Textkritikを気にする文学愛好家はもはやディレッタントではなく、本物の文学研究に足を突っ込んだ者だと言える。
例えば夏目漱石の作品を読むのに新潮文庫や岩波文庫、角川文庫で読むのは普通だろう。まさかここで岩波書店の漱石全集を買ったり借り出す人は極僅か、というよりいるだろうか?
しかし結果として文庫本の文章と全集版の文章は異なる事を誰が気にするだろうか?
夏目だけではない。耽美な作品として未だに人気が止まない三島由紀夫の作品だって、新潮文庫と新潮社の全集版では文章が違う。つまり彼らは旧仮名遣い、旧字体で書いているのだ。文庫本は編集部が新字体・現代仮名遣いに改めている。ーー「音読すればどちらだって同じ文章じゃないか!」とこの差異を問題にしないのが大方の筈。中身が分かれば良いのだ派は至極普通の人々。しかし[soːdɛsɯ̈]と発音していても、「そうです」という現代仮名遣いの細い明朝体と、漱石が書いた「左右です」を築地体活字で眺めるのでは全然印象が違う。
このようにテクスト研究となると話は違う。作者が書いた原稿の表記、刊行された初版本の表記、以降の版のそれ、バージョン違いは明らかにされ、研究対象として選ばれるテキストはどれで、何故それを選択したのか理由を明らかにしないとならぬ。著者が存命中に諸版が出ている場合、改版の都度文章そのものが変更されている可能性もある。勿論それ以外に誤字の訂正も行われる。
原稿が複数ある場合はもっと複雑だ。古典文学で写本で伝わっているものは複数のバージョンがあるのは当たり前。例えばドイツ文学の古典中の古典Nibelungenlied(『ニーベルンゲンの歌』)には3つの古い写本が残っている。(写本だけでカウントしたら30種類以上ある)この作品にはタイトルが書かれていないので、伝統的に最後の文章で「此ぞニーベルンゲンの歌なり」の部分からタイトルを決めている。しかしこれすら写本によっては Der Nibelunge Nôt(『ニーベルンゲンの災禍』)となっているものがある。
同じように『源氏物語』だって100種類以上残っている写本より、「青表紙本」、「河内本」そして「別本」の3系統が少なくともあるという。我々が教科書等で手にする『源氏物語』はこれら写本の取捨選択の賜物だ。
ドグマが重要な宗教教典ですら版の問題は避けられない。キリスト教の熱心な信者でも、自分が使っている聖書はどの版からの翻訳か知らないだろう。「旧約聖書」には発見後出版がそれほど進んでいない死海文書をはじめとして、完本としては最古のレニングラード写本、ギリシャ語に移されたSeptuaginta(70人訳)、全体の1/4しか残っていないが最古の文献とされるアレッポ写本などがある。70人訳はヘブライ語ではなくギリシャ語訳旧約聖書だが、これをテクストとしてカトリック教会の「ヴルガータ聖書」(ヒエロニムス訳ラテン語聖書)は作られているので看過できないし、この70人訳にしかない文言が書かれていたりする。
新約聖書もカトリック教会のものと正教会のものでは文が異なる。ともに伝統のあるテクストゆえにともにどちらを取捨選択すべきかの問題ではない。
ゲーテの『ファウスト第1部』初版本では冒頭の「捧げる言葉」の21行目 Mein Leid (我が嘆きは)とあるが、手書きの原稿では Mein Lied (我が歌は)となっている。これは植字工の仕業だと書いている注釈本もある。しかしゲーテ存命中は訂正されずにどの版でもLeid のままだった。Lied になったのは死後の版からだ。何故なのか理由は分からない。
ここまで来るともうPhilologie(文献学)の領域だ。Grimm兄弟は大学教員である以前に図書館司書だった。彼らが膨大なゲルマン民族の歴史・神話・物語・宗教・法律について著作できたのは図書館司書として文献が背後に並んでいたからである。
こんな細かい事など瑣末だ、という読者は例えば音楽の世界では「瑣末だ」は通用しないことをご存知だろうか。ベートーヴェンの楽譜が読みにくいばっかりに、印刷に付すときに様々な差異が出る。それだけではない。当時のオーケストラ編成よりも大きな編成で演奏する場合、今度は指揮者が規模に合わせた修正を行っていく。ストラヴィンスキーのように自作自演の時にホールの残響や作曲家としての新たなアイデアにより演奏会ごとに総譜を変えてしまう事もある。そうなると一体曲の完成した形はどれなのかわからなくなる。勿論この事はクラシック音楽に限った事ではない。
映画に代表される映像作品も完成品は何かわからない時がある。最初に封切られた1977年の「スターウォーズ」は今迄にないスケール感と特撮で聴衆の度肝を抜いたが、その20年後に公開された特別編では77年当時では再現できなかった事がCG等の最新技術で補完され、以後2019年のUltra HD Blu-Ray 版に至るまで何度も改訂がなされている。映像のみではなく、音楽にも手が加えられている。こう何度も改変があると、1977年にリアルタイムで映画館で見た人々にとって、あれは未完成作品だったのか?と疑問すら湧いてくるだろう。
よく封切り後数年経って「ディレクターカット版」なるものが売り出される時がある。ディレクターとは監督の事だから、監督が直々に編集した理想の編集という事か。ではその前に公開された版は監督の編集以外に他人の意見やらアドバイスが入っているという事になる。映画会社なりが売るために編集に干渉しているという事だろうか?
作品として作者が送り出したものは本当に未来永劫完成品として受容されるべきものか、実のところ心許ない。作者が没しても編集者が手を入れる。創作者がいなくても作品は変形していく可能性がある。
ここで賢明な読者ならば気がつくであろう。創作者、作家、作曲家、芸術家の創造した産物は、編集者という創造者ではない者によって、市場で高い売り上げを得られるように改変されるのだ、という事を。作り手の産み落としたものに、販売のプロが化粧を施すのだ。
編集者は誤字・脱字の訂正や文章の内容に対する出版社サイドの要求をするだけではない。作者を育てると言ったら良いような、作品が産み落とされるまでの叱咤激励をするときもある。しかも編集者は常に同じ作者にずっとついているとは限らない。編集者が変われば作品の売り込み方も変わるかもしれない。但し編集者はどれだけの手腕があっても、作者を超える事はないし、どんなに発言力があってもあとがきの謝辞に名前が載る程度の知名度しか与えられない。縁の下の力持ちであり Textkritik の最も厳しい対象である。そして編集者がgoサインを出さなければどんなに素晴らしい内容でも本は刊行されない。
私が関わったある語学雑誌の編集者に例文の内容について修正を要求されたことがある。比較表現の勉強で例文として「もしクレオパトラがそれほど美しくなかったら…」と出したものへのNGコメントだった。ーー「主観的な形容詞を使った例文はやめてください。差別的に捉えられるので。」コレには正直驚いた。
学問の世界では作品が研究の対象となる時、それはテクストと客観的に捉えられる。ある種の情報であるが、作品に付加される佇まいは考慮されない。例えば文学ならば文字情報のみがテクストであって、装丁だの印字された用紙の質とか活字印刷なのかオフセットなのかによる雰囲気とかはテクストには含まれない。絵画でいえば額縁を絵の一部と考えないのと同じである。音楽ならば総譜から生まれる楽曲については実演時の独自性を考慮しない(演奏家のオリジナリティを作曲家の作曲内容の一部にしない)事にあたるだろう。客観的な情報分析だからこそ学問的な整合性、普遍性を語る事が可能になる。その一方で受容者の心理的情動に直結する作用については言及を避ける事になる。
これに対して、作品としての解釈は主観的なものを含んで来るので、受容者の心理的情動を十二分に語る事ができるが、それは全く自己中心的分析にしかなり得ない。
作品とは作者が紡いだ生産物に宿る思いだ。初めは創造者たる作者の思いが宿っている。しかしその宿りは作者本人にしか分からない。この生産物が他者に公開された時、他者はその生産物に自分の思いを乗せる。これが他者一人ひとりの作品化である。