Humanitas 「人間らしさ 」に就いて

FAUST:

Habe nun, ach! Philosophie,

Juristerei und Medizin,

Und leider auch Theologie!

Durchaus studiert, mit heißem Bemühn.

Da steh ich nun, ich armer Tor!

Und bin so klug als wie zuvor;

Heiße Magister, heiße Doktor gar,

Und ziehe schon an die zehen Jahr,

Herauf, herab und quer und krumm,

Meine Schüler an der Nase herum -

Und sehe, dass wir nichts wissen können!


ファウスト

哲学もやった、

法律も医学も、

それに神学までやったのに!

調べに調べてやり尽くしたんだ。

でもどうだ、おバカな俺が居るだけだ!

頭の良さは昔とおんなじ、

修士だ博士だとひけらかして

10年もの間学生の鼻を

縦横斜めにクルクル

回した挙句が、コレだよ、

俺たちゃ何も解っちゃいない。(拙訳)


→そうさ、その通り。
一生懸命勉強したって、
賢くなったなんて意識は持てないよ。
だから一生勉強なんだ。
勉強しないやつは、そこまでって事だ。
人の器にはそれぞれの容量があるからね。

 

「分かる」って一体なんだろう?
何も知らないって分かる事は、「自分は賢いなんてならないよ」と悟る事かも知れない。
そうやって永遠に探求し続けるしかない、と悟る人間を仏教では बोधिसत्त्व ボーディサットヴァ(菩薩)と呼ぶのかね?

 


でもね、なんでも分かってしまったら、それは神の領域で、全知全能の神には向上心なんてないだろうし、増してや探究心もないでしょう。
それじゃ人間としては人生面白くないよね。不完全だから求める気持ちが湧くのだから。

だから彼の悪魔が学生に書いた格言、

“Eritis sicut Deus, scientes bonum et malum.”

(汝神ノ如ク成リテ善悪ヲ知ルニ至ラン)

は大変な皮肉だ。
神にとっては善も悪もないでしょう。悪は神の創造の一部であって、意味のある事。
善と悪に分けるのは我々人間が成長するために区分して利用する為なのだから、上記の格言は人間に人間的であることをやめてしまえ、と言っているようなものだ。

 

で,人間は愚かなる者で,学んでも忘れ,同じ失敗を繰り返して生きている。
「歴史は繰り返される」とCurtius Rufus が語ったこの事実を,ニーチェは ewige Wiederkunft(永劫回帰)と名づけた。ただし,全く同じ事を繰り返しているわけではなくて,それはバネのように繰り返しながら上へと伸びていくことで一段一段ステップアップしていくのではなかろうか。

——人を好きになって,恋に破れてもまた次に好きな人が現れる…馬鹿な情念の燃え立つ様を繰り返していると言えるのは端の人だけ。当事者には通じない。

——試験前になって,やっと重い腰を上げてノートをまとめて重要事項を覚えても,試験が終わるとすっかり忘れる。で,翌年同じ箇所が試験範囲になるとまた同じようにまとめて覚えての繰り返し…記憶の繰り返しなんて,労力の無駄か?でも試験のためにはその無駄が実力に変わるのだから止められない。

——美味しいお料理をレストランで戴いて,しばらくするとまた食べたくなる。あの時の感動や驚きは二度目三度目になると当然薄れてくる。でも食べたい。…味覚の繰り返しって,新しい蓄積なんてないかもしれない。でも慣れた味でも満足するのはどうして?

——好きになった本や絵を読み返す,見返すのは視覚と記憶の無駄遣いか?

 

人は繰り返すから人生を楽しめることも沢山ある。これも人間らしい業だね。