Yuval Sharon の魔笛が語りかける子ども目線とは?

am 30. Dezember 2023

Deutsche Staatsoper Unter den Linden の『魔笛』を堪能した。

演出はアメリカ人ながらウィーンやバイロイトでも演出経験のある1979年生まれの弱冠44歳の Yuval Sharon。

既に評論には書かれているが、この演出は日本のマンガ文化をかなり取り入れている。まずタミーノとパミーナの出立ちは手塚治虫のアトムとウランそっくり。

パパゲーナの顔から出ている長い嘴はどこか明治製菓チョコボールキョロちゃんを思い出させる。

第3幕でパパゲーノとパパゲーナの間に生まれる子供たちは耳の長いぬいぐるみなのだが、これがまた、あいだいろのマンガ「地縛少年花子くん」に出てくるキャラクター、「もっけ」(勿怪)にそっくり、否そのものにように見える。

また劇中タミーノとパパゲーノを激励する3人の少年たちは猿の格好をしているが、カーテンコールで彼らがポーズしたのは「見ざる言わざる聞かざる」だった。『魔笛』では試練に挑戦するタミーノたちが「見てはいけない」「口をきいてはいけない」と言う部分があるのでそこからのアイデアかも知れない。——こうした日本文化を彷彿とさせる切り口が沢山あるのだが、パンフレットの演出家の言葉にも、演奏評にも具体的な言及は全くない。

つまり、ベルリン国立歌劇場に集う殆どの聴衆にはこのマンガ文化的雰囲気は理解できても、日本のどのマンガに影響を受けているのか、あるいは外国人が日本観光でよく行くであろう日光東照宮にある有名な木彫りの装飾のことなど全く知らないであろう事をわかって敢えてこう言う「らしき」演出をしているのだろう。

その証拠にパンフレット上の演出家の文章のタイトルが

Durch die Augen eines Kindes—ある子供の目を通して

なのだ。本文にもあるのだが、グジュペリの『小さな王子』で6歳の子供が像を想像するくだりを引き合いに出して、「魔笛の聴衆もやれシェイクスピア的な万華鏡のような視点がどうのこうのとか哲学的にナイーヴだとか言う話は置いておいて、子供が持っている耳と目で鑑賞することが最高の理解につながるのだ。」と結んでいる。なぜなら「モーツァルトの音楽は青春の謳歌なのだから。」

Sharonの主張によれば、「『魔笛』のベストな観客はベルイマンの映画版魔笛に登場する聴衆役の小さな女の子だ。」そうである。

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Sharonはこのコンセプトのために、子供たちがクリスマスのイベントととして、人形芝居で遊んでいる前提を作り、Staatsoper の額縁の中にもう一つ人形芝居の額縁を作らせている。そして魔笛のキャラクターは全て糸のついた操り人形で、劇中でもあちこちに釣られて飛んでいく。

悪の象徴であるモノスタトスは真っ黒だが、その出立ちはダースベーダーミッキーマウスの耳をつけた感じで、さらに背中にゼンマイがあり、歩く姿は1950-60年代のブリキ製のロボット玩具のよう。

このコンセプトを成就するのに鉄腕アトムを持ってきたのならば、「子ども心を取り戻すのになぜ今アトムなの?」と不思議がるのが現代人ではないか?他にあるだろう…?と。

そこで思いついたのが、Sharonは今回のオペラの聴衆に「子どもの目線」を要求しているが、決して「子どもが聴衆である事を前提に」はしていないのだ。出てくる小道具のおもちゃ(プラスチック製の宇宙ロケットがタミーノの笛)も、先ほどのアトムやモノスタトスのミッキーマウス&ダースベーダーも、1960年代の大人が子どもだった時代に見聞したであろう事物なのだ。つまり50-60代のオジサン、オバサンを想定して、彼らが一眼で理解できるキャラクターなり小道具なりでオペラを構成しているのではないか。——ただこの考えでいくと、「もっけ」だけは異なる。この年代の人には全然わからないキャラクターだから。とは言ってもアトムとかキョロちゃん、「見ざる言わざる聞かざる」この年代の日本人にしかわからないことではないか?例え50代のオジサン、オバサンでもドイツ人にはわからない?——だから雰囲気作りか?と思ったのだ。

人形芝居はヨーロッパでは貴族や裕福な家庭ではクリスマスのイベントととして子どもたちが楽しみにしている伝統がある。それこそゲーテファウスト博士と言うキャラクターに出会ったのは、子ども時代の人形芝居からだ。見る楽しみと同時に、クリスマスを盛り上げるイベントととして、裕福な家庭では子どもたちが人形芝居を大人たちに披露するのだ。だからお金持ちの家には人形芝居セットがあるものだった。トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』のクリスマスシーンにも出てくる。

さらにSharonが子どもの目と耳で鑑賞させる道具として演出したのが、Singspielの台詞部分を、出演者に語らせず、録音された子どもの音読を流すと言う行為だ。子役の上手な朗読ではない、そこらにいる子どもが台詞を読んだような、チョット棒読みに近い音読。まさに先述した、「大人に向けて人形芝居を披露する子どもたち」なのだ。

パンフレットにはこれでもかと古今東西の名言が散りばめられている。

 

「天国は3つのものからできているようだ。夜の星、昼の花そして子どもの眼。」——ダンテ

「人は自然界の操り人形の様なものだ。」——仏陀

「本気で遊びたいならば、人は遊んでいる間は子どもに還らなくてはならない。」——ホイジンガー『ホモ・ルーデンス


こうした徹底的な子ども目線の要求から得られるこの『魔笛』の意味は何か?——勿論楽しかったあの時代の回想による気持ちの蘇生もあるだろう。1960年代以前生まれの大人にはSharonも企図する子どもの眼と耳は当てはまらない気がする。なぜなら第二次世界大戦直後で子どもは飢えと物不足に苦しんだからだ。ドイツも日本も人形芝居どころか、人形1つさえ手に入れるのは困難だった時代だ。だから70歳以上の大人にはこのは理解しづらいし同感できないだろう。

そうだ、この演出の先駆けがあったのを思い出した。2005年から数年間新国立劇場で上演された実相寺昭雄が演出した『魔笛』。円谷プロ全面協力のもと、ウルトラマンウルトラセブンの監督である実相寺昭雄が手がけたもの。これとてウルトラものだからと子ども向けに制作した訳ではなく、「ウルトラマンウルトラセブンを見て育った世代の大人に向けて演出した」ものだった。

オジサン、オバサンが子どもに戻って見る『魔笛』、そのココロは?こんな想像をしてみた。

竜に襲われるタミーノ→「嗚呼、あの頃ひとりでお遣いにいくと角の家に大きな犬がいて怖かったなぁ。」

パミーナの姿→「幼稚園時代、隣の席の典子ちゃんは可愛かった。将来お嫁さんにしようと決心してたよな。」

ザラストロ→近所のまとめ役のオジサン。いつも通りで声掛けられたな、「おい坊主、どこ行くんだ?」って。

パパゲーノの首吊り→青年期の生きづらさ

夜の女王とパミーナの決別→母子分離

タミーノとパミーナの試練→若い僕たち二人の恋愛にはいつも障壁があったね。

二組のカップルの誕生→結婚と言う人生

パパゲーノとパパゲーナの子作り→子どもの誕生

そして、人生と言う人形芝居を大人に披露した子どもたちが「やったぜ!」と喜びに身を震わす場面で幕。

→子供から学ぶことはいっぱいあるよ。(by演出家)

こう言うことではなかろうか?

飛ぶ鳥を落とす演出家Sharonのことだ。

きっとそういうことだろう。

 

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