映画「陽炎座」4K版のÄsthetikと泉鏡花の原作の耽美觀,そして「夢二」へと続く女の情念の発展

0.はじめに

 2月上旬近所のシネマで鈴木清順作品4K化として所謂浪漫三部作が上映された。

この文章は2月5日に鑑賞した「陽炎座」についてその原作である泉鏡花のそれと比較することでめいめいの「美」について考察してみたい。

更に翌6日に鑑賞した「夢二」と「陽炎座」における女の情念についても分析してみたい。

 

1.原作と映画は別の作品である

 このところ,あるマンガのドラマ化が原因で人の死に関わる残念な事件が起き,にわかに「原作」と「別メディア化」の乖離やどうあるべきかが問われている。

本日鑑賞した鈴木清順陽炎座」も泉鏡花の『陽炎座』とは筋も登場人物も異なる部分があり,映画化というよりは別作品と捉えるべきである。むしろ映画監督鈴木清順泉鏡花の作品からインスピレーションを得て,独自の美的感覚で制作した映像作品である。こういうときにいつも原作と比較されて問題になるのは,それは題名が原作と同じ名称を使うからではないかと思う。鈴木も浪漫三部作の第1作は内田百閒の『私』,『サラサーテの盤』から着想を得ているが,こちらは「チゴイネルワイゼン」という全く違う題名にしてあるので,見る方も違和感を感じないのではないか。

 映画「陽炎座」は泉鏡花のそれと異なり,中盤まで子供芝居の場面——泉の作品では最初から子供芝居の劇場に松崎が迷い込んでいく——が出てこない。松崎と品子の邂逅と品子の夫で松崎のパトロンである玉脇に松崎が品子との邂逅(松崎は品子と言う名前も知らないし,それが玉脇の妻であることも知らない。行きずりの女としか思っていない。)を告げる場面に終始する。

 これは鈴木の映画と泉鏡花の小説では筋の展開方法が異なる故の差違でもある。

 鈴木清順は松崎が得体の知れない女と三度会い,会うほどに懇ろになりながらもどこか気味の悪い感覚,そして探究心が愛慾に変貌していく事への恐れを描き出している。映画の主人公松崎は得体の知れない女を警戒しつつも惹かれ,悩みながら堕ちていく,愛に対して我が儘で自分勝手で馬鹿な男の本質を映像化していく。その勝手な愛の追求が後半の子供芝居における事象,女たちの情念が齎す復讐へと結びついてくる。謎解きは後半へと進まなければ解けない。

 一方で泉鏡花の『陽炎座』は子供芝居を見ながら松崎がお稲と品子のエピソードを知り,自分がかつて3回ほどお稲を見たことを思い出すのだ。松崎にとってお稲も品子も恋人でもないし,恋愛の対象でもない。品子は芝居小屋で偶然同席した夫婦の奥方でしかないし,お稲は通りがかりで見ただけの美人さんでしかない。泉鏡花の作品において,女の情念は松崎には向けられずに法学士の男(映画では医者の玉脇にあたる)に向けられている。

 このように全く筋の展開が違うのだから,互いに共通点を求めて鑑賞するのはあまり意味がないと思う。なぜならば両作品の主題は別だからだ。

 さらに鈴木清順四方田犬彦氏とのインタビューでこんなすっとぼけたこと迄述べている。

 

 四方田:「『陽炎座』というのは鏡花の原作ですね。鏡花はお好きですか」

 鈴 木:「あれは、そうですか。鏡花がモトだったのですか。脚本を渡されて撮っただけで、鏡花は読んだことがないから……」

      (四方田、絶句。金沢での泉鏡花映画祭の壇上で)

 

 故に原作と映画作品の類似性やらを考えることはあまり意味がないことだと私は判断したい。

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2.登場人物の絡み方

 登場人物に関して言えば,泉鏡花の原作の方が単純でわかりやすい。押さえておく所は法学士,その婚約者だったお稲,お稲の婚約を私利私欲のために破壊する兄と兄嫁,法学士と結婚した品子,そしてこれらの人物とは全く関わりのない戯作者の松崎。あとは芝居小屋で松崎にお稲さんのことを話す古女房だ。鏡花の作品では松崎は最後の最後まで品子ともなんの関わりもない。最後に法学士の男に請われて品子を追って面倒なことに巻き込まれるまで。つまり松崎は傍観者として陽炎座に座っている客である。当事者でもなんでもない。強いて言えば読者の目線であると言えよう。品子はお稲に同情しつつも自分も哀れな女として法学士を憎んでいる。法学士は自分の過去が引き寄せた二人の妻の悲劇を理解しようとはしない。それどころか,自分の悲恋こそ二人の妻が抱いている悲劇だと勘違いしてこれまで生きてきている。その勘違いを認めない。最後の修羅場は品子の女としての権利と主張する幕切れであるが,最後の最後に,それが松崎がお稲の悲劇を知っての霊媒師による降霊を頼んだ話だったという,本文の殆どが非リアリズムのたまものだった大どんでん返しをやってくれる。松崎は法学士も,品子も,お稲さんも,古女房もみんな邂逅していない。霊媒師の口寄せに過ぎない。

法学士がお稲さんの霊を「お稲荷さんだよ」とうそぶいたように,この話全体が狐につままれた話なのである。泉鏡花の小説らしい構成ではないか。

 

 一方鈴木清順の映画は登場人物にコノテーション的なものがちりばめらる複雑さがある。例えばお稲さんは実は金髪碧眼のドイツ人で本名は Irene である。玉脇は暇人な医者であるが,ドイツ留学の際に Irene を見初めて連れて帰ってくるのである。この原作にはない,法学士を医者に変え,ドイツ留学時に恋人を作って帰国時に恋人も来日するエピソード,何か匂わないか?大正末期の舞台設定ではあるが,これは森鷗外とエリス,小説で言えば『舞姫』を安直に連想させるわかりやすい伏線を作っている。鷗外を慕って来日した本当のエリスはドイツへ帰国させられたが,玉脇は結婚してしまうのだ。ある意味「反森鷗外」的結末の人物。この趣が面白い。ただ,鷗外は明治時代の立身出世,富国強兵のために個人的恋愛を棄てて文学の中にこれを封じ込めた。そして現実の鷗外森林太郎の人生は諦念の連続だった。しかしながら,自分のエリス= Ireneとの恋愛を成就させ妻にできた玉脇はどうだろう?伯爵位のために品子を「購入」し,その結果個人主義社会からやって来た Irene は情念に苦しみ発狂してしまう。そして玉脇自身は「女なんて飽きたね。いちいち面倒くさい。」と愛情を拒絶し,性欲だけに女を求める諦念にたどり着いてしまった。結局鷗外も玉脇も異性との人間的関係には失敗したとしか言いようがない。この皮肉を脚本家は描きたかったように私には思えてならない。ちなみに玉脇を演じている中村嘉葎雄は,この映画の7年後に実相寺昭雄がメガホンを取った「帝都物語」で森鷗外を演じている。この「陽炎座」の美術が実相寺映画の美術を担当している池谷仙克なので,何らかの繋がりがあるように思えてならない。

 松崎はパトロン玉脇の気紛れに乗じて手のひらで弄ばれている悲しい男に過ぎない。そんなことは松崎自身も理解している。だが,理解していてもそこから逃れることは敢えてしない。ある意味芸術家の分際とは何かをわきまえていて,そうすることによって,苦しい生活から逃避行出来ることを知っているのである。諦念の人玉脇にとって,松崎は自分が諦念する分,希望を与えてやることで自分の代わりに面白いことをさせる道化師の役回り。玉脇には他人の人生を尊重する良心など全くない。人を愛することは——物理的な肉体関係という愛慾行為以外には——ない。愛を捨て去った人間と見える。だから松崎に人を愛させて楽しんでいるのである。彼にとって人間の恋愛は単なる余興に過ぎない。

 この余興の対象となったのが,二人の妻,お稲と品子である。お稲も品子も玉脇を愛している。だからこそ愛を棄てた玉脇には余興にうってつけの好都合な女だった。男を愛する女はその男を裏切らない,玉脇は自信を持っている。そんな玉脇をお稲も品子も初めは互いに嫉妬心を抱いたはずだ。嫉妬は互いの女に向かって,愛する玉脇には何の危害ももたらされない。しかし,二人は自覚する,玉脇は自分を愛していないと。その瞬間二人の愛情は嫉妬ではなく憎悪に変わる。その憎悪は玉脇に向けられる。金沢で同じ舟に呉越同舟のようにお稲と品子が乗り込んで進んでいくのは,その表象だと私は解釈する。そしてその憎悪を復讐に変えるために,松崎が山車にされるのである。しかも人の良い松崎は品子を愛してしまう。品子は松崎を愛していたのだろうか?復讐の鬼と化して松崎を懐柔する品子にとって,もし松崎を愛する気持ちがあるならば,4度会うための,金沢に誘う手紙は確かに書かないだろう。お稲の霊が品子に書かせたのならば,そういう品子の優柔不断な部分をお稲が補完して復讐を成就させようと画策したとしか言いようがない。心中が起こることを玉脇が知っているのも,お稲の霊が品子の優柔不断さにつけ込んで,品子と松崎の心中であると玉脇の嫉妬を惹起させるための策略を仕込んだのではないだろうか。お稲と品子は同じ目標=玉脇への復讐を抱いているが,互いに足らない部分を補っている関係に思えてならない。発狂して病院から出られないお稲に変わって品子が,松崎を手玉に取る。松崎を男として愛してしまいそうな品子に変わって,お稲の霊が松崎を金沢に誘い出す手紙を品子に書かせる。

 この映画にはアナボル(アナーキストボルシェビキ)の和田と玉脇の女中だったが,お手つきで鳥屋とカフェーで働いているみおが脇役として絡んでくる。この二人の役どころは「男がいかに女に愛情で惚れてしまうかという馬鹿さ加減」を話の伏線として紡ぐというものだ。男にとって,女はセックスをして寝取ってしまえば従順になる雌犬だと思い込んで,実は自分こそ女に溺れていく愚かな動物であることを,和田の生き方,和田が金沢で松崎に見せる人形の裏の細工,みおがなぜ玉脇の家から離れたのに,玉脇の息のかかった生活環境に甘んじて暮らしているのか,それはみおにとってもWIN-WINの関係だから,玉脇を慕っているようで利用しているのが実際だと言うことで「哀れなオス」を描写している。

 映画版の「陽炎座」の登場人物はこのように様々な役どころを担っているために複雑な動き,複雑な人との絡み方をしている。

 

3.映像と文章のÄsthetik

 泉鏡花の作品はいつも幻想的な主題であり,登場人物の人間性を刻んだ筋書きではなく,登場人物が伝説や童歌や物語に翻弄されながら,最後は何もなかったかのように狐につままれて終わる。鏡花の耽美とは文のリズムと筋の幻想性に尽きる。

 

 針で運んで縫ったように,姿を通して涼しさの靡くと同時に,袖にも褄にもすらすらと寂しの添った,痩せぎすな美しい女(ひと)に,

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 このように泉鏡花の文章はできるだけ七五調になるようにリズムを拵えている。これが彼の小説の中心的な題材になっている東京の下町の叙情を演出しているように私は思える。

 簡単に言ってみれば,歌舞伎の台詞のような文章を紡いでいるのだ。泉鏡花の作品は,実は音読することが一番重要であることを現代人は忘れている。

 

 一方で鈴木清順作品は映像で独自の美学を創造する。しかしそれは映画の文法を逆手に取った遊びで作り上げる。だから論理的に考えれば考えるほど鑑賞者は理解不能に陥るようになっている。橋のシーンにおける松崎は動いているのに手元の人物は静止している。理解不能な状況。登場人物就中品子の神出鬼没なモンタージュ楠田枝里子演じるお稲さんの金髪を黒く染め上げた高島田,そして青い目が月夜に光る違和感,女の魂だという酸漿(ほおずき)の存在。手漕ぎなのにモーターボートのように敏捷に水上を走行する舟にのって移動するお稲と品子,単なる廃墟としか思えない陽炎座周辺の様子。金にものを言わせる玉脇の華麗で絢爛な洋服姿。これはモボではない。どちらかと言えば,ナチスの高官ヘルマン・ゲーリングバロック趣味で自宅でそういう衣装ばかりを着ていたのと同じ匂いがする。服の好みが男性的ではないのだ。ベルばら風なのだ。

 

4.時代を遡ることと時代を反映させること

 泉鏡花の『陽炎座』は大正二年5月発表作品。1913年といえば森鷗外が『ファウスト』を翻訳し冨山房から出版した年。そしてその翻訳を元に近代劇協会が帝国劇場で上演した年だ。鏡花の作品は作品と発表当時の読者の生きている時代が一致している。昔の話ではなくて,その当時,現代に生きる人が現代の話として異常な空間を体験する不思議な話。時代を反映させた話である。しかし現代でも読者は違和感を感じる発端となる映像がない分,その時代の人間として本の世界に入り込める。文芸の世界とは,時代意識を目で感じることがない分,読者がアンガージュマンの文学として作品にのめり込める特徴をもっている。

 

 ところが鈴木清順の映画では我々は最初から大正末期という現代とはかけ離れた過去を訪れなければならない。鑑賞者の目に飛び込んでくるものが全て現代ではない。大正時代の衣装,乗り物,店構え,屋台で売られている飴細工…。ここに虚構の世界へと迷い込んだ意識が最後まで永遠に続く。この違和感がある限り,我々は映画の中に没入せずに客観的でいられるのだ。だからモーターボートのような手漕ぎ舟も陳腐だが見ていられる。お稲の容姿も普通はあり得ないが,見ていられる。鑑賞者が映画に入り込めない違和感を意識し続けられるからこそ,鈴木清順の不思議な美学は息づいていられる。ラストシーンの,瓶に飛び込む品子の口から出る酸漿と,その後一気に浮き上がる無数の酸漿の橙色。超現実の世界でこの映画が魅せるのは自然ではない異次元のものがとりまく知らない空間の表象。これを死んでいる人々の世界と呼ぶべきかはわからない。ただ,自分たちが生きている空間ではない。時代を遡る意識を持たせられて,最後には現実ではない見知らぬ空間へと登場人物たちが去って行くのを見届ける鑑賞者の私たち。この不思議な時間の経過が鈴木清順映画の存在感なのだろう。

 

 

5.女の情念をなぜ男が撮るのか

 ここからは「陽炎座」とその翌日見た「夢二」における女の情念を比べてみたいと思う。田中陽造がどちらも脚本を書いているが,鈴木清順のシュールな映像は1981年の「陽炎座」では筋の整合性をぶち壊すような暴力的かつ不自然的なものが主流となっている。現実世界ではない何か,がこの映画を占有している。ところが10年後に完成した1991年の「夢二」では,異次元的なものよりも金沢という古い日本にハイカラなものが継ぎ足されている独自の背景を十分に活用して現実における異次元空間を創り出している。「陽炎座」と異なり,目に見えているものは現実に存在しているもので,幻想ではない。

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 私はこの違いが二本の映画におけるテーマ,「女の情念」の質の違いを感じ取りたい。——人間にとって,人を愛することほど物理的エントロピーの高い精神的行為はない。嫌いな人物と会うことは確かにストレスになるが,大抵の人は分かってるのなら嫌いな人には会わないように避けるのである。ところが,好きな人物,好意を寄せる人物を避けて会わないなどという人はまずいまい。だが,会ったところで,自分が想像する相手との関わりは,単なる想像の産物で,実際に関わって体験する行為は予想を裏切る展開ばかり。気が気でない,思い通りに伝わらない,抱いたり・口づけたりする展開へ至るための駆け引きがあったりする…。これは精神的には困憊するものだ。況してや自分がこんなに恋心を抱いているのに相手が全く関心を持っていなかったら,またはかつては持っていたが,今は赤の他人へと関心が移っているのが明白だったら…。こんな辛いことはない。そのとき,その辛さの八つ当たりをどこへ向けるか…。

 愛の変容には二つの段階がある。

 一つは自分がこんなに愛しているのに他人に愛情が向けられている事を認識して,その他人に向かって抱く嫉妬である。この段階では自分の愛する対象には嫉妬しない。自分の愛する対象が関心を持っている者に対する嫉妬である。よって愛する人には変わらぬ愛情を抱き続ける。この情念が「夢二」における脇屋巴代,笠井彦乃の抱いているものだと思う。彼女たちは夢二を罰しない。殺さない。夢二と無理心中しない。「二人で生きて行く覚悟」を夢二に迫るのである。

 二つ目は自分の愛情が踏みにじられてしまったのを自覚して,それに対して憤怒の念がこみ上げてきて,愛する人が関心を持つ対象などはもうどうでもよくて,愛する人を憎悪で亡き者にする情念を抱くのである。ある意味恋愛至上主義止揚(aufheben)された形,自分のこれだけ深い愛を諦め・捨て去ることなど出来ず,現世から二人共が去ることで来世で結ばれると勝手な解釈を暴力的に実行する決意である。無理心中だ。

 人間の性差をどうのこうの言うのは今では不平等だと裁かれる時代になってしまったが,鈴木清順がこの映画を撮った時代は明らかに男女でこの情念への決断力と実行力には差があると思われていた。駆け落ちをしたり,無理心中をしたりする男女は一体どちらが強い決意を持っているか?見合い結婚の夫の教え子に恋し,夫と子供を残して駆け落ち,他にも妻子のある男性と不倫関係を続け泥沼を全て作品に書き込んだのは誰あろう瀬戸内晴美瀬戸内寂聴)だった。太宰治は3回の心中を図ってるが,1回目は太宰は生き延び,女(田部あつみ)が死んだ。2回目の妻小山初代との心中は失敗,3回目の心中で玉川上水に飛び込んでやっと二人とも死んだ。——こんなことを書くと女の決意は男の決意よりも強いように表現されるが,実のところはそうではない。厚生労働省の統計では令和4年の交際問題の自殺率は男性58.6%,女性41.4%で男性の方が多い。これは単なるイメージでしかない。イメージでしかないのだが,文学・芸術の世界で愛憎劇を彩るのはなぜか男性よりも女性をメインにした方が喜ばれるのだ。偏見に満ちているのは事実だが,絵になるのだろう。

 鈴木清順もそう思ったはずである。「陽炎座」では心中を強行した。松崎は単なる山車で,お稲も品子も愛を棄てて諦念に生きる玉脇と心中した。玉脇が二人の妻とあの世で結ばれたかどうかは分からない。一方松崎は品子に先立たれたが,自分の精神が品子の幽霊を見つけて心中する。精神とは,松崎の肉体から離れた彼の心だ。暗転後に登場する松崎は,アナボルの和田のように人が変わってしまった姿で登場する。

 「夢二」はどうだろう。脇屋巴代と笠井彦乃はすれ違っても呉越同舟はしない。互いにまみえることも最後の最後までない。しかし二人とも夢二と駆け落ちは相成らなかった。二人とも駆け落ちの場所まで来たし,脇屋巴代は途中まで駆け落ちしたが,場所を動かぬ夢二に着替えをしてくると去って行った。笠井彦乃は夢二を見つけることが出来なかった。女は行動した。しかし夢二は「僕は誰を待っているのだろう。」と自問自答しているのみ。

 まとめよう,男たちの様子を。玉脇は無理心中の巻き添えになった。彼がどんな思いを抱いたかは全く分からない。松崎は山車にされつつも品子に惚れ込んで,玉脇への愛憎を果たした彼女の姿を自分の精神が勝手に見つけた気になって魂を心中に捧げた。つまりこれ以降愛を諦念した。精神的に玉脇になったのである。プレイボーイの夢二は駆け落ちを回避してどこにたどり着くのか一向にわからない愛の揺らぎに身を任せている。皆勇気のない,愛に生きられないダメ男になってしまった。品子の言葉がダメ男たちを斬り捨てる

 

 「ホホホホホ。どこまでお馬鹿さんなんでしょう,男って。命を懸けてまでなぜ不義を働いたのか,女の気持ちなんてちっとも分かっていないんですから。」

 

 作家にとっても,芸術家にとっても,男性であれば,描写対象が女性であり,上のような台詞を吐いてくれれば,永遠にテーマが枯渇することはない。好都合な題材ではないか。

 自分の映画は娯楽映画であって大それた芸術ではない,要は興行成績が上がり,客が楽しめるための工夫や努力をするだけ,という鈴木清順のスタンスを考えればこの作り方は十分首肯出来るのではないか。

 

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