どこまでも共生を求め過ぎて歪曲する人々について

 日本の「道」の文化、茶道、花道、剣道、柔道などは可視的には技術を磨く鍛錬と稽古だが、それだけでは不十分で、精神の鍛錬も要求される。

 つまり技術が秀逸で素晴らしい生花、感心する程上手い茶の出来具合、小気味良い一本や敏捷で素早い小手も、それは技術だけで完成したものではなく、精神の強さ、心の平静を得てこその技となる、と考えられている。

 よって上手いだけでは充分な賞賛の対象とはされず、同時に精神が鍛錬されていても技術が伴っていなければ稽古不足ということになる。

 精神について要求される「道」は、海外ではスポーツや趣味として行われるので、可視的な部分だけで満足されてしまう傾向は否めない。しかし、禅に代表される日本の精神文化を全面に出した行為については海外でも理解ある実践者によって行われている。

 日本人のこの「道」好きはどの分野でも代用される傾向はある。「強さ」の尺度が「道」の場合は自分の精神を問われ、技術的な強さとは別個に重んじられる。西洋ではこの「道」が異常に「武士道」に偏っているのは事実だと思う。室町時代に成立した茶道、花道は町人文化ではあったが、この「道」を武士階級が城に持ち込んで政治に利用したおかげで今も続く文化になっている。

 そもそも「精神の鍛錬」とは具体的に何を目指しているのか?禅の境地と言われるものは、どんな事にも動じない平常心、私利私欲を排除した無私の心。鈴木大拙が『禅』の英語著作で世界中に広めたものは西洋思想で重要視される「自分」を強く主張し唯一無二の存在を作り上げるオリジナリティーとは正反対の、「自分」という欲を滅して、森羅万象の自然と同化して無我の境地に達する事によって得られる「無常」「平常心」という精神安定性である。

 何も考えずに存在し続ける没我の境地は、常に何を思考しているかが問われる西洋人にとってはとても新鮮で斬新なものだったに違いない。そして剣の道も「敵を倒す」のではなく、平常心によって見えてくる自分の心の害悪を切断する義剣の術を学びなさいと説得される。

 全てを自我との対立・闘いに帰する日本精神は周囲の環境に溶け入る自然との共生・共存と大きく関係している。人工的なものを違和とし、あるがままを同和とする社会観が日本社会を支配してきたからこそ、スピードワゴン効果を気にしたり、自分の考えをハッキリと言うのではなくそれとなく匂わせる行動が「事を荒立てない良い行い」と認識されてきた。

 しかし、この数十年で社会観を変えようとする動きが支配的になり、「人とは違って良い」、「君は何をする人か?」、「同じなんて言わないで好きな事をしなさい」と要求されるようになった。昔は「みんなは何を頼むかな?」と喫茶店で悩んでたことが、今は「みんなと違うメニューってどれだろう?」と180度違う視点が求められている。しかしスピードワゴン効果に敏感な日本人はこの「他人と違う事」すら周囲を気にして非ぬ方向に歪曲させてしまう。つまり自分の意志とは関係なしに違う事を求めて悩むなんて極端な馬鹿げた思考に支配される、まさに愚の骨頂である。

 自分のしたいこと、好きなことが他人と同じか違うかなんてどうでも良いではないか!それこそ自我を殺して差異を探すなんて愚かだし、没我する禅的思想にも繋がらない悲惨な滅私である。