好意・恋愛・性欲の関係と社会契約について

 好意と恋愛感情と性愛の欲望は同一のものだろうか。

 まず何故か理由は分からぬが好意が首を擡げる。そして好意が募ることで恋愛感情が芽生える。しかし恋愛は片想いでは成就しない。そして片想いの段階では肉欲の欲望はむらむらとは沸いて来ない。

 性愛を意識するのは片想いではなく互いに想っていると予測・確信してからではないだろうか。相手に容易に触れることができるようになると、抱き合い、唇を重ね、身体をピッタリと密着させたいという欲望が当然のように現れる。この状況下で性愛(セックス)の欲求が理性を侵してくるのである。

 肉体を合わせるセックスの悦びは、快楽を、愛する人と共に求めることのできる、この上ない至福のコミュニケーションなのである。互いの恋愛感情が肉体の快楽を先導するのであって、その逆はない。

 快楽を求めて愛人をもつことは、恋愛ではなくて単なる性的満足を充たすための補完行為、つまり独りでしないオナニーでしかない。人間は動物としての衝動から、言語を用いた思考、つまり理性という精神性をその衝動よりも尊い、優先する意識を持つに至った。故にオナニー(自慰)というものは肉体的衝動が理性を掻い潜って阻止できない状態になって行うものだと理解してきた。これを制御できずにやりたい放題に行う事は精神の破壊につながるとして、嘗ては男尊女卑のもと管理売春のシステムを作ってきた。男子にとって射精は毎日起こる生理現象に他ならず、この事に例えば谷川徹三は悩み、哲学の道に救いを求めた。女性の場合、男尊女卑が長く続いてこの様なシステムは存在せず、女性の性欲は蔑ろに、まるでないかの様に虐げられてきた。女性解放の理由の中にはこの様な理不尽な扱いへの反抗もあった筈である。

 一方で生物学的な人間の性である子孫の繁栄は、婚姻という社会的契約として明文化された。この子孫繁栄のための、(動物としての本来的な)生殖行為に選ばれるつがいは、夫婦という名称の下に、財産権を伴うが、この夫婦関係に愛情が必要だという法的規定はない。あるのは双方の契約の同意である。勿論夫婦が子孫を残さねばならないという事は明文化されていないが、財産が当然子孫に継承される法律がある以上、子孫の誕生は不文律のものとみなされる。何故ならば、配偶者以外に直系の子がいなければ、財産権は兄弟かその子までは移譲されるが、これは生物学的に血族を示している。血族でなく遺産相続できるのは配偶者だけである。つまり、愛情と遺産相続はほぼ関係ない、ということである。生殖行為が恋愛や愛情に勝るとすれば、それはこの点である。つまり、愛などなくても、侵し、侵され、子供ができて認知されれば財産が転がってくる。これが社会契約上の男女関係に他ならない。

 この様な実情から見ても、好意や恋愛が如何に個人的で公的には全く尊ばれていないかという悲しみがある。人を好きになる事は社会制度の埒外に置かれ法律は無関心なのである。人間は大昔からこの愛をテーマに様々な芸術文化を創り上げてきたにも拘らず、愛の尊さは娯楽の中でしか語られなかったのだ。

 困ったことに、「愛情」は突然人の心に出現して、片想いに悩まされ、両想いになれば幸福と至福に感涙し、別れと共に苦しみが訪れる。心穏やかなることのないこの感情は法的には無意味な、人間生活に害を及ぼす以外何もない忌むべきものなのか?

 愛情なき婚姻の後に偶然降って湧いてくる恋愛感情、これは文学や舞台芸術でよくあるテーマだ。「恋愛は障害が大きいほど燃えるもの」とはよく言ったもので、「ロミオとジュリエット」も「トリスタンとイゾルデ」も周囲の関係との障害が恋愛を難しくする事で二人の愛情は昂って行く。かつてある俳優が「不倫は文化だ」と言い放ったが、まさにこの障壁だらけで燃え上がる感情を担う範疇は法律ではなく、文学や芸術の文化領域しかないのだ。何とも名状し難い存在、それが愛情だ。人は愛情を抱くとそれが冷めるまで、どんなことでも試みようとする大胆さを発揮する。そこまでしてもやめられない、他者を得たいと渇望するエネルギー、何とも不思議な力ではないか。