野口さんの遺した言葉

 野口剛夫氏が急逝されてもう4ヶ月が過ぎた。

 彼の死がクラシック音楽界に何か危機感を与えたかというと、正直そんな影響はないかもしれない。

 彼と最初にメールでやり取りを始めた時、ご自身が自分は白眼視されていると書かれた。

 あの頃、野口氏のされている事は個人的な研究団体の立ち上げとそれに伴う彼自身のオーケストラの創設、そしてまだ彼が音楽大学で講師をされていたのを利用されての学内講演会を主宰されていた。

 これは確かに側から見れば狂気に近い行動力だと思う。だがそれをやり遂げられる熱意と気力を野口さんはお持ちだった。ひょんなことからそんな彼とメールのやり取りをするようになると、随所に「野口剛夫の音楽観」のようなものが見えてきた。

  野口さんとメールをやり取りする中で、彼が書かれた印象に残る言葉が多々あった。この機会にぜひ紹介させていただきたいと思う。(勿論鬼籍に入られた野口さんに承諾を得ている訳ではないので、ご遺族の方からのご依頼があれば即時削除させていただくつもりであるが。)


 彼は自前のオーケストラで好きな曲を演奏したかった訳だが、その好きな曲とは彼の立ち上げた東京フルトヴェングラー研究会のモットーでもある、フルトヴェングラーの作曲作品を演奏すること、そしてフルトヴェングラーが好んで演奏した曲を野口剛夫が再解釈して試演してみることだったと思う。

 ただ彼の自前のオーケストラといっても、団員はロボットではない。人間だ。しかも芸術を演奏する人々だ。プロ、アマ問わず募集していた彼の楽団はコンサートの都度メンバーが変わっている事も頻繁だったように記憶している。なぜなら、それだけ野口さんの要求が高いからである。例えプロでも、ついていける人と喧嘩別れしてしまう人がいたようだ。そんな不安定なオーケストラの存在がわかる彼の言葉がこれだ。


「指揮者としてはあまりにも好きな曲をやると、とても辛い時があります。曲の表現の以前に、曲を壊さないでほしいと思ってしまうからです。まず壊さないこと、美しいものに泥をぶっかけないこと、なのですが、ほとんどの演奏者はそれを平気でしている鈍感ぶりです。」


  歯に絹を着せぬ直接的な物言い。これを楽団員に面と向かって仰っていたのかどうかはわからないが、中には我慢ならない団員も出るだろう。だが、野口さんは至って真面目に音楽と向き合う方だから、妥協する事がない。それがともすると僭主的だと誤解されても仕方ない部分はあるかも知れない。


 音楽に対して純粋なお気持ちはその鑑賞の仕方にも伺われる。フルトヴェングラーは聴衆(Publikum)が音楽そのものではなく、その演奏会にまつわる音楽以外の文脈や社会の影響で聞こえてくるものを評価してしまう付加解釈を残念がっていた。そんなインタビューを勿論野口さんは読んでいらっしゃるわけで、彼の主張にもそういう部分が見て取れる。


「昨年の佐村河内事件でも考えさせられたのですが、音楽はそれそのものとして味わえればよいが、言うは易しで、なかなかそういうことができないのが普通の人間だと思います。(専門家は曲そのものを惑わされないで聞き取る強靭な力が必要ですが。)」

 

 野口さんは佐村河内事件について偽物である事を看破した人物として世間に躍り出ざるを得なくなったが、本当は偽物か否かよりも、作品の周囲にあるストーリーに踊らされて大して優れてもいない音楽作品を今世紀最高の作品であるかのような報道をする人々、評価をした人、それに与して演奏をし続けた専門家、踊らされた聴衆に対して「貴方は本当にその音楽そのものと対峙しましたか?」と最大限の疑問符を投げかけたかったのではないだろうか?

 野口さんはこんなことを私に書かれた。


「音楽以外のストーリーやイメージがどうせ付け加わるなら、音楽を引きたてるような良質のものであるべきで、音楽提供者はそこにむしろ神経を使うべきだと思います。」


 そして純粋に音楽に没頭できない事への危機感をこう述べていらした。


「音楽が純粋に聴かれないことはある程度は仕方がないけれど、むしろ危惧するのは、人々の曲との接し方がだんだんと博物館的、傍観者的になっていっているということです。」

 

 これは恐らくフルトヴェングラー聴きにありがちな、データ中心のコレクションに専心してしまう傾向や、音楽に耳を傾けて感動することよりもレコードの盤質・デジタルプロセスやCDよりもスーパーCD、オーディオDVDへと進化する製品の更新に精魂を傾ける愛好家に、音楽を聴く原点に戻りませんか?と提案しているのではないか。


 彼の敬愛するフルトヴェングラーは平時も有事も音楽に生きた人だった。我々にはかなりの録音が遺されたが、コロセウムのローマ市民の様に必死になって演奏する彼らを上から目線で「死に物狂いの演奏こそ最高だ。」と涼しい目で語っていないだろうか?そういう好奇な目で音楽を語る無責任な愛好家を、野口さんは音楽家目線で退けられている。


「生きるか死ぬかという状況は、精神的には戦争中でなくてもあり得るのではないか。フルトヴェングラーの演奏は戦争中のが一番、などと決めつけることが、他の演奏や、今の演奏行為への軽視になるとしたら、とても損なことですよね。そんな簡単なものじゃないはずですよね。」

 

 そしてレコードの発明以来150年が経とうとしている現在、時間芸術だった音楽が録音によって変貌したことによる弊害も彼は見据えておられた。


「様々な文明の利器で、他のもの、昔のものを知り過ぎてしまったということに、現代の人々の不幸もあるのかもしれません。」

 

 しかし野口さんはチェリビダッケの様な、録音自体に反対されていた方ではない。


「私は専門外なので録音の領域に深入りすることは今後もないと思いますが、専門家が昔の録音を愛でるだけでなく、積極的に修復、再現するということに乗り出すならば、大いに期待し応援したいです。」


 そのうえで、野口さんは現代の音楽家に自らエールを送っておられる。


「歴史的現象としてのフルトヴェングラーはどんどん過去に遠のいていくが、その分、自分の中のフルトヴェングラーを発掘して、それを超えてやる、くらいの気概がほしいですよね。」

 

 彼の指揮者としての演奏態度はまさにこれだったに違いない。彼の演奏は決してフルトヴェングラーのコピーだったのではない。それは大きな勘違いだ。彼はフルトヴェングラークナッパーツブッシュを好んだが、それを演奏会で真似しようとしたことは一度たりとてないはずだ。野口剛夫は音楽家であって、寄席芸人ではない。だから大指揮者のモノマネ芸人の様な目で見ている者は大誤解をしている。彼らと同じ楽譜、資料を使ってどんな適切な演奏が出来るか試みた音楽家だと言えよう。

 野口剛夫さんをあまり存じ上げない方が抱く間違ったイメージ、それは彼がディレッタントだと勘違いしている人が多いのではないか。彼はアマチュア演奏家ではなく、プロである。なぜなら音大で作曲家別宮貞雄氏に師事している云々という経歴もあるが、それより音大で講師をされていることである。大学で講師になるには、研究者か実務家しかいない。これはどんな大学でも例外のないことである。野口剛夫氏が都内の音楽大学で講師として教育活動に携わっていた事実は、彼はアマチュアではなく、プロの音楽家(すなわち実務家)か研究者である証なのだ。一見自前のオケと自前の研究団体、そして自前の出版社からCDだの書籍だのを出しているから勘違いされやすいが、彼は別にお金持ちの趣味人(ディレッタント)ではない。作曲も演奏も、学生を指導することも出来るプロフェッショナルの一人であることをここで明らかにしておきたい。

 いつからか、彼はご自身の作曲作品も演奏会に上げられるようになった。それはどんなご心境でご決意されたのかは今となってはわからない。


 野口さんの音楽に対するひたむきな情熱が、遺されたメールの文言から私の心を捉えてやまないのである。