遺灰は語る(LEONORA ADDIO)

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全編を通して感じたことは,イタリア人の精神文化の根底には良くも悪しくもカトリック教会の教えが厳然と存在し続けていること。

 

遺灰を載せた飛行機だとわかって全員降りてしまうのは迷信深い人々を意味するが,迷信と荘厳はカトリック精神の中核でもあろう。終戦後のイタリア,駐屯してきたアメリカ軍への複雑な思い,イタリアは敗戦して再び連合軍に加担し戦勝したことになっている。戦後初のイタリア首相はアメリカの強い支援で支えられたAlcide De Gasperiだった。古代ローマから綿々と続く輝かしい文化国家イタリアが,歴史の浅いヤンキーたちに蹂躙されて生き繋いでいる惨めさ。しかしこれも神の試練だとすれば,この理不尽に耐えてイタリア人は暮らしていかねばならないのだ。シチリアへの列車の中で登場するアルザス人の女性とイタリア人のアベック。捕虜収容所で知り合った二人は,男性の故郷であるシチリアで暮らすために乗車している。つまりアルザス人女性は故郷を捨てたのだ。これはアルザス人の複雑な人生を暗示させ,同時にシチリア人の同じような複雑な生き様に重なりはしないか。——これは映画では表現されていないことだが——アルザス人はフランス人でありながら,ナチス・ドイツ占領下ではフランス国民ではなくドイツ民族として,ドイツ人として扱われ,アルザス人男子はドイツ兵として出兵させられた。WWII終戦後は,他のフランス人から「売国奴」扱いされてナチス呼ばわりされた。そんな故郷にいるよりも,恋人の土地で静かに暮らしたい,そんな気持ちなのだろう。これも運命だ。

 

後半部のピラデッロの短編「釘」のドラマ化ではシチリアを父と旅立たねばならない少年のやるせない気持ち,覆すことの出来ない運命,そうした不条理に絶えながらNYで生活してたまたま遭遇した女の子同士の取っ組み合い,恐らくネックレスを奪おうと赤毛の少女Bettyがイタリア人?少女につかみかかったのであろう。

奇声をを発しながら二人はつかみ合うが,背の高いイタリア人少女には赤毛のBettyは勝てない。それでも襲いかかる彼女に主人公の少年は拾った釘で一刺しし,殺してしまう。警察で少年は一言しか言わない ”apposta” (=“on purpose”「定め」) ただそれだけ。

つかみ合う二人の背景にある洗濯物の風景が,シチリアを出るときに母親が高い枝に結んだ布とオーバーラップし,Mamma への思いの鬱屈した心情がBettyを釘で刺す爆発的行為へと導いたのだろう。釘を拾ったこと,喧嘩する二人との邂逅,鬱屈した心情の爆発としての殺人行為,これらをすべて少年は「定め」として受け入れるのである。なんともカトリック的ではないか。

警察署の別室に横たわるBettyの遺体から靴を脱がせ,少年は心の中で語りかける。「出所したら君に会いに行くよ」そして刑を終えて出所した少年は老境に至るまでBettyの墓標を訪ね続ける。——Bettyの墓標,それは記憶の彼方へと追いやってしまったMammaが自分を渡米させまいと夫につかみかかるシーン,その光景を重ねてBettyとMammaが渾然一体となっている場所。少年に予定された「定め」の一つではないか。

 

映画の最初と最後に劇場の天井が映し出され,拍手が響く。劇作家Luigi Pirandelloの遺灰を運ぶことがメインのこの映画だが,映画自体が複雑な劇中劇で構成され,いつしか映画全編が劇であるかのように意識される。そして劇場の天井が映し出されて拍手が響くのである。

 

まさに人生は劇場なのかもしれない。しかし台本は運命によって予定されているのだ。

 

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