中学生の頃だったか、ちょっとした小論文を書いていた時のこと、担任の先生から「評論家にはなるなよ。」と言われた。論文を書く職に就きたければ研究者になれ、という意味だったらしい。
評論家も研究者も単純に見れば物事を論じる分には同じように思えるわけだが、実は評論家が作品に対して公平で批判的に論じているかといえば、それは怪しい。
ある種の評論家はものを論じ紹介する事で、読者をそのものへの消費者になるように導く役割を担っている。なぜそう言えるのか、即ち
①評論家は評論で生計を立てているので、評論を掲載する出版社・メディアの意向を無視することは出来ない。
②出版社・メディアがある特定の作家・品物と様々な利害関係で結びついている場合、評論家はそれを援護する立場で評論しなくてはならない。出来レースである。
③自分の好みを推すよりも、満遍なく様々な作品・品物の良さを論じた方が仕事の幅が広がる。
市場原理の上に評論家業も成り立っているので、それを度外視すれば自分の首を絞める事に繋がりかねない。
例えばオーディオ評論家が雑誌で新機種の視聴をする場合、それぞれの特徴なり、利点を取り上げて読者がどの機種に興味があってもプラスイメージを持って買えるように書かなければ意味がない。雑誌で取り上げている以上は「この機種は買うな!」と書いたらNGだ。
書評だって、取り上げている以上はその書籍を宣伝し、読者を増やすための行為のはず。頼まれてもいないのにつまらない本を「こんなつまらない本が出た。世も末だ。」と書評に取り上げる評論家はいまい。
映画評論家としては日本一であろう淀川長治は日曜名画劇場で取り上げた作品について、それがどんなものであろうと魅力を語る事に専念している。コレからTVで放送する映画について「こんな駄作見るべきものはない」とは絶対に言わない。
つまり何か商品を紹介する評論にはバイアスがかかっている事は否めない。
一方で市場経済の中で公正にものを批判できるとすれば、研究者かも知れない。但し彼らは学問の自由の下に平時は保護されるが、有事になれば政敵として「いの一番に」失脚させられる、政治家にとって目の上の瘤だからだ。(御用学者以外は)
最近はTVでコメントするのは知識人として大学教員か取材側のジャーナリストが多いような気がする。局も公平性を掲げたいのだろう、学者兼評論家の起用が多くなった気がする。大学に籍を置かない純粋評論家の主戦場は雑誌・ネットにあるようだ。それと同時に雑誌・ネットにはライターという商売人もいる。このライターと純粋な評論家の境界線が正直よく分からなくなっていないか?どんな分野でも頼まれれば調べて書くライターさんと、自分の専門の立場から論じる評論家が同じクオリティーだったら評論家の立つ背はないだろうな。
そもそも純粋な評論家という職業の人はどれくらいいる、あるいはいたのだろうか。例えば商品を論評するのではない、政治・経済や芸術、音楽などの評論家として名高い人々を考えてみよう。
音楽評論家で名高い吉田秀和は確かに雑誌に評論を書いていたが、桐朋学園の創立者の一人であり、桐朋では楽典や高校生に国語を教えていた。教務面だけではなく学務にも関わっていた。
鶴見俊輔も随一の評論家だが、彼は京都大学、のちに東京工業大学、同志社大学教授と研究畑の人だ。
丸山眞男は東京帝国大学法学部卒業のエリートで、大学に残った研究者である。東大法学部教授だった。
美術評論家の場合、大学教員、研究者以外に学芸員やキュレーターという仕事の傍ら評論活動をしている事も多いようだ。研究職に籍を置いていない美術評論家(前衛・アングラ)の石子順造は鈴与倉庫のサラリーマンだが、実は東大大学院で美術史を修めている。日本にシュルレアリスムを紹介した瀧口修造は1939年から日本大学の講師を務めていた。
こうしてみると評論家として名を残している人の多くはどこかで大学講師をしている率が非常に高い。大学教員であるというのはある意味専門家、研究者だから利害関係に遠慮せずに自由にものを言える立場と認められうる状況なのかも知れない。
そうなるとあの時中学校の先生が「評論家になるなよ。」と仰った具体的な評論家って一体誰なんだろう?
ものを売るための評論家のことなのだろうか?