娘の復讐は愛情の証

 国立国会図書館から資料が届いた。日本で初めて『ファウスト』を上演した近代劇協会の俳優,衣川孔雀について二つの雑誌記事だ。

 1つは週刊新潮1980年6月5日号掲載の森茉莉「ドッキリチャンネル㊴」,もう一つは季刊下田帖41号1997年12月30日発行コーバー月子「母・衣川孔雀」だ。

この資料を取り寄せた理由は日本初のグレートヒェン女優,たった4年間の女優生活だったが,松井須磨子と並んで絶大なる人気を誇った衣川孔雀の真実を知りたかったからだ。

 先々月(2024年1月)新刊した大橋崇行『黄金舞踏 俳優・山川浦路の青春』に近代劇協会の公演について魔女・マルテ役で出演した上山草人の妻山川浦路の述懐が述べられる。その中で衣川孔雀が男に惚れやすく,惚れたら直ぐに事に及ぶという描写がある。

山川浦路

「あなたが十人目の殿方でしたが,今までのどなたよりも大きかったの。それで,つい我を失ってしまって」 

大橋崇行『黄金舞踏』2024年 潮文庫 248頁)

 

 小説とは言え,随分と直接的な表現ではないか。スペイン大使館勤務の父親を持ち,自らお茶の水の女学校に通い,行く末はソルボンヌ大学へ留学を夢見ていたという大正時代の良家の女子がこんなに衝動的な人物なのだろうか,と疑問に思った。総合研究大学院大学を終了し博士(文学)の学位まで持っている作者の大橋崇行氏が書いたこの小説が,いくら巻末に「本作はフィクションです」とあるからといって,実在の人物を極端に貶めるような小説を書くだろうか?と半信半疑だったのである。

 

 日本で最初に『ファウスト』を上演した近代劇協会,その創立者であり,後にアメリカ映画界で成功した俳優上山草人が,渡米する前に自分から離れていった衣川孔雀に未だ未練があり,愛情が憤怒に変わってその憤怒を書き綴った小説がある。新潮社から出版された小説『煉獄』(大正7年)と『蛇酒』(大正6年)である。この小説は草人の近代劇協会時代について全て仮名にして書き下ろしたものだが,そこに孔雀にあたる人物牛窓麗子が書かれており,その記述が先ほどの「十人目」などの話になっているらしい。大橋氏はおそらくこの小説を参考にして孔雀について書いたのではないかと想像出来る。この小説の序文を,当時上村の自宅兼店舗(化粧品屋を営んでいた)となっていた新橋駅前の「かかしや」に入り浸って花札を切っていた谷崎潤一郎生田長江が書いている。

 

 衣川孔雀は大正2年近代劇協会の上演する『ファウスト』のヒロイン,グレートヒェン役で初舞台を踏んだ。先に触れたように,スペイン大使館勤務の父親をもつ恵まれた家庭のお嬢様だった。しかし父親が病気に倒れ,一家の大黒柱として働かなくてはならなくなってしまったのだ。そこに舞い込んだ女優というオファー。稼げると聞いて「ノー」とはいえなかっただろう。

 上山・山川夫妻の住む化粧品屋兼住居に転がり込んで夫,妻,愛人の三角関係同居が実現していたこと自体が不可思議だが,これは衣川の家族も認める事実なのだ。だが衣川孔雀(本名牛圓貞)が上山に一目惚れして同棲生活をすることになったのか,それとも,ある資料の通りに上山が

「劇団生活には団結が必要。歌舞伎俳優はそのために,皆親類縁者で繋がっている。君も僕の協会に来たら親類になるか?」

 と愛人になることを強要し,

「なります。」

 と答えたので早速彼女を親類にしてしまったと書かれている。(松本克平『日本新劇史 新劇貧乏物語』1966年 筑摩書房 111頁)

 その記述通りだったのかよく分からない。とにかく衣川孔雀,否牛圓貞の人間性が掴めないのだ。

 

※※

 帝国劇場の『ファウスト』公演は成功した。ただしこれは芝居としての成功と言うよりも経済的な成功だ。5日間大入りでチケットが完売したという。これは帝劇始まって以来のことだった。雑誌・新聞の論評は数多く書かれたようだが,共通して評判の良かった俳優は衣川孔雀だった。この後も孔雀は近代劇協会のヒロインとして俳優を続けるが,1917年(大正6年)遂に嫌気がさして上山宅から逃亡する。最初は見つかって連れ戻されたが,二度目は成功した。その逃亡劇に手を差し伸べたのがアメリカ大使館近くに診療所を開所していた日本では殆どいなかった矯正歯科医だった寺木定芳である。泉鏡花の門人でもあり,孔雀の芝居を初めて見たときから孔雀の大ファンになり,公演チケットの最前列中央を全公演買い占めるほどの熱の入れようだった定芳が孔雀の逃亡を手引きし,後に結婚した。

衣川孔雀のグレートヒェン

 その衣川孔雀(牛圓貞)の夫寺久定芳の伝記鈴木祥井『寺木だあ!』2009年 財団法人口腔保健協会 を読むと,衣川孔雀は貞淑な女性で,十人の男と取っ替え引っ替え寝台を共にしていたというゴシップはただの捏造に過ぎないと,娘のコーバー月子の随想にはあるという。

 

 その一方で,この『ファウスト』の脚本となった訳をした森林太郎,即ち森鷗外を訪ね,役について助言を求めた衣川孔雀が森鷗外を「誘った」というエピソードを書いた人物がいる。鷗外の長女森茉莉だ。森茉莉は1979年から1985年まで週刊新潮に「ドッキリチャンネル」というコーナーをもっており,1980年6月5日号の「ドッキリチャンネル㊴」で「オーガイの恋愛事件」と称してベルリン時代に冬を越すために娼婦が鷗外に部屋の鍵とメモを渡したので行ってみた話と,『ファウスト』初演時に衣川孔雀が觀潮楼(鷗外宅)を訪ね役について訊きに来た話が書いてある。国会図書館より取り寄せた第一次資料を抜き書きすると,森茉莉はこう書いている。

 

十五分程して帰った後,茶呑茶碗を下げに来た母に父が言った。「孔雀が俺にある目をしたよ」と。(中略)「或る目ってどんな目です?」と訊くと父は微笑って言ったそうだ。「あなたにお気がおありなら遊びましょう,という目だ」と。(中略)父という人は母に言っていたそうだ。(恋愛の機会というものは避ければ避けられるものだ)。こういうのが色男というものだ。父は孔雀の言葉をわからなかったような顔をしたのである。上山草人を始め一座のあらゆる男を,浮気の相手にした孔雀だったが,彼女は多分,鷗外はだめだったな,と思ったのだろう。

      (森茉莉「ドッキリチャンネル㊴」週刊新潮1980年6月5日号82頁)

 

 この記述に至る前に,森茉莉は上山の小説中の孔雀についての記述を紹介して,

 

そんな大勢とどうして出来るのだろうと思うのはそんな大勢と浮気をしたことのない人間の考えることで,彼女は道具の陰なぞで起っていて浮気をするらしい。上山草人の手記のような小説の中に書いてあるのだそうだ。それなら短かい時間に何人とでも浮気が出来ただろう。

森茉莉 上掲書 82頁)

 

 なんともこれも生々しい描写だ。前に話題になったとびきりの美人を奥さんに貰ったお笑い芸人が素人の女たちとトイレなどで気の向いたときにセックスをしていたのが暴露されたゴシップ記事が世間を騒がせたが,それを連想させるような淫乱というか乱交ぶりのように語っている。と同時に,(ここが森茉莉なのだが)最愛のパッパこと森鷗外だけは孔雀の誘いに乗らなかったと誇らしげなのだ。そして森茉莉の興味は孔雀の服装についての話題に移る。

 

恋愛というものに全く駄目な私の母は,孔雀のような女を崇拝,というのもおかしいがそういう感じを持つ傾向があったので,どこかから噂をきいて来たらしく私にこう言った。(孔雀は細かい大島風の絣の着物に普段帯を締め,濃い紫の,カシミアかなにかの無地の前掛けをしていたそうだよ。いい感じだねえ)と言った。その後母はその孔雀のなりに憧れたらしく,私に海老茶や濃い,幾らか赤みのある濃い紫の無地の前掛けをさせた。女学生の袴を作る店に行って生地を買ってきて,女中に縫わせたのである。それは確かに大正時代の奥さんの,なかなかいかす風俗だった。(中略)このなりはたしかに現代の花模様なんかの短かいワンピースにちりちり頭の奥さんや,巴里に五遍も行ってまいりましたというような洋服の格好で,銀座をお歩きになっている奥様よりも何段も勝っていることは確かだろう。

             (森茉莉 上掲書 82-83頁)

 

 森茉莉の母親志げは大審院判事荒木博臣の娘で,1902年(明治35年)21歳で40歳でバツイチの鷗外に嫁いだ。鷗外に嫁ぐ前に志げは一度結婚していたので互いにバツイチだった。にもかかわらずその美人さを鷗外の母が認め,鷗外に結婚を勧めた。件の孔雀のエピソードは大正2年(1913年)だから,志げは32歳,一方孔雀(牛圓貞)は17歳だった。因みに原稿の主森茉莉1903年生まれなので10歳の時の話だ。仮に現場に立ち会っていてもここで書かれた事を理解しているとは思えない。そして,もし森茉莉が衣川孔雀と会っていたならば,その時の事について彼女なら無理矢理でも何か書こうとした筈だ。記憶がないのではないか?

さてパッパ大好き娘,永遠のお嬢様の森茉莉が,無邪気にも衣川孔雀のエピソードを掲げて言いたかったことは

 

①愛するパッパは女の誘惑に負けるような男ではないが,色男のダンディズムを備えたセクシーな男である。

②孔雀の服装はイケてる。母はそれを私にさせていた。(→私の格好は今の銀座をお歩きになっている奥様よりも何段も勝っていた。)

 

 つまり,他人を話題にして自画自賛しているだけである。上山が嫉妬に狂って書いた小説の真偽など確かめることは全くしていない。週刊誌に載せることで語られた人物がどのように思うか,どんな風評被害を被るかもしれないことには無頓着極まりない連載を書いていた。(この連載は森茉莉がテレビに出演している芸能人などについてバッサリ一刀両断するコーナーだった。)森茉莉の文章は,有名な小説『甘い蜜の部屋』もそのほかのエッセーや随筆も,森鷗外の長女としていかに寵愛され,一般庶民では叶わなかった衣服や食べ物などを豊かに享受して,蝶よ花よと育った美しい日々への反芻ばかりのように感じる。その一方で結婚生活になじめず,独り身になって鷗外の印税が切れた50代から文章を書いて糊口をしのぐ生活,雑然とした6畳一間の自宅をアパルトマンと称して,まるで貴族が平民に堕ちてどう生きて良いのか分からないような「生活能力のなさ」が現実だったことは彼女の周囲の証言(室生犀星など)を読めばよく分かる。三島由紀夫の発言「貴女は文学の楽園にすんでおられます」はこの人の佇む空間が一体どこなのかを端的に物語っている。

 

※※※

 国会図書館より取り寄せたもう一つの資料,コーバー月子「母・衣川孔雀」は森茉莉の連載が発表された17年後の1997年,伊豆下田の地域歴史誌に掲載された。なぜこのような限定された地域誌に載せたのかはわからないが,当時下田に居住していたからではないかと思う。2009年発行の『寺木だあ!』の著者鈴木祥井氏の後書きではコーバー月子はカリフォルニアに在住している。

 コーバー月子の文章は,自分が母寺木貞の過去を知らなかったことから始まっている。1913年から1917年の父,寺木定芳との結婚までの4年間,大正デモクラシーで新劇が演劇として確立しつつあったその時,あの松井須磨子と人気を争う女優,衣川孔雀として近代劇協会の看板女優だった事実を,孔雀の次女であるコーバー月子は17歳にして初めて知ったのだった。ここからは牛圓貞,否寺木貞あるいは衣川孔雀の娘に語った話となる。

 

明治末期の文学少女の母は,トルストイツルゲーネフに心酔し,お茶の水女学校へ,人力車で通う豊かな環境にあったのだが,或日突然,スペイン大使館に務めていた父が急死して,母と弟との生活につき落とされ,常日頃フランス語を習って,パリ,ソルボンヌ大学に留学を夢見ていた乙女は,一家の柱となる運命に出会う。(中略)その頃,出入りしていた,銀座の「カフェパウリスタ」で,ここが全く親子でよく似ているのだが,上山草人という,近代劇協会の新劇俳優にめぐり会う.母の若さと美貌に忽ち魅かれた草人は,(中略)早速母を説得して家に連れて行き,新劇など経済的に豊かでなかった為に,自分で作った舞台化粧品を売っていた「あかしや」(これは「かかしや」の誤謬)に妻の女優山川浦路と共に住まわせ,三ヶ月にわたって女優の訓練を与えた。

 牛圓貞は大変なお嬢様である。当時の女子の最高学府お茶の水女学校に「人力車」で通う少女。そんな隙のない良家の子女がどうやって17歳にして殿方10人と性行為をすることが出来るのか?そして大橋崇行の『黄金舞踏』にあった台詞,

 

「あなたが十人目の殿方でしたが,今までのどなたよりも大きかったの。それで,つい我を失ってしまって」 

「貞(上山草人の本名三田貞)さんに一度抱かれたら,もう他の男では満足できません。どうか,私を俳優にしてください。それを受け入れてくださるなら,きっと私は他の殿方たちと別れます。お願いです。どうか,どうか私を捨てないでください。」

大橋崇行『黄金舞踏』2024年 潮文庫 248・256頁)

 

 こんなご乱交を大正時代の17歳のお嬢様がしていたとは,いくらスペイン大使館勤務の一等通訳の娘だからといってあり得るだろうか。頗る疑問であると同時に,自分の母親についてこんな醜聞を書かれる子どもたちの気持ちを察してみたらいかがだろう。

 

※※

 森茉莉は鷗外の娘として格別の少女時代を送っていた。彼女も又女学校に人力車で通っていた。そして牛圓貞が通っていたお茶の水女学校に小学校時代は通っていたが,運針の教師が嫌いで登校拒否を起こして中退,仏英和女学校(現在の白百合学園)に転校した。15歳で見合いをし,17歳で学校を卒業すると仏文学者山田珠樹と結婚し,山田の私費留学についてパリへ渡った。しかし山田の女性関係が元で離婚となる。次に嫁いだ先も仏文学者で佐藤彰の後妻となるも,赴任先(東北帝国大学)の仙台には銀座も三越もない,とぼやいて実家に戻された。森茉莉は牛圓貞を草人が見初めたカフェパウリスタにも当然出入りしている。この人は衣川孔雀と同じく娘時代は最上級の生活だったのだ。だが離婚以降,特に鷗外の印税が切れた後の独居生活では,森家で享受したあらゆる楽しみは閉ざされ,まさに著書『記憶の繪』よろしく美しき過去の思慕に生きてきた。

一方衣川孔雀は寺木との結婚後,女優業を辞めたが,その後の生活は歯科医寺木定芳の妻として,寺木の開いた賭け麻雀のサロン「湘南クラブ」のホステス役として,そこに集う患者の文士たち菊池寛,里見弴,久米正雄,久保万太郎,藤原義江直木三十五横光利一らをもてなした。森茉莉のような貧困とは無縁の,幸せな人生を送ったのではないだろうか。そんな人生など森茉莉は知らない。しかし,衣川孔雀が美人であったということだけは,深く記憶していたようで,彼女のエッセイには時々孔雀が出てくるのだ。

 

私の父親は衣川孔雀が須磨子に比べて芸に謙遜なところが好きで,美も認めていたが,母の方は須磨子が好きで彼女が或日家に来た時は喜んでいた。

衣川孔雀は父親が「千人切り,千人切り」と口癖に言っていた男で,その父親に抱かれて寝ている内に千人切りが大変偉いものだと思いこみ,すごい魔力のある女に成長した女で,(中略)そういうなりは眼の大きな鼻の高い,所謂美人がやると,変にいきすぎるが,眼立たない,一寸女学生風の孔雀がすれば素敵にちがいない。

   (森茉莉『記憶の繪』より「大正時代の新劇とその人々」184頁以降)

松井須磨子サロメ

…教壇そっくりの台の上に現れたクライスラアが一礼して弓を楽器にあてるや,静かな,どんな荒れ狂ったヒステリィ女も鎮まるような,きれいな音が流れ出したことに感動したり,「アルト・ハイデルベルヒ」のケテイが衣川孔雀の足元にも及ばないことに失望したり,…

     (森茉莉『記憶の繪』より「続・伯林の夏」309頁)

 

 衣川孔雀の美貌は誰が見てもそうだったらしい。

 

…歯科医の父と結婚して,ピタリと女優を退めた後でも,鎌倉の海岸辺りに出て行くと「孔雀だ,孔雀だ」と人がさわぎ,父は不愉快な顔をしてパラソルをたたんで帰宅したのだという。

(コーバー月子『母・衣川孔雀』:「下田帖」第41号96頁)

 

 極めつけは1944年三田文学1月号に発表された大岡龍男『逗子夫人』で,

 

...とうたはれた衣川孔雀であることを記憶から呼びおこし得た。あの逗子夫人が衣川孔雀の後身であつたのか······

 

 孔雀が演劇界から去って30年以上が経っているのに,50歳に近い彼女をこうして文章にしたためている。

 実の娘のコーバー月子でさえ,

 

子供の時から母が美しいという事を知っていたが,なぜ自分が母のように美しく生まれなかったのかと,くやしかった。

       (コーバー月子 上掲書100頁)

 

 こんな調子である。コーバー月子の上掲書には,

 

いつか読んだ森鷗外の小説の中に,「まるで孔雀のようにきれいだ」という会話があり,それは鳥の孔雀ではなく,帝劇の美しい美人女優の事だとあったのを覚えていたが,まさかそれが自分の母親の事であったなど夢にも思わなかった。

             (コーバー月子  上掲書 96-97頁)

 こんな鷗外についての文章があるが,この「まるで孔雀のようにきれいだ」が書かれている小説とはなにか,筆者は確認出来ていない。

 森茉莉のエッセイで,母親は松井須磨子の方が好きだったと孔雀に手厳しい志げが紹介されているが,コーバー月子も

 

森鷗外はグレートヘンの孔雀を可愛がり,人形の家のノラ役を推薦して,その翻訳の原稿を記念に上げるとまで云ったと,母は尊敬し,慕っていたが,奥様には恨まれたというからその辺の事情もあるらしいが,… 

(コーバー月子 上掲書 99頁)

 

 と森志げと牛圓貞とは良い関係ではなかったことを告白している。ただ,コーバー月子は母親にあらぬ汚名を着せた,当時10歳でしかなかったのに事実を知らないであろう子供が,後にエッセイストとしてあたかも知っているかのように執筆している森茉莉を許せなかった。上記の文の前後はこうなっているのだ。

 

森鷗外の娘茉莉が古い本などから索引して,面白いおかしく書いていて,この草人の『煉獄』からそのまま,孔雀を節操もない,淫乱,下品な女優とこき下ろし,その父親までがセックスメ二アと侮辱したという記事を載せた。…(上掲文)… 明治の文豪の娘が,前後の事情も説明せず,一方的に草人の狂人に近い恨みをぶちまけた本から,ゴシップ記事を作り,原稿料を稼ぐとは,アメリカでは「イエロージャーナリズム」,全く情けない,低級な記事扱いだと,私は新潮社に抗議文を送ったのである。   

                                                   (コーバー月子 上掲書 99頁)

 

 上山草人という人物は証文好きだそうで,嫉妬に狂って孔雀にも毎月のように血でしたためた誓約書(他の男と浮気しない誓い)を書かせたとある。それが本当かどうかはわからないが,事実であるのは,寺木と結婚した孔雀が近代劇協会を辞めるとき,草人が他の団体の芝居に出ないことを誓わせた。しかし一度だけ京都南座で上演される沢田正二郎新国劇『飛行曲』のエンミーという役に夫の寺木と沢田の頼みで出演が決まったときに,草人が激怒し短刀を隠して京都駅に待ち伏せした事件があった。これは東京日々新聞の記事にもなっている。結局待ち伏せを察知した寺木と孔雀は大津で汽車を降りてタクシーで行ったという。

 こうした上山草人の嫉妬に狂った挙げ句の小説が,花札仲間の谷崎と生田の序文を得てあたかも私小説のように扱われたことに悲劇がある。そして父鷗外も含めてその小説を信じてしまった森茉莉のお人好しさも,孔雀の娘コーバー月子にとってみれば許せない罪過である。もしかしたら,女優衣川孔雀の活躍を,森茉莉はパッパと孔雀のかかわりから嫉妬していたのかもしれない。母志げが,須磨子を推しているのに孔雀の服装にこだわり,茉莉にその服装をさせるあたり,志げも孔雀を意識していたに違いない。そしてコーバー月子の文のように,鷗外が孔雀をノラ役に推薦し,記念に翻訳原稿を上げると本当に語ったのを知っていたのなら,茉莉が嫉妬しないはずがない。パッパは茉莉だけのパッパ,彼女が書いているように,パッパ鷗外は茉莉を膝の上に載せ背中を軽くたたきながら,

 

お茉莉は上等,お茉莉は上等,目も上等,眉も上等,鼻も上等,頬っぺたも上等,脣も上等,髪も上等,性質も素直でおとなしい」

 

 と茉莉をご満悦にさせるのだ。その父鷗外に格別の寵愛を受けていたのではないかと孔雀を疑えば,孔雀の評判と美貌を認めるが故に嫉妬も膨らんでしまうかもしれない。

 

 孔雀がただ美しいだけではなく,俳優として格別だったことは『ファウスト』の劇評でも十分に分かるし,コーバー月子が母親と帝劇の楽屋に先代の水谷八重子を訪ねたとき,八重子から「お母さんは続けていたら大女優よ」と言われた述懐で,もはやお墨付きを貰ったも同然だ。そこまで外見も演技も素晴らしかった母親を娘は誇らしく思うだろうし,それと同時に面白おかしくこき下ろしたもう一人の娘の父親にしか向かない気配りに怒りがこみ上げてきたのも無理はない。

 

 コーバー月子が新潮社に送った抗議文の反応は何もなかったらしい。それから,唯一孔雀側に瑕疵があるかと思われる,「あなたにお気がおありなら遊びましょう,という目だ」事件だが,『寺木だあ!』によると,孔雀は流し目が癖だったらしい。家族にも流し目を使っていたそうだ。ただ,そんなドメスティックなことは森鷗外にはわからないから,誤解されても仕方ない。

 

 要するに,この二人の娘は互いに愛する人を愛するが故に互いを許せない。だがその根底には茉莉にはパッパへの深い愛の,月子には母への誇らしい愛の激流が流れている。これが二人の娘の共通点だ。愛故に他人を傷つけ,他人を非難する。どちらが悪いとか,正しいとか,間違っているとかここで勧善懲悪を述べても無駄だと私は思う。でもこの論争に救いがあると云えば,先ほどから述べているように,愛情が深いから憎しみも増大しているという点だ。愛がなくてただ憎しみだけが表出されていたら,それは邪悪で,意味のない行為だが,愛があるから憎まざるを得ない場合はいつかは憎しみを乗り越えて,愛のみを振り返ることも可能に違いないのだ。そう思いたい。