく Musikdrama であることを演出家は特に意識し,場と場の間に演奏される Zwischenspiel(間奏) に注目している。
いずれにせよ,西洋人には子どもによる大犯罪という事実に至るまでの3人の登場人物の愛憎劇だと基本的には捉えているようだ。房子と竜二の愛の物語を破壊しようとする登たち子ども。これが単なる母親を盗られる13歳の少年の抱く多感な衝動的感情だと短絡的に読まれても致し方ないことなのかも知れない。三島の筆致はそれを「美」で補っていると思われている節がある。ただし,このオペラの演出で三島が強く意識しているような「日本の美意識」を全面に出したものはないと思う。これは日本人の演出家でないと気づけないことも多いだろうし,西洋人には「東洋の神秘」程度のスパイスにしか思われないだろう。

 

4.三島とヘンツェのホモセクシュアリティ

プログラムによれば、ヘンツェは昔来日した時に勧められて三島の芝居を見たそうで、その印象から「午後の曳航」をオペラにしたらしい。三島のホモセクシャル的な匂いをヘンツェ自身が作品から嗅ぎ分けたようだ。

演出なのか作品そのものに付随しているのか判別できなかったが、最初の母と竜二の濡れ場の後、眠っている竜二に登が抱きつこうとするシーン、そして竜二が戯言で登を襲うシーンがある。このホモセクシャルな雰囲気はヘンツェの筆なのか宮本亜門の演出なのか,リブレットを見る限りト書きにはそのような記述はないことを確認したので,これは宮本亞門の演出だと思われる。また,登が事を終えた竜二と房子の寝室に忍び込むこと自体がリブレットには書かれていない。三島の小説通りに,登は覗いているだけである。

 竜二と房子のベッドシーンを覗く登は、小説でも興奮するがそこでオペラのように、竜二を自分に重ねて

 

Er gehört mir.
彼は僕のものだ。

 

と言う部分はない。ヘンツェが竜二に登を一体化させて母親を犯すエディプス・コンプレックスの成就はヘンツェの独自の解釈だろう。ただ,ヘンツェ的には,登の自分自身を仮託した竜二が33歳の美しい寡婦であり母である房子を愛欲で犯すことよりも,登自身が竜二と一体化しているその意識が登の興奮の源泉であるように描写している感がある。

 

Ah, in meinem Armen ... die ganze Welt, meine Augen, ich schau dem Seeman direkt ins Gesicht ... vollkommen ... die Welt ist vollkommen ...in meiner Brust ... nichts ... nicht mal in meinen Träumen, nicht einmal im tiefsten Dunkel kann ich weinen ... mir ist heiß ... ich habe dem Seeman direkt in die Augen gesehen ... er gehört mir ... die Nacht gehört mir.

ああ,僕の腕の中に,全世界を,僕の目は,僕はあの船乗りの顔を直接見てやろう。…完全だ…世界は完全になった。僕の胸の中には…何もない…僕の夢ですら,一番深い暗闇の中ですら僕は泣くことが出来ない…暑くてたまらない…僕はあの船乗りをこの目で直に見たんだ。あの人は僕のもの。この夜は僕のものなんだ。

 

女を犯すのは海を征服するのと同じで英雄になるための通過儀礼にしか過ぎない。房子をものにすることの行為は竜二にとっては大切な愛の爆発なのだが,登にはそれは結果論でしかなく,この結果を経た英雄の誕生が問題なのである。そしてそれと自分自身が一体化することによる虚構の自己実現,ここに精神的なホモセクシャリティーが見られる。

 

三島の原作ではこの部分は登の,セックスという男女の関係,絆を神聖視する表現に満ちている。13歳が初めて生で見た性行為への興奮と憧憬である。

 

…登は,息苦しさと,汗と,恍惚のために,気を失わんばかりだつた。自分は今,たしかに目の前に,一連の糸が結ぼおれて,神聖なかたちを描くところをみたと思つた。それを壊してはならない。もしかするとそれは,十三歳の少年の自分が創り出したものかもしれないから。


登と1号たちのグループも,一種のホモソーシャル世界を見て取れる。あたかもヴァーグナーパルジファル」における聖杯城の騎士たちの社会のように。すべてが男だけで構成され,その目指す所は英雄になるという超理想社会。三島のホモセクシャリティーはストイックで精神的で,肉体的な鍛錬を欠かせないが,それは肉欲的ではない。肉欲的ではない現れは本文での1号の行動でよくわかる。

彼はすでに,性的な事柄については何もおどろかない修練を積んでゐた。…どこで手に入れたのか,彼はあらゆる性的体位や奇怪な前技の写真を持つてきて,みんなに詳しく説明し,そんなことがいかに無意味なつまらないことであるかを,懇ろに教へてくれたのだ。

彼は自分たちの生殖器は,銀河系宇宙と性交するために備はつてゐるのだと主張してゐた。……彼らはかういふ神聖な譫言にうつつを抜かし,同年の,性的好奇心でいつぱいな愚かな不潔なみじめつたらしい少年たちを軽蔑してゐた。


三島のホモセクシャリティーは Ernst Röhm 率いるナチス突撃隊とは全く違うのだ。例えば三島は『我が友ヒットラー』で突撃隊の粛正にいたるヒトラーの心理と決断を描いたと思うのだが,これは肉体的な男性同士の性交に耽って,ギリシア的精神性を重んじるホモセクシャリティーを軽んじて忘れている,英雄を貶めた Ernst Röhm への処罰,三島の抱くホモセクシュアリズムを破壊する堕落した「男色文化」を殲滅し崇高な「男だけの社会」の存在を強く求める主張ではなかったか,と思う。

今はありありと見える。目かくしをした顔が急にのけぞる。弓なりに。……これでおしまひだ。これであいつらの兵隊ごつこも,口先だけの義侠義血も,旗日ごとの人もなげな行進も,ビアホールでの放歌高吟も,古くさい野武士気取も,ノスタルジヤも,感傷的な戦友愛もおしまひだ。……親衛隊の銃弾,やつらの子どもつぽひ革命の夢の,金モールで飾り立てた胸もとを,穴だらけにしてしまつたからだ。……これでどんな革命ごつこもおしまひだ。

『午後の曳航』は『わが友ヒットラー』の5年前の作品だが,三島は既に独自のホモソーシャルを展開する作品を上梓していた。彼のホモセクシャリティー的愛としてのエロス(これはプラトンの『饗宴』で展開される意味での ἔρως )と死は彼の日本という国を体現する天皇への大義のための構成要素=歯車であり,大義に報いるための自決を「美」と考える。ここに異性の入る余地はない。三島は竜二にもこれを意識させる。

男は大義へ赴き,女はあとに残される

大義に赴くからこそ,英雄が生まれる。この大義を全うするためには肉体を鍛錬し,死を恐れずに,精神は同じ志を持つ者と崇高な愛によって結ばれている。こうした三島の思想を同じホモセクシャリティーを抱くヘンツェはどう考えたか,憧れたか,それとも違和感を感じたか,オペラの筋書きからでは判断できない。ただヘンツェの私生活におけるホモセクシャリティーは三島の理想とするものとは全く違っていたようだ。ヘンツェにはパートナーがいて,そのパートナーと男女のカップルと同じように同棲生活を送っていた。三島のような精神性を最重要とするものではない。ヘンツェが登と竜二のふたりの関係で見せる恋人のような所作,これこそがおそらくヘンツェの体験している実在するホモセクシャリティーなのだろう。ただしその所作も演出家の解釈によって,単なる少年が憧れの船乗りと交わる親密なコミュニケーション程度にぼかすことも可能だ。

 

5.登は厨二病だったのか?

オペラの最後、ロープで縛られた竜二に登がナイフを振り落とそうとするシーン。
テクスト自体の最後は

竜二はなほ,夢想に涵(ひた)りながら,熱からぬ紅茶を,ぞんざいに一息に飲んだ。飲んでから,ひどく苦かったやうな気がした。誰も知るやうに,栄光の味は苦い。

と結ばれて,竜二がその後どうなったかは書かれていない。
オペラでは竜二をロープで縛るよう一号が指示して竜二は縛られながら,薬が効いているのか体中を震わせる。そこへ次なる指令が飛んで,登がナイフを一号から受け取り振り上げるが,なかなか振り下ろさず、躊躇するうちに舞台は暗くなって終わる。
三島の創作ノートには「薬」と題打って,眠り薬の服用による体の異常作用について細かく記述を試みている。

痙攣,顔色,嘔気,出血させた場合の出血状況,寒さと痛み,汗,失禁,喉の渇きなど。「独乙製のパラミン,定量1ー3錠,20分位ゐで,コロリ。きく瞬間が分かる。八錠ー十錠。」

とある。
パラミンとは正式名称をp-フェニレンジアミンという劇薬。1863年にドイツで発見された。第一種指定化学物質,用途は染料原料,ゴム添加剤,写真・印刷剤等である。酸化すると発色する薬剤で,ヘアカラーにも用いられるが,皮膚炎,アレルギーの副反応もあり,死亡例さえある劇薬。(日本では今でもこれをヘアカラーに使っている!)三島はこの劇薬を紅茶に入れようと考えたらしい。眠り薬ではない。そしてこの薬でショックを起こしている最中に皮膚を切り裂き,悪寒で痛みが麻痺している状態で竜二の心臓をナイフでとどめを刺させようと考えていたようだ。
宮本亞門はおそらくこの創作ノートを読んでいるのだろう,最後の震える竜二はまさにパラミンを飲まされて悪寒と震えにもだえる演技がなされている。なぜならヘンツェのスコアに書かれているのは以下のト書きだけであるから。

 

Die Jungen verstummen, auch die Stimme des Seemanns bricht. Sein Kopf sinkt ihm auf die Brust, als schlafe er ein. Die Jungen erstarren mit erhobenen, stich- und schlagbereiten Händen.
若者たちは黙りこむ。水夫の声も止む。彼の首は胸に沈みまるで寝てしまったかのようである。若者たちは刺し殺す,または殴り殺すために拳を高く挙げて強ばっている。

 

さて,ナイフを振り下ろさないのは優柔不断な登を最後まで表現するためか?考えてみると,このお坊ちゃんギャング集団で登は各人の父親への不満,そして自分が父親になっていく成長を断固拒否する態度に感化されつつも,心底からそれに強く共鳴できないもどかしさを持っている。それが優柔不断に繋がっている。幼くして父親を亡くした登にとって,成長期に父親と対峙できなかった幸運とでも言おうか,父親を堕落した存在として心から共鳴する体験をしていないからである。

登はみんなと同じ黴菌に犯されてゐないことのもどかしさと一緒に,自分の偶然の幸運の,繊い硝子細工の特質におののいた。どういふ恵みによつてか,彼は悪を免れて生きてきたのだつた。その自分の脆い,新月のやうな浄らかさ。自分の無垢が世界へ張りわたした,あの航空網のやうな複雑な全体的な触手。

この浄らかさを捨てて,ナイフを振り下ろさない限り,登は英雄になれない。つまり1号のような,大人になることを拒絶する永遠の厨二病の13歳になれない。

舞台では子ども大人たちの竜二殺しが展開されている傍で,怖しい殺人に驚く母親の姿がある。これは首肯出来ない。私なら、幸せに満ちて家で二人の帰りを待つ何も知らない母親を描こうと思うのだが。房子と竜二はこのとき幸福の絶頂にいる。この二人の幸福を徹底的に破壊し,そのカタストローフを正義の勝利だと弁解するのが enfants terribles たる内省のない厨二病の少年たちではないか。それに気づかない母親の房子こそ,女としての人生を再び花開かせようとしてそれを息子に手折らされてしまう悲劇の母親。母は女になってはいけないのだ,という彼らの願いが貫徹される表現のほうが,メロドラマとして完成されているように思うのだが…。

そして登は英雄の世界に足を踏み入れたいがなかなかそれを躊躇っている,三島由紀夫の現実の姿であり,1号の,理想世界に存分に浸り切るも,あらゆるものを達観して虚無主義を貫く姿は理想の思想にたたずむ虚構の小説家三島由紀夫そのものであるといえよう。『午後の曳航』で三島が築きたかったのは,登という現実の自分を主人公にしながらも,竜二との体験を通して最後には1号の境地,つまり理想の英雄になることを決意するための自己啓発装置ではなかったのか。三島の小説について,虚構性,人工性を取り上げる評論家が多いが,実は平岡公威はペンネーム三島由紀夫自身を虚構に生きる作家として位置づけていたのではあるまいか。彼の映画ではなく,本当の自決へと移行する実行力を培うためには,『午後の曳航』から『豊饒の海』までの文学的決断行為が必要だったのであろう。
竜二にナイフを振り下ろせない登は自決できない平岡公威,つまり厨二病に憧れつつも現実世界に阻まれて虚構に埋没できない人間である。オペラの最後はこの状態で終わる。
振り下ろして終われば登は三島由紀夫になる。
振り下ろすことが出来ずに終われば登の将来は約束され,平凡な父親となって鼠の一生を送ることになる。
どちらを想像したいかは観客自身の好みだという演出かも知れない。

ちなみに三島由紀夫はナイフを振り下ろして——正確には日本刀を腹に刺して——森田必勝に首を斬ってもらって(これが全然うまくいかず,三島は大変な苦痛を受けたはずである。)英雄となった。英雄となったからこそ,11月25日は憂国忌が毎年開かれ,彼になりたいがなれない大人になった登たちが集まって偲んでいるのだ。——もし私がこのオペラの演出家だったら,こうした憂国忌の光景を是非舞台装置に取り入れてみたい。1号たちが集まる場所を憂国忌の会場と設定したり,竜二を殺害する場所をそこにしたりすることで,三島の思想をあなたはどう咀嚼するかと観衆に問うてみたいものである。残念ながら,今までのオペラ『午後の曳航』の演出はト書きを忠実に再現しようとするものが多く,バイロイトヴァーグナー演出のようなものがまだないようだ。

 

6.おわりに
なぜこのオペラが,2006年改訂版初演の後,ウィーンで2020年に取り上げられたのか?ヘンツェは確かに現代音楽家としては大家だと思うが,それでもこの "Gogo no Eikou" はヘンツェの個人的な Geschmack (好み)が大きいオペラのように感じる。しかし各劇場でこれを取り上げる以上は何かのメッセージ性を感じるからではないかと思うのだ。

そう考えてみると,今の欧州では若者の排他主義や極右化が問題になっている。些細なことで外国人排斥暴力行為に繋がったり,極右勢力が台頭したりと,欧州は政治的にもきな臭いものを最近感じる。これを,閉塞した社会の中で若者が自分たちの居場所(=ここでは排他主義や極右団体)を保つために集団で犯罪を犯すことへの問題視,警鐘と考えれば遠からず近からずで理解しやすいのかも知れない。

1号たちそして登が抱いてる考えは,三島的にいえば,暗い衝動である。そしてこの衝動は自己暗示を掛けることで生き続ける。『金閣寺』でもこの衝動を三島は書いた。

私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだらうといふ考へは,私をほとんど酔わせたのである。同じ禍ひ,同じ不吉な火の運命の下で,金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになつた。

美ということだけを思ひつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。


暗い衝動を抜け出して「清濁併せのむ」大人へと変化していく——これを社会は「発達」と称している——こと,この美しく,目覚めたくない,理想的な,心優しい暗い衝動から目覚められなかったのはこの小説の子どもたちだけではない。作者の三島由紀夫こと平岡公威もそうであった。丸山明宏に嘲笑されて肉体改造に走りつつもその肉体がナルシスの要素となり,戦争および戦後の社会という体験から得た暗い衝動が彼に国家自衛組織「縦の会」をつくらせ,武士道の本分は「自決」にあるという魂が制御する肉体を犠牲にした思想を崇高であるという評価にまで高めた。この三島の生き方がこの小説の根底にあることは西洋人でも理解できないことはないようには思うが,それをオペラで,三島のモットーでもある「美的に」演出することは大変難しいし,原作やリブレットを再読・三読するほど惚れ込んでいる訳ではない観客が受容できるかという問題がある。
このオペラ作品の上演を成功させるためには,海=女,船乗り=英雄,猫殺し=理想の世界を肯定するための行為など,少なくとも三島のちりばめたシンボルと彼の思想を体現する行為が,現代社会にどう訴えかける要素として認識できるものなのかを明らかにする必要があるだろう。筋書きを尊重し過ぎて,単なる思春期の少年が抱く悲壮な葛藤に終始する個人劇と捉えては三島の世界を矮小化して演出してしまうのではないだろうか。